影響が見えるまで待っていたとしたら、それを止めるには遅すぎる【コロナウイルスと環境問題】

影響が見えるまで待っていたとしたら、それを止めるには遅すぎる【コロナウイルスと環境問題】

社会や地球規模のことに取り組むのは、非常にむずかしい。
1つのことを全体として決めるには、多くのプロセスを経なければいけないし、大多数のひとの賛同を得る必要も出てくる。

そして、ほとんどすべての場合において、大多数のひとの賛同を得るためには、「その影響」の結果が目に見えるまで待たなくてはならない。
けれど、それでは遅すぎることを「2020年の教訓」とする必要があるだろう。


今回のコロナウイルス騒動は依然として現在進行中なので、時期尚早にはなるが、今回の騒動を今後に生かすために考えてみた。

「事前に対策を打てばよかったのに」と後々言う

大衆の関心を得るためには、事後対処しかない。
多くの人たちが事前予防の大切さを主張していたとしても、それはなかなか響かない。
なぜなら、自分事にはなっていないからだ。

自分事になっていない事象を調べたり、「知ろう」と思うことは少ない。
現代は、情報に溢れかえっているので仕方がないのかもしれない。

ぼくも、食品の安全性についての良い記事に出会えたあと、別のどの記事を読もうか迷ったとき、自分の関心がある次の記事に誘導される。
関心の強いトピックの深掘りがなされていく。
他方で、時間やエネルギーは有限なので、その際に選択されなかった方の情報を得ることはできない。


だから、事前予防は理想的であるが、なかなか機能しにくい。
特に社会や地球規模の問題に取り組もうとした際は、その困難性はより顕著になる。

そのため、その問題や課題、影響が出てくるまで気づくことができなかった人たちにとっては、
「もっと早くから取り組んでいれば、良かったのに」
「もっと早くに取り組んでいてくれていれば、良かったのに」
「もっと早くに知らせてくれていれば、良かったのに」 となりやすい。


わたしたちは残念ながら、ぺこぱのように「時をもどそう!!」とはできないのである。

指数関数的に広がる可能性のある問題のカギは、事前予防と適切な初動対処

一生のなかで1度あるかないかの出来事を、正しく対処するのはとても難しい。
もしそのような出来事に出会ったとすれば、わたしたちはそこから学びを得て、ほかの出来事の事前予防へ応用できるといい。


このことを、ほかの地球問題に当てはめて考えてみたいと思う。

地球温暖化や生物多様性の問題は、ぼくの幼少期から話題となっていた。
けれど、一向に改善の兆しはない。
何かが大きく変わることもなければ、この問題に対する解決方法が明示されることはこれまでにないように思う。

だから、ぼくらのような若い世代にとってこれらの環境問題は、
日本の国債のように「昔からずっと議論になっているのに、何も改善する必要がないから、特に問題ではないのだな」という意識と同様に植えつけられる。
だって、「問題だ、問題だ」という意見があがるわりに、社会として大きな渦になることはなかったから。


でも、これらの問題でさえ、ことが大きくなることがあれば、
坂の上の雪玉のように転がり始め、加速度的にどんどん速く、どんどん大きくなっていくことだろう。
コロナウイルスのように、指数関数的に広がる可能性さえある。
地球が徐々に温暖化したとして、それが数値通り毎年+0.何度と上がっていったとしても、それが原因で発生する付随的な影響は広範囲に連動し、どんどん増えていくだろう。
比例的な増加ではなく、指数関数的な増加になるのではないだろうか。


であれば、わたしたちは指数関数的に拡大する可能性のある問題に対して、事前予防を講じ、さらに初動で対策を講じなければならない。しかも、適切な対策だ。
コロナウイルスに対する台湾の対策のように、初動で適切に対処することができれば、指数関数的な連動的影響を防ぐことが可能になるのだろう。


このように考えると、
地球温暖化などの気候変動や生物多様性の減少などの自然保全に対して、わたしたちはこれまで適切に取り組むことができていたのか不安になる。



気候変動や自然保全のトピックについて多くの人が耳にしたことがあるだろうし、(どう考えているかはそれぞれだが)多かれ少なかれ意見を持っていることだろう。
教科書でも習うしね

では、これらの課題の影響が顕在化するまでわたしたちは待つべきなのだろうか?
悪い影響が現れないと、世論や社会や国家は動かないかもしれない。
けれども、影響が顕在化してから事後対処を行っていては、問題解決とは程遠い結果となるということを、わたしたちは現在学んでいる。
これは教訓とするべきことだと思う。

関心がもたれていない問題を深掘りして意識を向けるのでは、時すでに遅し?

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環境問題は、気候変動や生物多様性の損失のみではない。
海洋や土壌汚染のマイクロプラスチックもそうだし、窒素やリンの循環の乱れもそうだ。
そして、窒素の循環が全球的に非常に大きく乱れているという目に見えぬ現実は、21世紀にわれわれが優先的に取り組むべき地球環境問題であるのにもかかわらず、ほとんど知られていない。
そして、農業がその乱れの大きな原因となっていることも知られていない。


現代の農業生産において、「窒素」は空気中から土壌へと植物や微生物を介して自然流入するものではなく、お店で購入して畑に投入するものになった。
この変化は、着実に全球的な窒素循環を乱している。


植物や土壌が利用する以上の窒素が畑にあれば、それらは雨や灌漑などの水とともに地下水や表流水と一緒に川や海へと流れていく。
そうすると、窒素を好むプランクトンなどが異常に大量繁茂し、水中の酸素を消耗し、酸欠で水生生物が死んだり、食物連鎖に強制的な変化をもたらす。
窒素は揮発するので大気中へと戻るが、それらは自然循環する活性状態になっている(活性窒素)ため、雨が降れば、再び空気中のスモッグなどと一緒に降下して、森林や街に降り注ぐ。
(ぼくが小さい頃は、「酸性雨」は非常に大きな環境問題のテーマとして取り上げられていたが、最近では久しく耳にしなくなった。酸性雨の影響にわたしたちは慣れてしまったのだろう。)

これらのより多くの窒素が含まれる雨が降ってくれば、それを利用する植物の生存戦略(資源競合)へ影響を与える。
なぜなら、みなさんご存じの通り、植物の生長は窒素などの獲得可能な養分の制限を受けているからだ。
窒素が生長制限因子となっていた環境に、十分な窒素が供給されるようになれば、その環境は変わる。
資源競合に強い種は生息を広げ、弱い種は淘汰されるようになるからだ。人為起源で。
このチャンスは外来種にも与えられ、ヨーイドンで勝ったものが分布を広げやすくなる。
植物の多様性が失われやすくなるということだ。
生産者である植物が変われば、上位の消費者にも連鎖的に影響を与え、わたしたち人間のもとへも返ってくる。
食物連鎖の構造も変わる可能性があるし、植物と共生・連動している生物・非生物も変わらざるを得なくなる。


そして、この循環の歯車を不必要に大きくし続けているのは、言うまでもなく、大気中の不活性窒素からアンモニア態窒素を合成している窒素化学肥料である。
だから、化学肥料を適切適量に取り扱うことはもちろん必要なのだが、そもそも生産せずに済めばそれに越した環境に良い行いはないのだ。



このような個別の事象にひとつひとつ対処していては、しかたがない。間に合わない。
なぜなら、窒素循環の乱れも、二酸化炭素やメタンによるとされる気候変動も、生物多様性も、海洋汚染も、マイクロプラスチックの問題でさえも、すべての問題は有機的に繋がっているからだ。

なにが根本的な原因かを特定することはできない。
もしかしたら、農業の在り方を完全に変えたとしても、すでに動き出してしまった「影響」は止まらないのかもしれない。
けれども、そのようにひとつひとつの原因を正し、真の意味で持続的にしなければ、ぼくは71年後の100歳を迎えられない可能性はある。

「持続的」では、もう十分ではない時代になってしまった

どこに行っても、どのような文章を読んでも、「持続的」「持続可能」という言葉を見かける。
さまざまな観点から評価してそう名付けているのかもしれない。

けれど、その言葉が無責任に簡単に使われるような時代になったものだから、真に持続的なものはほとんど見当たらなくなってしまった気がする。

だって、もう、さまざまな問題にあふれたこの世界において、ソレが持続的であったとしても、持続的ではないのだから。


0が地球的に持続な状態だとしよう。
さまざまな環境問題が混在するー100の世界において、いくつかのことが0であっても、世界は依然としてー100だ。

だから、ぼくら若い世代はプラスになることをしていかなければ、0に持っていくことはできない。
この例で言えば、+100の真に環境に良いことを行わなければ、-100の世界を0にすることはできない。

ひとつの産業が+100の善行を行うか、10の産業がそれぞれに+10の善い行いをするか、
大きな原因となっている産業が+50を担い、ほかで残りの50を埋めるか….


いずれにしても、みんなが良い方向へと向かわなくてはいけない。
そして、『道徳的に善い行い』が、必ずしも、真に環境に良い行いであるとは限らないのも、ひとつの障壁になるだろう。

環境問題の影響はもう現れているから、事後対処するしかない

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さまざまな環境問題も、その悪い影響が現れた最初の段階で対処することができていれば、ここまで複雑化し、深刻化することはなかったのかもしれない。
けれども、日本の四大公害のように、前例のないことに気づくことは不可能だ。
違和感に気づくことはできても、なにが原因で、どう対処すべきかをその時点で適切に判断することは難しいのだ。
起こってから対処し、その教訓を後世に残し、次の潜在的な問題の事前予防にあてるしかない。


そうに考えると、いまの全球的な環境問題はもう事後対処的なマインドで取り組むしかないのかもしれない。
なぜなら、もうすでに複合的に問題が顕在化し始めているからだ。
これだけ文明が進歩し、人々の生活が豊かになって、家庭環境が良くなり、その大きな代償として地球環境が悪くなったとしても、わたしたちはこの星で暮らすしかない。

コロナウイルスの感染拡大により、わたしたちの生活は大きく変わり、たくさんの「制限」を設けられ、不自由を感じるようになっている。
これまで甘く見られていた環境問題が実際に私たちに猛威を振るったとき、わたしたちはもっとたくさんの大きな「制限」に縛られる可能性さえある。


事前予防で済ませることができれば、それが一番幸せなこと。
実際ぼくらのような若い世代にとって、そのような当たり前のような幸せな状況を後世に遺すことがもっとも大きなプレゼントになっている。


「なんでもないようなことが幸せだった」と子孫に伝えるのは、示しがつかないし、なにより哀しいことだ。

環境問題はすでに事後対処が必要な段階に突入しているはずなのに、世間の関心が低いために事前予防の段階であるかのように認識されてしまっている。
そのギャップに、環境問題の解決に向けて取り組むことの難しさがあるように思う。



良いアイディアと方向性が社会にたくさん出てくれば、明るい未来になりそうだ。


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Chaito

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