買う=支援!ポリシーに合う会社に加担しよう:飢餓肥満問題を身近なところから

買う=支援!ポリシーに合う会社に加担しよう:飢餓肥満問題を身近なところから

「解決策がある」と言う。
それは実際、解決策のひとつに違いないだろう。
いくつかあるうちのひとつの選択肢だ。

その「策」が実践され、実現したとき、その課題のすべてを解決してくれるかどうかはよくわからない。
もしかすると、いくつかの策を組み合わせて取り組むべきだったのかもしれない。

100億人のなかの飢餓と肥満

ある地域では肥満が問題となっている。
裕福にも飽食の社会となっていて、胃袋が無限大になっている。
本来なら摂取することのできない量の食料を、その過程で濃縮し、形を変えることで摂取できるようになった。
動物肉の生産やトウモロコシの糖などは、その例だ。

他方で、ある地域では飢餓が問題となっている。
飢餓の原因は何かと改めて考えると、クリティカルな原因がいくつか浮かぶ。
でも、そのなかのひとつを解決すればいいかと言うと、そうではない。
いくつもある原因を同時に解決しないと、解決されない話だ。


わたしたちを含め、これから100億人の地球になる。
「100億人になる”わたしたち”をどのようにして支えるか」が議題になることはときどきある。

100億人の人間はみな、食料を必要とするからだ。
だから、食料の増産は欠かせないのかもしれない。
それに、食料の適正な分配も欠かせない。
あるところには捨てるほどあって、ないところにはないからだ。


けれど、生産した作物の多く(3分の1ほどらしい)は人間が食べずに、動物肉を得るための肥育飼料に使われる。
動物肉を食べないようにしている人が増えているのは、このような環境負荷低減のための背景もあるだろう。
動物肉1000キロカロリーを生産するために、(人間の食料にもなる)トウモロコシなどの高栄養飼料をたくさん使い、そのほかにも多くの資源を投入している。
肉1kgのために必要な穀類が鶏肉で2kg、豚肉で4kg、牛肉で7kgだとされている。
牛肉1キロを食べるために7kgのトウモロコシを使っていることになるが、それならとうもろこしを直接食べたほうが資源は少なくて済むわけだ。


つまり、増える人口を支えられるかどうかという食料問題は、
農業技術で単位面積あたりの収量を増産できるかどうかの問題ではなくて、
生産された作物をどのように適正に分配し、利用するかの問題だろう。

だから、環境と食の教育のためにこんなことをしたいなと、個人的に考えている。

国民一人あたりが必要なカロリーの作物(穀類、野菜、果物)を割り振る。(例:2500キロカロリー/日)
適正に分配されたその作物は、個人で自由に使うことができる。
国民はそれらをそのまま加工したりせずに食べれば、十分に生活を営むことができるわけだし、バイオエタノールにするひともいるのかもしれない。

動物肉を食べたい人は、自分に割り振られている分の穀類を「自分が食べたい肉を育てる」飼料として家畜に与える。
けれど、そうすると自分が直接的に摂取できるカロリーは大きく失う。
なぜなら、動物肉は1000キロカロリー与えても、1000キロカロリー分の肉は生成しないからだ。
人間が直接食べれば1kgの穀類を摂取できるが、動物を経ることで消化吸収プロセスや家畜フンで”無駄”が生じ、最終的にその人に届く肉は減る。
(ひとだって、食べたものを100%吸収できることはなく、うんこで出てる)

でも、割り振られる作物は決まっているから、肉消費を増やせば、手元に残る残りの作物は減ってしまうのだ。

適正に食料を分配するということは、シミュレーションできたら興味深い。
それをもとに、自分の日頃の食事が低消費なのか、高消費なのかが明確に理解できるようになるから。




解決しなくてはいけない課題は、結構山積みだと思う。

食料を生産するために、地球環境を汚していたらアウト

とある惑星では、
「いまよりもっとたくさんのものをつくれ!!」と命令される。
でも、「予算と資源は据え置きだ!!それに、環境を汚しちゃならねー。その決められたなかで、増やすんだ!!さもなくば、死ぬぞ!!」と念を押される。
こんな不条理があってよいだろうか。

その星が地球です。



実際のところ、
人口増加と食料生産、環境問題はセットにして、同時に解決していかなくてはならない。
人口増加を支えるための食料生産に注力して、いまの社会構造を変えずにそのまま生産を加速させていけば、地球が滅びる可能性はより高くなる。
環境問題が増幅されるから人口増加を抑えてくれ と頼めば、人権や政治社会的な問題となる。
食料生産と環境問題の調和を目指せば、有機農業などでは100億人を養うことができないとなる。


でも、すべてを同時平行で策を講じなければならない。
それに社会構造やアグリビジネスの構造を変えないといけない。
いまはまだ、そのような流れが顕在化していなくとも、近い将来のうちにそのように取り組まざるをえなくなるから、準備が必要だ。


それに、食料生産のために地球環境を汚すことは、どちらにしても自分たちの首を絞めているだけだから、根本から変えないといけない。
どちらかを犠牲にする、もしくは、犠牲にしないと両立することができない と考えることをやめるべきだろう。

実際、命も地球も大切だけど、どちらかしか救えないとならば、地球を救わざるをえない。
なぜなら、地球が壊れれば、地球という家をわたしたち人類を含め、すべての生物が失うから。


というわけで、
このような複雑で(根っこがどこにあるかもわからない)いくつもの面を満たしうる基盤をつくって、その基盤の上でイノベーションを起こしていくのが良いと思っている。

問題は複雑。でも、自分ができることは限られている

ここまで紹介してきたように、大きな視点で考えると、さも高尚な人物になったかのように感じる。
それに、「結局、問題山積みでどこから手をつけたらわかんねぇじゃん」となりやすい。

でも、個人でできることは良い意味で限られているものだ。
たとえば、先進国の飽食社会と肥満の解決に取り組んでいけば、(時間はかかるけれど)連動的に飢餓の問題も解決されていく可能性はある。
では、飽食社会と肥満の解決策は何なのかと考える。

・廃棄している食べ物を減らす、なくす。
・無駄にした食料を再利用することを前提に、サイクルを考えない。
 (「これはゴミだけど餌になるから」は逃げ道として大きすぎる)
・食べるものを良いものに変える。
 (値段が高いものがかならずしも良い質のものであるとは限らないけど、そうに懐疑心を持てば、質の高いものを選ぶようになる)


総じて、食べ物を変えれば、大きく変わると思う。


ハンバーガーが悪いわけでもないし、ポテトチップスが悪いわけでも、ステーキが悪いわけでもない。
なぜなら、それらはひとつの料理レシピにすぎないから。
ポテトチップスはたしかに、高カロリーで塩分も多いかもしれない。
けど、作り方を変えればカロリーを抑えられるし、塩だってなくても作れる。

つまり、料理や食べ物が悪いわけではな決してないということだ。
問題は、その原材料の生産方法だったり、そのビジネスの裏に潜む闇だったり、プロセスの不透明性の部分だろう。
「肉やジャガイモそのもののすべてが悪い」と考えるのは、思考が飛躍している。
いつの時代も問題が起きるのは、使う側が使い方を間違えたときだから。

食べる物=買う物を変える


鶏肉をぼくも食べる。
それと同時に、鶏肉がどのように生産されているかを知りたいと思う。
歩くことができないくらいに肥大化したニワトリ。
食用肉を効率よく生産するために、本来は数か月かけて成長するのを1か月ちょっとになるように高栄養飼料を与えたり、満腹を感じにくくするような工夫をして延々と食べさせて肥満化させる。

そのような状況が現状になっている。
それをなんとも思わない。
それはわたしたちの食料を生産するためには仕方のないことだからだ。
言い換えれば、わたしたちがそのようなプロセスで生産される食料を望まなければ、そういう生産はされなくなるということでもある。


実際には、こんなに単純に進むことはない。
けれど、スーパーや衣服店で人気のない商品は徐々に陳列されなくなっていくことを見れば、理に適っていることだし、難しいことだとは思わない。
売れるから買い付けるだけで、売れないならお店も買い付けない。

だから、わたしたちが買わなければ店も仕入れなくなるし、
そうなれば、生産側もどのような生産プロセスがわたしたち消費者に求められているのかを尊重するようになる。

つまり、いまのアグリビジネスが環境に悪い(らしい)のは、消費者である私たちがソッチに誘導していたからなのだろう。

牛肉を食べたいなと思ったとき、
①「草原に放牧されていることで自由に好きな牧草を食べることができて、牛らしい行動や牛同士のコミュニケーションが自由に取れ、牛糞が草原の肥料となる」環境で育った牛肉
②「狭い柵のなかで、ほかの牛と体が密着する3密のパーソナルスペースで、高栄養な配合飼料のみを与えられ、牛らしい自由な行動を取ることは物理的にできず、糞尿は床に溜まっている」環境で育った牛肉

このような違いの牛肉がスーパーに陳列されていたとして、わたしたちは「値段や生産国」以外に、スライス肉になった牛肉の生産プロセスを意識しているだろうか?
①が100g200円、②が100g100円なら、迷わず②を買う人が多いだろうね。
日常的に安いほうを買っているとしたら、工業的な②の生産を支援しているということになる。

肉はそもそも贅沢品だと思う今日この頃である。




すべてのプロセスを知ったら、欲しくなったものもあれば、
すべてのプロセスを知ったことで、絶対に買いたくないというものも出てくるだろうが、
私たちが食べる物に関して「知らぬが仏」は通用しない。

買うことは支援だ

現在コロナウイルス渦中だ。
そのなかで、近隣の生産者や店舗を支援する動きがある。
存続してほしいから、買って支援する。

それと同じことで、わたしたちはなにかを買うことで必然的にそれを支援している。
たとえば、ぼくはビールは特定の会社のものしか買わない。
それはその会社に知り合いがいるからであって、支援の意味で買っている。


知り合いの商品があれば、買ったりする経験はみなさんもあるのではないだろうか。
それは、支援という動機が少なからず含まれているだろう。

わたしたちの日常生活は、行動の連鎖だ。
「スーパーに行って買う」というひとつの行動を、無意識にレシピと値段だけを気にして行っていたのであれば、
ぜひ、そこにその商品がたどり着くまでのプロセスを考えるとよいだろう。


もちろん、いきなりすべてを断つ必要などない。
コカ・コーラが特別な日のご褒美であってもいい。
でも、特別な日の飲食と日常の飲食では、頻度が違う。
だから、日常の食べ物は意識したほうが良い。

そういうぼくも、意識し始めたのは今年の2月からだから、まだ3か月目だ!
あと70年くらい生きる予定でいるから、伸びしろを考えれば、効果は大きいんだろうと思ってる。




スーパーでできる環境にいいことは、レジ袋をもらうかもらわないかだけではなく、
それよりももっとインパクトの大きい取り組みはいくらでもあるということを伝えたかった!


1日1クリック、お願いします!
ランキング参加中♪ →青年海外協力隊

応援いただけると、嬉しいです

*ただのブログ村のリンクです

スポンサードリンク
 




 




 

Chaito

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)