匿名なネット社会と人の威厳:不特定多数の無関係者を気にしなくてはいけないか

匿名なネット社会と人の威厳:不特定多数の無関係者を気にしなくてはいけないか

人間関係には、赤の他人が存在する。
赤の他人とは無関係な人という意味だが、最近は「赤の他人だから気にするな」とは言いづらい環境になってきた。

ネット社会:不特定多数の世界

インターネットが当たり前になり、ソーシャルネットワークシステムが一般普及したことにより、人間のコミュニティは圧倒的に広がった。
良いことである。

たとえば、このブログなんかはよくよく探していただかなければ、目につくことはない。
YouTube的に表現すれば、3年前のコンテンツなのに500回再生しかされていないものばかりだ。
メディアが猛プッシュしたことによって、興味のないひとたちの目にも触れる機会が創出されているわけではない。

しかし、TwitterやInstagram、Facebookなどは、フォローしてしまっているだけで延々と情報が流れ続ける。
これは情報収集には好都合であるので、私は掲示板的に利用している。
それと同時に、まったく興味のない言い争いを目撃したりもする。
これは、いらない。

私は大学生のころ、ヤフーの知恵袋でベストアンサーをもらうことにハマっていた時期がある。
誰かの悩みを解決しながら、他者が抱える悩みや問題を自分ごととして考える訓練になると考えたからである。
実際、とてもおもしろかった。

最近は、自分自身のことやリアル社会の自分の周囲のことへの関心が高いので、このブログ以外のどこかにコメントを残したり、誰かに秘かにアドバイスをしたりすることはない。

それがいまの自分にとっての「よいネット社会との付き合い方」なのだろうと思う。

ネットで情報を仕入れることは便利で欠かすことができないが、浸ってはいない。
自分に都合よく説明すれば、「自分の言いたいことだけはここに書き残して、さもネットをうまく使えてますと言いたげ」である。

ネット社会での言い争い

匿名というのは便利なものである。

名を明かさずに主張できるからだ。
組織内のアンケートや意見箱の仕組みのように、匿名性というのは便利だ。
「名前(すなわち立場や身分)を明らかにする」ということが大きな意義を持つこともあれば、かえって、匿名性を使うことで事の重大さや組織内の実情を想像することもできる。
たとえば、同じ組織のなかで誰かへの不満をあげる際、それが正当な不平不満であったとしてもなかなか実名では主張できないものである。

さて、「まとめサイト」はそもそも匿名空間なので情報の信憑性はないし、ただただ楽しい空間であり、テーマによっては非常に興味深い個人見解が多数紹介されていたりする。
他方で、ヤフーニュースのコメント欄は半実名性とでも言おうか、完全な匿名性ではないため、(荒れがちだが)しっかりとした意思の強いコメントが散見される。
そして、SNSでは実名ではなかったりするものの、ある程度個人を特定できるなかで、ときどき言い争いや他者批判を行なっていたりする。

特に、年配の方が多い気がしている。
SNSの1コミュニティに属しているという意識が高いためか、結構な熱量での物議を醸しそうな投稿を目にすることがある。そして、総じて最終的に円満に丸く収まることはない。
誰かわからない、あるいは人物を特定できたところで現実社会においては身近な存在ではないので、歩み寄る必要性がないのだろう。
また、私も含め、そのネットコミュニティ上のやりとりには多くの傍観者がいるはずだが、仲介に入る人はほとんど皆無である。
ちなみに私は一度も仲介者が現れた場面を見たことはない。

これはシンプルにどうなのだろうか?
これだけネット社会がさも、リアル社会の大部分となりつつある現状において、ネット社会だけでは決して成り立たないということになってしまわないだろうか。
人として無関係の状態からネット社会上でつながりを持ったところで、結局のところその人となりを担保はしてくれないし、誰になにかの責任が発生するわけでもない。(逆に、ネット社会で信頼を得る方法を考えることにも役立てることができる)

「SDGsは陰謀論だ」と、SNS上の広告投稿に毎回コメントしている人もいる。
そこも含めての広告なのかな?とも勘ぐったりする。

 

ネット社会の身近さと人の威厳

どの立場の誰とでも簡単かつ気軽につながることができることは良いことのように思う。
しかし、じゃぁ天皇陛下にSNSをやってほしいかと問われれば、私は「NO」だし、首相や大統領、大臣などがインスタライブだとかに現れてダンスを踊った日には少し残念に思うだろうし、その一連の過程に抵抗を感じる。

情報が身近にあることと、存在自体が身近であることは違うようにも思う。相手に歩み寄ることと、相手のためになんでもしてあげることは違う。

最近は、威厳や畏怖という感覚が社会として薄れている気がする。かくいう私は人一倍他人の威厳を感じて尻込みしてしまうタイプなので、ネット社会やリモートワークくらいの画面越しがちょうどいい。
歩み寄りは確かに大切だが、無関係の不特定多数との付き合いにおいては、威厳を損なわないことも大切だと思う。(見栄を張るという意味ではない。内面的に優れた人が放つオーラのようなものだろうか)

とは言いましても、不特定多数のなかに、リアル社会で身近な人が匿名参加しているかもしれないのだから、何重にも考えを深化させ続けないといけない話である。
果たしてそんなこと考える必要があるのだろうか?もしかすると、考え続けるとなにか見つかる可能性もあるのかもしれない。

ただ思いついたことを書いただけなので、物申すのはいつも思いつきであり、簡単であるが、自分のなかで答えに行き着くまでは果たしない


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Chaito

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