「有機農業だから良い」というのは、”絶対”にありえません!!有機農業は環境に優しいのか?将来の農業のことを真面目に考える
今に限らず、昔から人間は農業なしに生活を行うことはできない。
現代で言えば、「有機農業」というカテゴリーは盲目的に「良い農業である」と考えられている。
しかしそれは、明らかに盲目的である。
『群馬県出身のひとは”疑いようもなく”、みな素晴らしい人間である。』
こうに群馬県への地元愛にあふれる人から説明されたら、どう思うだろうか?
「素晴らしいひとはいるだろうが、みんながみんな、全員が全員良い人なわけではないだろう」と不信に思う。
では、どうだろうか。
『有機農業は”疑いようもなく”、素晴らしい農業である。』
同じ構造のこの文章を見て、何人の人が違和感を感じるだろうか。
日本の多くのひとの頭のなかには、化学肥料や農薬をバンバン使う慣行農業か、その現状を救う救世主となる、有機資材を利用する有機農業しかない。
この2カテゴリーである。
目次 Índice
有機農業は、農業界のゴールなのか?
ぼくは農学部出身。
日本の図書(日本語で出ている本)で農業について学ぶと、必ずといっていいほど、「有機農業」という世界にはまる。
有機農業が、完全に環境を破壊している慣行農業の受け皿として位置づけられ、そしてまた、農学系の本ではそこを受け皿にしようとする。
つまり、(言い方は難しいが)農業は有機農業以上に発展しないと考えられているわけだ。
農業の究極形態が、有機農業。
だれが農家ととなって栽培しても、行き着く先は有機農業。
日本社会では、そのように見なされているからだろう。
「有機農業をやっています」、「堆肥をたくさん入れているよ」、「有機野菜だから」と有無を言わずに、農家さんや農業系の本の中では堂々と説明してくれる。
自分の行いや自分の生産物に対して、想いをきちんと持っていることは素晴らしいことだ。
海外の「有機農業」と日本の「有機農業」は違う
ぼくは興味があると気軽にそれに関する本を買うし、おもしろそうな題目の講演があれば、研究者のひとの発表を聴きに行く。
日常的に海外ジャーナルの論文を読み、そこで世界のトレンドを知り、それに対して日本、(今の場合)特に福島がどのような方向に進むべきなのかを吟味している。
ぼくが身を置いている環境では、「専門的な英語が読める・書ける・簡単に話せる」ということは普通の能力である。TOEICなどで証明する必要がない。
簡単に言えば、研究をしているひとで、日本のその分野の研究が日本独特の風土的な分野でない限り、英語で世界とつながる必要があるのだ。
たとえば、福島第一原子力発電所事故。
これは、日本の問題だと考えられているが、日本の一般人に向けた説明文でない限り、その多くが海外ジャーナルに英語で投稿・掲載される。
なぜなら、原発事故を科学的に精査する必要があり、また、チェルノブイリ原発事故や核実験によるフォールアウトなど、これまでの事象との比較やそのとき確認できたことや反省を活かして、福島原発事故に取り組まなくてはいけないからだ。
少し話がそれてしまったので戻そう。
海外(この記事では、欧米を指す)では、有機農業は農業栽培体系としてしっかりと定義されている。
それに、食への安全や農業経営の観点からも、とてもするどくなっており、「有機農業」が示す農業はきちんと無駄が削がれている。
つまり、「有機農業」の定義がしっかりしているので、「有機農業」のカテゴリーに入る農業体系の規格化がしっかりしているのだ。
そのため、日本の有機農産物をヨーロッパに輸出しようとすると、作物中の硝酸態チッソ濃度が、ヨーロッパの食品中基準値を完全に超過してしまい、輸出できないことが知られている。
また、ヨーロッパからの旅行者に対して、日本で販売されている食品のなかには(彼らの基準からすると)危険な生産物があるので、注意喚起を促す活動もあるほどだ。
では、その日本の有機農業を考えてみよう。
どうだろうか。
有機肥料を使っていれば、有機作物。
鶏ふんを完熟もさせずに、乾燥させただけの乾燥鶏ふんをそのまま畑に撒くことが多い。
それ、堆肥化しなくて良いのだろうか?
そして、その堆肥をきちんと未熟・中熟ではなく、完熟状態にして、作物に対してはもちろんのこと、土壌に対しても悪影響がないようなレベルに達しているだろうか。
植物(作物)や土壌は自然世界のものなので、急激な変化を好まないことは想像に優しい。
完熟していない堆肥を畑に入れれば、嫌気的に腐敗が進む可能性もある。
それによるガスで、作物は傷まないだろうか。
その生ものをすき込んだ土壌というのは、自然プロセスから考えて、”自然”で環境に優しいのだろうか?
ちょっとフライング:
畑を耕すことは”自然”ではないし、時代遅れです。
話が有機農業から逸れて、あまりにも深い方に行ってしまうと収拾が付かなくなってしまうので、ちょっとだけ。
自然界において、土が上下ひっくり返ったり、土がみじん切りになるように攪乱されることはありません。
その時点で、土壌が侵食されやすくなり、土壌機能の舵取りをする土壌生物を抹殺しているので、いまの世界のトレンドからしても””全く””持続的ではないのだが、農家さんがその現実に気づいていることはほとんどないのです。
あとで別記事できちんと紹介するが、
モントゴメリー博士が書いたこの3冊の土壌に関する本は、農業における土壌への無関心さとその大切さを世界のトレンドの最先端で説明している。
日本語訳がちょっと難しいのだが、世界の土壌研究の最先端で、新しい農業(耕さない農業)の重要性を幅広い観点から説明している。
3冊目の「土・牛・微生物」はついこの間、2018年8月31日に販売された。3冊目が最もキャッチーなタイトルに思えるかもしれないが、この3冊は話が続いているので、「土の文明史」から順に読んでいくことを強くおすすめする。
そうしないと、日本以外の世界のトレンドとなっている保全農業(無駄に耕さない、有機物マルチ、輪作。FAOも推奨している)の意味が全くわからないまま読み進めることになり、日本語訳の難読性から嫌になると思う。
このモントゴメリーさんは地質学者なのだが、耕す農地における土壌侵食速度が“自然ではない”ことを証明し、世界の農作物栽培の在り方に対してとても強く貢献している。
本の中の面白い話では、
・モアイ像のあるイースター島が耕作による土壌侵食によって文明が滅んだこと
・これまでの数ある高度文明が、土壌耕起(耕すこと)によって土壌肥沃度が低下し、都市人口を支えることができなり滅亡したこと
などを紹介している。
土壌がなくなったら、農業を行うことができなくなるので、土壌を守ることが大切。
有機農業の管理では、育土といって土を育てることはがんばってしようとしているが、土を守ることは考えていない。
最も土を失うのは、耕起、土を耕すことです。
だから、耕せば耕すほど土を失い、土壌の持続性を下げるので、その管理は持続的では決してないわけです。
われわれの文明も、これまで滅びた文明と同じ軌跡をたどっていたのだが、化学肥料によって延命できている。
まぁ、化学肥料の使用によって、土壌の劣化(簡単なところで言えば、土壌が本来持つ一次生産能力=植物生育の低下)が文字通り、雲に撒かれていたわけだ。受け入れたくない真実を、うまくもやにかけて、気づかないようにできていた。
でも、化学肥料の大量利用が、地球全体としての窒素の循環を狂わせている。
つまり、間違った栽培管理をしていることを、化学肥料の投入によってごまかし、それによって地球を汚染しているわけだ。
と、まぁこういう地球規模の環境の話をしても、普通、全く心に響かないものだ。
だからこそ、環境問題というのはなくならない。
そこに仲介役として割って入るのが私たち研究者の役目で、新しい農業栽培を提案して、その輪を広げる(普及する)ことで、自動的に「土壌も良くして、環境汚染も起こさない栽培体系」の両側面を満たす枠組みをつくる。
その新しい栽培体系、「保全農業 conservation agriculture」についてはまた今度。
ちなみに、この国連も推奨する世界的なトレンドの「保全農業」と、日本の「環境保全型農業」というのは全く違う。
日本国が進める「環境保全型農業」というのは、有機農業だと考えてもらってかまわない。
つまり、有機農業というのは、最先端の持続的な農業体系ではないということだ。
有機農業だからって、たくさん有機肥料を使っていたとしたら、結果慣行農業と変わらない
化学肥料が悪いモノではない。
化学肥料をたくさん使うから、それが土壌の養分保持能力を超過し、環境中に放出されて環境問題になっているわけだ。
だから、土壌の能力を超過しないで、ごくごく少量を使う分には悪いモノだとは思わない。
ひとによっては化学物質アレルギー(?)で、農薬はもちろんのこと、化学肥料が使用された農産物を食べることができないひともいる。
そのひとたちにとっては、ごくごく少量の化学肥料であったとしても、害になってしまうので注意が必要だ。
さて、
有機農業だと、堆肥などの有機物由来の資材を利用するからだろう、たくさん畑にまくことが良いことだと考えているひとが意外なほどに多い。
そして、それが真に完熟堆肥であれば良いのかもしれないが、そうではなく、農地で追熟させるようなやり方をしているひとも多い。
(ぼくが「堆肥」についての説明で歯切れが悪いのは、現在日本で最も優れた堆肥作りのプロのもとに堆肥を学びに行っており、堆肥の奥深さを理解しているから。だから、もっとガツンと、わかりやすい表現をつかったほうがわかりやすいと思うだが、そこまでの確信はないので、情報収集中である。)
有機肥料であれば、どれだけ畑に施肥しても問題ないのだろうか?
堆肥であれば、良いのだろうか?
日本の有機農業のその多くの場合、「慣行農業からの脱却」というイメージを農家さんが持っている。
言い換えると、農家さんは慣行農業をベースに農業の在り方を考えているということになる。
この考え方がどういうことを招くかというと、
・これまで化学肥料を使っていた部分を、有機肥料で代替する。
・これまで農薬を散布していた部分を、有機農業認可の特定農薬で代替する。
となる。
多くの人はこうに考える。
それが普通だ。
化学物質をたくさん利用する慣行農業から脱却したいから、消去法的に有機農業の栽培方法を採用しているんだから。
そして、ちまたにあふれた有機農業の本の多くも、そのように「慣行農業の何かを”代替する”」栽培方法を指導している。
だから、有機肥料をドカドカドンドン畑に入れることに抵抗はない。
正しく言えば、「有機肥料をたくさんいれなくては栽培できない」ような栽培方法しか知らないだけだ。
果たして、それで有機農業は環境に優しいと言えるのだろうか???
もちろん、有機農家のなかにはとても素晴らしい農家も居る。
「日本の有機農業」というのはそのくらい定義が漠然としたモノで、有機農業だから良い とか、有機作物だから身体に良い とかそういう直線的かつ盲目的に有機農業を褒める構造は良くない。
そして、
慣行農業を基準として新しい栽培体系を考えるのではなく、
自然界を基準として新しい栽培体系を考えることの方が、より持続的であることはわかりやすい。
だから、慣行農業のまねごとをして有機農業をするのでは、根本的に何も解決されないのは火を見るよりも明らかなのである。
日本の有機農業は想い で、海外の有機農業はビジネス??
海外の有機農業は、その栽培管理や土壌中の養分濃度、収穫物中の栄養分など、しっかりした基準があり、検査がある。
だからこそ、海外では有機農産物は評価され、きちんと高値が付く。
慣行農業に比べて、有機農業の方が繊細なので作業は大変だと思うが、その分きちんと収益が得られるようなビジネスモデルが組まれる。
日本の有機農業は、それに比べると、フワッとした印象を受ける。
定義や基準がぼんやりしていて、その質が各農家個人個人のやり方に委ねられる部分が圧倒的に多い。
有機農家さんが意識することは、「有機農産物」という肩書きであるような気もする。
*ぼくは農業について考えるうえで、それを生産してくれている農家さんに対して、敬意を持っています。
そのため、農家さんという人物を議論の対象として、なにかを言うことは好きではない。
ぼくの議論の対象は、いつも栽培管理や施肥管理、土壌管理と行った”農家さんの手から離れたモノ”である ことをここできちんと宣言しておきます。
どういう想いで農業をやっていても、それをぼくがとやかく言うことはないし、そのひとの人生に口を出す筋合いは全くない。
だから、海外から有機農業の研究者の方が日本に来て、日本の有機農業の現状についてきくと、話が全く合わない。
ビジネスのために有機農業の定義がしっかりしているひとたち と 慣行農業から脱却したいという想いから有機農業をやっているひとたち。
これらの大きな違いを統計データとしてきちんと比較することが難しいのは、容易に想像が付く。
日本の有機農業というのはそのくらい千差万別で、カテゴリーとしては「有機農業」というひとくくりで有機農家さんたちはくくられるのだが、実際その栽培などを見ていくと、ひとくくりではくくりたくないほどに大きな違いが見えてくる。
はじまりのおわりに
この記事はそろそろ終わりにさせます。
ぼくは、大学のころ慣行農業と有機農業についてよく知り、そして、世界にはその2つのカテゴリーしかないものだと思っていました。
しかし、ミミズに惹かれ、土壌のことを学び進めていくと、あるひとつの栽培体系に出会いました。
それが「保全農業」と呼ばれるものです。
日本語の本でこの「保全農業」について書かれたきちんとした本は、
このモントゴメリー博士の翻訳本だけでしょう。
というのも、ぼくたちは「保全農業」について研究しているので、同業者がいるかどうかはすぐわかるのです。
そして、いないこともすぐにわかるのです。
この3冊は、日本の農家や有機農家には、衝撃的な事実を突きつけます。
なんせ、これまで人類が何千年と当たり前だと考えていた「耕す」という農作業が、人類が犯したもっとも大きな間違いであったことを証明しているからです。
耕すことが間違い?????
何を寝ぼけたことを言っているんだ!!!!!!
と、突っかかれることは、この記事を読んでくださっている人たちのみならず、日本で有機農業を研究する人たちや農業を取り巻くひとたちにとっても同じです。
それが普通なので、安心してください。
この記事は、「有機農業=環境に優しい」という安直なイメージをみなさんから払拭したくて、農業系の記事をぼくが書く上での入り口としました。
私たち人間は、食べることなしでは生きていくことはできません。
その食べ物や生産されるプロセスに気を遣うことは、なにも農家さんや研究者だけの関心事ではなくなってきました。
子どもを育てる親、自分の身体を気遣うひと、栄養バランスを考え不純物を摂取したくないひと。
そういうひとたちも徐々に増えてきました。
ぼくはいまありがたいことに、将来の農業を創っていく、そういう世界に身を置くことができ、感謝しています。
おうちが冷え切っていて、足の指先が冷たくなってきたので、この記事はここまで。
長かったのに読んでいただきありがとうございます。
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このページを読めたこと、とてもラッキーだと思っています。
というのも農業の本当の最先端がどこにあるかを知りたいと思いつつ、なかなか分からなかったからです。
腸内細菌の研究から土壌も菌が大事だろうとは思いつつ、農業の文脈で語ってくれる人が見当たらない。
わら一本の革命、奇跡のリンゴ、パーマカルチャー、不耕起、無施肥、自然農法などなど、自然に優しそうな農法はざっと目を通しましたが、科学的な裏付けが見当たらない。
ちなみにアメリカの自然農法入門者の間ではパーマカルチャーが人気ですが、これは農法というより土地開発に近くて、何か勘違いしてるんじゃないかと不思議です。
とにかくじゅんぺいさんは本当に自然に優しい農法を科学的な裏付けから語ってくれそうで、大いに期待しています。
農業も”ものづくり”だと考えています。
良いものを作ることはもちろん、そのプロセスをよく考え、そして、その先にあるビジョンを正しく描いて技術開発していく必要があると思います。その際に、未来のある・地に足ついた「ビジョン」を持っているかどうかは、非常に大切なことです。
自然農法やパーマカルチャーの哲学も好きで、本を読んだり話を聞いたり、その価値観を自分の一部としたりしてきました。コロンビアでも、「福岡正信を知っているか?」と突然パーマカルチャー実践コロンビア人から話しかけられたことがありました。世界的に受け入れられていることに驚きました。
信念を大切にする方もいますし、科学的根拠を大切にする方もいますので、そのバランス感覚を持つことも大切だなぁとよく思います。
現段階では、不耕起有機農業の実践が全世界の農業界の最先端ですね。雑草を含む植物の根っこを土壌中に残しておくことなどの細かくも重要な管理項目はありますが。
数年のうちに、ひとつ大きな真に持続的な農業のあり方を提示できるように日々頑張ります。
コメントありがとうございます!