一度習得したことは忘れないから、時間を大切に【知識・技術】

一度習得したことは忘れないから、時間を大切に【知識・技術】

嫌な出来事も忘れない。
とびっきり良いことも忘れない。
頼まれごとは忘れてしまうけど、
自分が真剣に向き合ったことは忘れないものだ。

それに一度乗り越えた壁というのは、それ以来もう乗り越えなくても済む。

志や考えていたことを忘れない

学生のころ、「農業分野に進もう」と決める以前、ぼくは「持続可能な社会の実現」に関心があった。
農業分野に進もうと決めたときも、「持続可能な社会とはどういうものなのだろうか?」ということが入口にあった。
(志を持っていただけでビジョンが漠然としていたので、大人に真面目に叱咤激励されたこともあった)

途上国などの国外の社会や人々のことがモチベーションになった時期には、FAOなどグローバルな進路を取ろうと考えていたこともあった。
一方で、途上国のことを学ぶにつれて、日本が国外の諸国に与えている影響を否が応でも意識するようにもなった。


食料の問題や環境問題が、ぼくのその当時の強い関心だった。
日本を良くし、それが他国の目標やひとつの良いモデルとなれば、それは地球レベルで大きな意義になる。
他方で、青年海外協力隊や開発コンサルタントのように、途上国の現地で彼らの生活を豊かにするサポートをするという考えもある。

社会的政治的に区切られたコミュニティ内での取り組みは千差万別だが、食料や環境問題に国境は関係ないから、良い在り方を示すことは分け隔てなく大きな価値になる。
そのように学んでいたので、ぼくの意識は、そのときの興味関心によって国内外を自由に行き来した。

一度考えたことは、忘れなければ振り返ることができる。
(覚えておくことが大変だから、ぼくはブログに書き溜めている。過去の考えから学ぶことも多い)

当時セーブしたところから、リスタートできる今

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ぼくがミミズの重要性に気づいた時期は、世間で再生可能エネルギーがブームだったころだった。
だから、再生可能エネルギーを卒論のテーマにして、大学院の進学先研究室を「再生可能エネルギー」に関するテーマで探していた時期もあった。

再生可能エネルギーについて勉強すると、その送配電システムの再構築の必要性や、それに合わせて都市デザインを変更する必要があることを副次的に学ぶ機会に直面する。
再生可能エネルギーにも発電方法はさまざまあり、そのすべてが「環境に良い」というわけでもないということは察しがついた。

けれど、残念なことに、
僕の地元の近くでも森林伐採をしてまで、大きなソーラーパネル(メガソーラー)が設置され始めていた時期だった。
街の一等地になりうる空き地にソーラーパネルを敷き詰めているのは異様な光景で、なんだか不思議な感覚だった。
山の南側の急傾斜地によく見えるように設置されたときには、「土砂崩れで落ちたりしないのかな?」と不安に思った。


結局、数か月間「再生可能エネルギーの自給利用」に取り組んでいたうちに10冊程度本を読み、その社会的・政治的・制度的難しさゆえに、あきらめた。
大学生がひとりで取り組んでも先はなく、そのような企業に就職しても自給的な再生可能エネルギーの利用よりも、都市デザインをすべて大きく変えるような大きなビジョンしか抱えていなかったからだ。
そのような都市スケールでドッと進めるやり方は、ぼくのイメージした「環境に良い」再生可能エネルギーではなかった。
頻繁にシンポジウムやフォーラムに足を運んでいてワクワクすることもあったけど、なんだかエネルギーにまつわる世界は経済的な面によって進められる速度が速くて、ついていけなくなってしまった。


でも、当時数か月の間だけでも関心を持って勉強した内容は、結構覚えているものだ。
もちろん、過去に学んだことと現在の状況には違いがあるのだけど、足りない部分を補えばいいだけだから楽だ。
それに、「当時学んで想像していた未来」=今になっているから、なんだか答え合わせをしている気分にもなる。


しっかりと区切りをつけてセーブしていれば、そこからリスタートできるんだなぁと感じる。
だから、不要になったものでもきれいにゴミ箱に捨てる、もしくは、きちんと整理して端において仕舞っておくことは大切だ。

技術や能力は錆びつくことはあっても、忘れることはない

自転車に久しく乗っていなくても、またげば乗ることができる。
以前何度かつくったことのある料理なら、何も見ずともなんとなくだいたい再現できる。
言語の勉強も、一度習得してしまえば、その後特に勉強しなおさなくても、だいたい使える。

なにかを学ぶと、記憶のなかからところてん式に抜けていってしまうことはよくある。
一時的な記憶は、定着すれば知識となる。
知識とともに体を動かして、知識と体の動きがリンクするようになると技術となり、それを磨けば忘れることのない技術となる。

ボールの蹴り方をいくら知識的、イメージ的に学んでも、それに体がついてこなければ技術にはならないわけだ。
だから、知識と技術には隔たりがある。

サッカーの観戦者が「あーだこーだ」正論のようなことを述べても、そのような理想を自分が体現できるわけではない。
自転車の乗り方を知っていることと、自転車に乗れるのは違うし、
海外の暮らしを知っていることと、その国で実際に生活を営むことにも違いがある。


それに、若いころ駆けっこが速かったとして、運動不足のいま速く走ろうとしても脚が思っていたよりも回らず、転ぶ。
そういう大人はたくさんいるし、ぼくも下り坂を調子に乗って加速していると転びそうになることが増え始めた。
昔できたことも、体がそのとおりに今動くとは限らない。


でも、実践的な能力(技術)を磨いていれば、それはきっと体が言うことをきかなくなるまで活かすことができる。

習得して忘れなければ、時間は財産になる!!

このように最近思うから、年配の方々が重ねてきた時間を羨ましく思うようになった。
何かに一所懸命に取り組めば、それだけ重ねられるからだ。
そうでなくとも、小技を身に着けたり、雑学や生きていく知恵は増える。

たとえば、20歳から1年間に1テーマをよく学ぶ。
ぼくはいま28歳なので8テーマ。
40歳の人は20テーマ。
60歳の人は40テーマ。

これだけ違ってくる。非常にうらやましい!


もちろん、学んだだけでは知識どまりで、技術にはならない。
けれど、そこにはいろいろな実践に取り組むこともできる時間があるわけだから、あまり気にしていない。

ぼくが35歳、40歳、50歳、60歳と経るまで、いまのように成り行きに任せて興味関心を移ろわせても、なんだか多くのことを知ることができるはずだから、突然楽しく思えてきた。

10年、20年も経てば、ぼくが知っている通説は覆されたり、さらに発展していることだろう。
そのときになって0から学ぶのではなく、いまのうちに興味のあることは「いま(まで)の情報」を得たいものだ。
20年前にはスマホもなかったし、ノートパソコンもなかった(と思う)し、わたしたちの進歩はすさまじいからね。

ぼくはいま、経済に関心があるから、地政学からどんどんと入っていきたいと思ってる。
その一方で、ニワトリを育てたい想いが強くなってきている。
ただ、ニワトリを飼うどころか、畑作業もできていないから、残念ながらまだ遠い5年後くらいの話だ。


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Chaito

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