【芸術を嗜む】写実の絵画を見て、当時を知ることが好きだ『ミレー:落ち穂拾い』

【芸術を嗜む】写実の絵画を見て、当時を知ることが好きだ『ミレー:落ち穂拾い』

最近、美術館や博物館に足を運ぶことが増えた。

なにかを真似したり、すでに存在するものを効率化することが得意なぼくは、創造力があまりない。
だから、現代美術や芸術はよくわからない。
ただ音楽だけは毎日聴く。

「芸術とはなにか」などと考えたことはなく、ただただ「ぼくは芸術のことがわからない」と思っている。

それでも、最近よくわかってきたことは、ぼくは写実が好きだということだ!!

美術展で惹かれる作品

芸術にもいろいろある。
美術展に行くと、写真・洋画・和画・ハンドメイド・彫刻・生け花などがある。

生け花を習っているぼくは生け花の華展を観に行ったとき、写真の展示も必ず見る。
自分も写真をよく撮るからだ。
多くの作品に触れると、新しい価値観や技術(アングルや構図)を受け入れることができる。
だから、そういう勉強の意味で美術展をまわる。
(芸術の場合、勉強よりも「参考にする」のほうが合っているかもしれない。)


そうすると、興味を引く物ものあれば、そうではないものも出てくる。
しかし、自分が興味をもった作品が賞をもらっているかというと、決してそうではない。
僕の場合、「これが賞をもらえるのか。。」と、あまり僕の美的センスと合わない作品がもらっている場合が多い。

独創性が高い作品にそのような傾向がある。

ぼくがその独創性が好きではないと言うことだ。(優劣ではなく、好み)
一方で、ぼくが毎回惹かれる作品がある。

それが、写実の絵画だ。

写実の絵画が好み

ぼくは写実を眺めるのがとても好きだ。

ここでは、【写実】という言葉を『実際のままに写すこと』という意味で理解してほしい。
※写実主義がどうこうとか、そういう次元の高い話はまだ勉強不足なのでわかりません。


ぼくは、ありのままに写して描かれた作品に一際興味がそそられる。
それは、
「こういう場所があるのか」、
「こういう眺めやアングルがあるのか」、
「ここまでありのままに描けるのはすごいなぁ、どれどれ近くで絵なのかどうか見てみよう」
という感じだ。

新しい場所に行ったり、きれいな場所に行ったり、旅行が好きな僕は、そのように現実の物をありのままに写す作品を通して、思いを馳せるのが好きなのだ。

ミレーの「落ち穂拾い」が好き

ぼくの家には、イタリアのトレビの泉付近で買ったオードリー・ヘップバーンの真っ赤なポスターがある。
彼女の顔が大きな1枚のポスターに描き出されていて、彼女と目が合うこともしばしばなのだが、いかんせん彼女がぼくの部屋にいるようになって6年ほどになる。(コロンビアには持って行かなかった)
だから、彼女の視線を今や感じない。
目が合っても、目が合っている気はしない。

カメラを通すと、なんか現物とは違うのも事実だ



話を戻そう。

ぼくの家に、ミレーの「落ち穂拾い」のポスターが増えた。
もともと、「落ち穂拾い」という作品が好きだった。

農業に関する生き方を始めて、早10年近くが経つ。
大学1年生の中頃に、何の気なしに眺めていた美術の雑誌の最初の方に「落ち穂拾い」が載っていた。
手前に女性が3人いて、奥には豊作で山積みにされた刈り取られた後の麦が描かれている。
その絵画に、情緒を感じた。

1枚の絵から多くのことを知ることができる。
それはつまり、1枚の絵が多くのことを教えてくれる ことを意味していた。
だから、当時のぼくは絵や写真を見るのが好きだった。
どこかに行っても、ただ作品を眺めて、自分が読み取れることを読み取っていた。


でも、最近はきちんと作品横の説明を読むようになった。

「落ち穂拾い」は、ただ拾っているだけではない

大学生のころ行った、フランス草原の朝靄

ときどき、絵を「絵」というイメージで理解しているひとのなかには「落ち穂拾い」を種まきの光景だとイメージしているひとがいるが、
麦から落ちた穂をせっせと拾っている作品である。

昔のひとは「落ちた穂さえも無駄にせずに偉いなぁ」と思うわけだが、この作品に描かれているのはそれだけではない。
農民間の貧富の差と、それに基づく当時のフランスでの慣習も描かれているのだ。


当時のフランスでは、
農地を持っている地主である農家 と 農地を持たずに期間労働的な農家がいた。
同じ農民でも、裕福な農家と貧しい農家がいた。

「落ち穂拾い」の作品のなかで、中心的に描かれている、落ち穂を拾っている3人の女性は貧しい農家の人たち。
そして、奥で麦を山積みにしている農家たちは、その畑の所有者である裕福な農家たち。
落ち穂拾いをしているひとたちは収穫の終わった畑に落ちている穂を拾って、自分たちの食糧にするのだ。



そこに、当時の慣習的な情報を加えると、
当時、土地持ちの裕福な農家たちは収穫後の落ち穂を拾わないことがマナーだったそうだ。
落ち穂を拾ってしまえば、作品に描かれているひとたちのような土地を持つことのできないひとたちが困窮してしまうからだ。
だから、作品の奥の山積みの麦の近くで描かれているひとたちは、落ち穂を拾っているひとたちを気にする素振りがない。

おスイスのホテルからの朝焼け

このような絵からだけでは受け取りきることができない情報を理解しながら、昔の写実を観るとおもしろい。
そういうことに最近気づいて、芸術のなかでも写実の絵画が好きになっている。


おわり
以下、きちんとした美術館の説明です。

1856年から57年にかけて、ミレーは貧窮のどん底にあり、一時は自殺も考えたという。そういう時期に描かれたのが、この作品である。落穂拾いとは、刈り取りの終わった畑に落ちている糧を一粒一粒拾っていく作業のことで、最も貧しい農民が行うつらい労働であり、それをとり上げたミレーの作品は、政治的プロパガンダの意味合いをもつのではないかと評されたのも無理はない。また、この人物は畑に立っている案山子(かかし)だとまで酷評された。
ミレーは、自分は評論家ではないし、ただ自分が見た情景を率直に描いただけであると答えている。しかし、光と影によってみごとに綾取りされて彫刻のように浮かび上がる人物像と、≪仕事に出かける人≫や≪種蒔く人≫でも見られなかったコントラスト的効果をもつ背景の処理などに、ミレーの卓抜した技量が見てとれる。近景と遠景といった単純な対比だけを見ても、そのリアリティーのすばらしさには驚嘆させられる。まさに名画中の名画といえる。

また、この作品が名画中の名画と言われる所以は旧約聖書の一説が含まれているという点にもある。

旧約聖書(申命記)

あなたが畑で穀物の刈り入れをして、 束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。

ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。

心ある地主は貧しい農民のためにわざわざ多くの落ち穂を残したという。
ミレーはこのことについてただ「見たままを描いた」としか発言していない。
そこにも謙虚で寡黙なミレーの優しさがにじみ出ている。

西洋絵画美術館の「落ち穂拾い」の説明:http://www.artmuseum.jpn.org/mu_ochibo.html





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Chaito

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