意識高い系とバカにされる?意識ぐらい高く持とう:内向きのアクション

意識高い系とバカにされる?意識ぐらい高く持とう:内向きのアクション

「意識が高い」とはよく聞く言葉だが、どういう意味だろうか。

意識が高い(いしきがたかい)

常に向上や成長目指し、それに資するさまざまな事柄深く注意を払っている様子などを指して用いられる表現

実用日本語表現辞典

良い言葉に違いない。

自分の成長を志し、常にアンテナを張っている ということだ。
確かにそれは意識が高くないと、なかなかできることではないし、素晴らしいことだ。

私も含め、日々意識高く生活していきたいものだ。

まず始めに、意識ぐらい高く持つべき

「意識高い系」という表現については後々触れるが、
まずシンプルに「意識を高く持つ」ことは周りからバカにされたり、揶揄される類いのことではない。

なぜならば、「持つ」という動詞を使うから他者の目からも見える行動のように連想されてしまうが、意識というのは内面的な気の持ちようだからである。
つまり本来、自分以外の他人から気づかれるような行為ではない。

私は1週間において、6日間意識が高く、1日は意識が低い。
しかし、こういった個人の内面的な気の持ちようは、他者からは気付かれにくい。
なぜならば、自分の気持ちや感情を、いちいち他者に伝えることをしないからであり、伝える必要があるのかさえ不明だ。

したがって、意識が高いということは善いことであるため、意識を高く持つ者(あるいは持っている時)は素晴らしいと言える。
以前、こちらの記事で紹介したが、成長には内面的な成長と外面的な成長があると私は考えた。

たぶんだが、よっぽど行動力のある人(思い立ったらすぐ行動する人)でさえも、「頭のなかで考えていること」と「実際のアクション(行動)」を比較すれば、頭のなかで考えていることのほうが圧倒的に多いはずである。
だって、10分で思考を巡らすことのできることはとてもたくさんある(人を想う。宇宙に行く。空を眺めて、鉄塔に登りたいと思う。1日・1週間・1ヶ月の予定を考えるなど)が、10分で実際に行動に移せることは物理的に数も規模も非常に限定的だからだ。

「頭で考えること」:思考、意識  ⇒内向きのアクション
 「実際の行動」 :言動、行動力 ⇒外向きのアクション


思考や意識というのは内向きのアクションであるから、これを変えたり、あるいは高く保つことで、誰に迷惑をかけるでもなく「たった10分」が「されど10分」の自己鍛錬の時間に様変わる。
これは、外向きのアクションである、PDCAを回さなければならない実際の行動ではそうはいかない。

だからこそ、有限な時間を生き、体が一つしかない私たちにとっては、
意識を高く保てることは、個人の向上や成長のためにはとても善いことなのである。

個人の意識は、千差万別

意識が高いことは個人の意志による内向きのアクションであるから、他人に揶揄されることではない。
しかし、「個人の意志による」からこそ、『意識』とは千差万別であるということになる。

あなたの意識と私の意識が違うのは普通だから、である。
だからこの「意識」というものは「正義」にも似た取り扱いの難しさがある。正義の反対は、別の正義だからである。

1枚の絵を示されて、「みなさん、この写実の感想をおしえてください」と訊かれれば、回答者の意見が全く一緒になることはない。
人によって視点(意識)が異なるからだ。

だから、正直に言えば、「意識が高い」と表したときも、どんな意識なのかはわからない。
その人なりに、その人の自我のなかで意識を高く持っている という程度にほかならない。


したがって、いろいろな意識の高さがある。
それは、意識の種類の違いでもあるし、意識の深さでもあるし、思考回路の熟成でもあるだろう。
幅広さと奥深さと熟練性である。
これは数学のxyzの立体的なグラフをイメージしてもらえばいいが、よっぽどのことがない限り、確率的に誰かとまったく同じになることはない。
私が(x,y,z)=(25, 73, 52)の座標にいたとして、これを上限値100として仮定した場合、100*100*100=1,000,000、100万通りの座標が存在することになり、私はその1つの意識にすぎないからだ。
だから、意識が類似する人とはなんとなく思考回路が似ているのでわかり合える気になるし、他方で、まったく違うひとのほうが数は多くなる。だから、「自分と同じ人」を探すのではなく、「自分に似た人」を潜在的に探すのである。


ここでは言葉として「意識が高い」を使うが、意識が高いと青空に向かって上ばかりを向いているイメージを抱くが、現実的に「意識が高い人」がやっていることは自分の意識をどんどん深くしていくイメージだ。
自分と向き合い、自分の哲学や本質的な部分を理解しながら、それをもとに自我のなかで意識を洗練させていく。
これを、深層意識や潜在意識と呼ぶようだ。
高い意識を持っていることで深層意識にたどり着くというアプローチは、言葉としては上に行ったり下に行ったりでややこしいが、自分と向き合うという意味において同じだろう。
「キミは意識が深いね」という表現もなかなかおもしろそうである!!

意識の高さによって求められること:年配者=結果、学生=プロセスの鍛錬

意識が高い人で、すでに突き抜けているひとは意識高い系にはならない。
「意識高い系」というのは、草食系男子のような言葉と同じように他者をカテゴライズするときに使われる若者言葉のようなものだろう。
正直、年配のひとたちが40代50代60代、もっと言えば80代になっても、同い年に対して「君は意識高い系だね」なんて言っていたら笑い話である。

その年齢になったら、福沢諭吉的に言えば「賢者か愚者か」という表現になる。
つまり、ここで言いたいことは、意識が高いかどうかというのはプロセスだということである。

上述したように、意識の高さは外向きのアクションとは切り離されて考えるべき、個人の内向きのアクションである。
しかし、冒頭に書いたように、意識ぐらい高くなければ、よりよい外向きのアクションを行うことは難しい。
それは「意識が高いことによって物事を自分の哲学と照らし合わせて熟考し、その思考的プロセスの後に、より良い手段と方法で外向きのアクションに移す」からだ。
内向きのアクション⇒外向きのアクションの順になる。

全くの考えなしで言動に移すことは多くの人にとっては一般的ではなく、通常、なんテンポか、あるいはなん思考回路かは人それぞれでわからないがその人なりに考える余白(そのプロセス)を経て、実行される。


だから、意識を高めて、あるいは意識を深めて、その思考的プロセスを経た結果がようやく外面的に言動に現れるというわけだ。

したがって、意識を鍛錬することは、言動に移す前のスタートステップの精度を高めることにつながる。
もし東京タワーの頂上まで走って登ることを目的とした際に、地上からスタートするひとと中間展望台からスタートするひとがいた場合、展望台からスタートするひとのほうがより確実に頂上まで到達できるだろう。
(地上からスタートして、「新しい気づきやおもしろい経験ができた」と考える人もいるだろうが)


そういうわけで、年配のひとたちは学生や若者と異なり、プロセスではなく、結果(あるいは経歴とでも言おうか)で物事を語る傾向が強くなる必要性があるため、「キミ、意識高い系だね」とはならない。

他方で、学生の年齢帯においては、結果ではなく、プロセスの鍛錬を行っている時期であるから、意識が高い人とそうではない人の間にギャップが生まれる。

しかしながら、繰り返しになるが、「意識を高く持つ」というのは本質的には他人にばれる行為ではない。
ばれるのは大抵いつも、思っていることが言動に現れるときである!

意識が高いこと(内向き)vs. 実際の行動(外向き):若者に生じるギャップ

若者と言うと仮定する年齢が難しくなるので、学生を想像していただけたらと思う。
学生のころに、多くの人は結果などない。
何ができるかと言えば、①学問をする、②内面的に成長し続ける、③可能な行動をしてみる くらいだろうか。

私はもう年齢的には立派な大人だが、上のことにプラスして、④仕事をする、⑤自身を通じて社会に貢献する くらいしかできていない。
これは多分、年を重ねてもそんなに増えていくものではない。(⑥後世を育てる くらいか)


つまり、
若いうちというのは、経験や専門性などといった時間経過と共に増えていく自己資産(コンテンツ、強み)が少ないので、外向きのアクションの幅も限られる。
逆に言えば、若いうちは内面的な成長に十分な時間を充てることのできるまとまった期間でもあるので、有効活用したいところである。
(*学生や若いうちしかできないこともあるだろう)

したがいまして、高い意識にもとづく意識の深さ(自己哲学の形成など)が十分ではないままに外向きのアクションを取ろうとする場合、意識の高さと言動の不一致(ギャップ)が生まれてしまいやすい。
これは仕方のないことであり、大人はその「若者の空回り」をあたたかく見守るべきなのだろう。

若者が意識の高さと言動を一致させるために、「誰」に値する人物を志す

私は大学生のころは意識が高かった。
学科で1位を取って、成績優秀者になれば学費が免除になるし、今後の進路選択において成績優秀者であることがネガティブに働くことは決してないと考えていたからだ。
それに、自分で望んで入った大学のコースだったから、純粋に興味があったし、農業で国際協力を目指すところだったので自分がこれから途上国で貢献できることは無数にあって、そのなかから自分の進みたい専門性を選択することはワクワクする行為であった。
暇があれば図書館に入り浸って、講義の板書を書き写したノートをさらに別のノートに清書していた(1、2年生のころまで)。
もちろん、無料DVDで映画を視聴していたり(英語の勉強という勝手な位置づけ)、コナンのマンガを持ち込んで全巻読んでいたりした(つまり、図書館にいても必ずしも勉強はしていない)。
大学3年から研究室配属で、ミミズに惹かれて、好きになったからもっと知りたくなってよく学問していた。

当時のぼくは、意識高い系だと思われていたかもしれない。
でも、ぼくにとってはそれが普通だっただけだ。

いま、ここに書いているように「意識高いとはなんだ」みたいなことは当時一切考えずに、
「勉強って善いものだよね!学ぶって楽しいよね!これ自分の趣味兼学問だから、このままやっていこう」ということで自分のなかで折り合いがつき、今の自分に至る。


記憶を遡るに、当時Facebookが流行りだしたくらいだったので、Facebookで熱いことを書いたりしていた気がするが、それでも今のツイッターほどの感じではない(ツイッターやってないのでホントの所は知らない)。
身近な先輩、友人、後輩とは意識高い話をしていて、それは割と良い意味で伝播していった。
だから、当時のぼくは幸いにも、高い意識を持った知人や大人に囲まれていた。


私の学生時代は1回しかないので、そこからの振り返りでしか話を持ってこれないが、
意識の高い若者が「意識高い系」と揶揄されないためには、実力をつけ続けながら、他者に対する外向きのアクションを加減することだろう。
他者に対する外向きのアクションがどう評価されるかは、「何を言うか」もさることながら、「誰が言うか」が非常に大切になる。

したがって、ありきたりだが、「誰が言うか」の「誰」に値するような人物を目指すことは1つ考えても良さそうである。

SNSと高い意識を持つ若者の相性はよくない:意識高い系に成り下がりやすい


そして、昨今流行りのツイッターやインスタグラムなどのソーシャルネットワークにおいて、若い人が自身で築き上げてきたものが全くわからないので「誰」なのか非常にわかりにくいため、真に高い意識を持っている人も、その発言だけが情報として抜き取られて伝わってくるため、ただの意識高い系に成り下がってしまう。

そういう意味において、私は、SNSと高い意識を持つ若者の相性というのは必ずしもよくないと考えている。
自分のことを何にも知らない人に急に非難されたりする可能性があるからね。
(そもそもSNS上だけでは、自分の全てをさらけ出して知ってもらうのは不可能だと思う)

終わりに:自分という不変的な資本への積み重ね

終わるにあたって、「意識高い系」の意味を紹介しよう

意識高い系
別表記:意識が高い系、意識が高い人

自分世間から一目かれている」とか「さらなる自分磨き余念がない」といった雰囲気意識の高さ)を言動端々匂わせているが、実際に大した実績人脈があるわけではなく全力実現取り組んでいるわけでもなく)、単に「からデキる奴と見られたい」ための自己アピールに過ぎない、といった傾向顕著な者を揶揄した言い方

意識高い系の典型的アピール要素としては、過去活動経歴人脈の多さ、人脈の質、生活の充実度、自己啓発取り組み、高いハードルへの挑戦先進的技術サービスへの関心強さビジネスに関する造詣深さ、といった要素が挙げられやすい。平易言葉表現できるところを敢えて難解カタカナ語使いたがる、といった傾向も意識高い系の典型と見なされやすい。

実用日本語表現


人脈を作れること、人脈を持てることは素晴らしいことだろう。
しかし一度考えてほしいことは、「自分がその人脈のなかに入ったところで他者にとって価値はあるだろうか」という問いである。
そこに、自分に知識・技術・経験を積み重ねる意義がある。

純粋な自分個人の素晴らしさと自分が持つ繋がりの素晴らしさ(人脈や血筋など)は分けて考えるべきである。
虎の威を借る狐の「狐」のまま、年を重ねていってしまえば、虎に化けることはできても虎になることは叶わない。


意識にはさまざまなものがある。
意識を高く維持し、そしてその高い意識はホースから出る水のように向きを変えることも、量を変えることも、使い道も変えることができる。
高い意識を持つことには無限の価値があり、そして、無料の自己投資の始まりでもあるだろう。


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Chaito

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