日本の宗教勧誘はなぜ、他宗教を批判して正当性をアピールするのか? 「better than」より「the best」がいい

日本の宗教勧誘はなぜ、他宗教を批判して正当性をアピールするのか? 「better than」より「the best」がいい

ぼくは真言宗だが、他の宗教についても比較的寛容なタイプだと思う。

たとえば、エホバの証人のひとの家に行って、彼らの教えを教えてもらったり、
コロンビアではモルモン教の教会に誘ってもらって、多国籍な布教者と談笑した。


基本的に、家にやってくる人たちの話は最後まできちんと聞くようにしている。

人の話は最後まで聞かないとわからないものだ。
でも、どうして布教者は、自身以外の宗教やその教えを否定したり、バカにしたりすることを主題に置くことで、自分たちの正当性を伝えようとするのだろうか。

布教は「better than」ではなく、「the best」の論理性であってほしい


ぼくはそもそも宗教というものを悪いものだと思い込んでいない。
でも、どうして日本の宗教勧誘は、他の宗教を否定することで自己の宗教を正当化しようとするのだろう?

「良いものは良い」のであって、
「〇〇はここが間違っているから、こちらの方が良い」とする主張が納得できない。

比較対象をつくることで、「AよりもBのほうが優れている」という考えは論理的だけど、Bよりも優れた別のものがある可能性は十分ある。
「Better than」ではなく、「the best」の説明のほうが良いのではないだろうか?



宗教や人生のパートナー、家族などは唯一無二の存在であるはずだ。
人生のパートナーに対して、
「キミは、前の彼女よりステキだ」、
「キミは、職場の人よりもステキだ」、
「キミを、自分が飼ってる犬よりも愛してる」と言えるだろうか?

「キミを、世界で一番愛している」と考えるのが普通だろう。


だから、
布教者は「この宗教はこうこうこういう教えなので、この▶︎▶︎教は素晴らしい」と説法するべきなのに、「××教は間違っているから、私たちの教えを受けたほうがあなたは幸せになりますよ」と説法してくるのを玄関で聞いていると、

『どうして、その宗教を従順に信仰しているあなたがたが、““他の宗教と比較することで””幸せを感じようとしているのだろう?その宗教では、何かと比較しないと幸せになれないのではないの?』

と、思ってしまうのだ。


布教するのなら、「better than」ではなく、「the best」の論理性であってほしい。

周りとの比較で幸せを感じようとするのは、結局どこかの誰かを不幸にしてしまうし、それは絶対的な幸せではなく、相対的な幸せに過ぎないからだ。

「宗教みたいだね」という表現


日本ではどうしてだかわからないけど、「それ、宗教みたいだね」と悪口的、もしくは皮肉的に使うことがある。
協調性が少ない人を「あの人は、個性が強いね」とやいやい言うのに似ている。


ぼくはこの前、真面目に聴きに行った講演が「宗教チックな」会で残念な思いをした。
論理的な説明を期待して足を運んだ講演だったのだが、内容が“想い”や“論理性がない話”ばかりだったのだ。

それなのにもかかわらず、ぼくが全く感じることのできなかった「何か」を大衆は納得したようでよく頷いていた。
ぼくは、彼らがその説明者の何に納得できたのか全くわからず、怖かった。
本質的な部分には触れずに、(たとえば)5章構成の専門書の第1章「これに取り組むことになった背景(動機と理由)」の本題に入る前の前振り的な説明しかしてないのに、みんな本質的な部分がわかったように青空のように澄みきった顔をしていた。

それをぼくは『宗教的で、怖かった』と表現する。


それはたとえば、
「(架空の話)〇〇宗教の教えではね、20歳になったら長生きするために左手の小指を切り落とすの。」と周りにその宗教を信仰する100人の従順な教徒に囲まれている中説明されて、その人たちがニコニコ頷いて「そうよ、そうよ」とそれを許容していたら、それはゾッとするほど怖いだろう。
そのように、宗教心という目に見えない部分に基づいて表に出てくる言動というのは、ときに、理解することができないものだ。
頭では理解できたとしても、心では理解できないものだ。
そして、心で理解できないから、本質的には頭でも理解できない。


論理性のない、想いだけで物事の理を真剣に説明する姿は、まさに【心に訴える】だけなので、ぼくは信頼できない。
ただ信頼できないだけならいいのだが、自分が信頼できない”ソレ”をよく信頼できてしまう人もいる。
これに善し悪しはないのだが、テーマによっては、信頼できるかできないかは自分で判断できる。
たとえば、ぼくであれば、農業や環境問題については基礎的な理解があるので、いい加減なことを言っていれば不信感をいだくのは当然のことだ。

今の時代に、「地球は四角いの」と熱心に話していたら、どう思うだろうか?

「この500mlのコカコーラを、昨日東京のコンビニで400円で買って、それがそれがとっても美味しくて!ぜひ買ってみてください!!」と言う人がいたら、不信感を抱くのが普通だろう。

真面目に400円のコカコーラを探そうとする人や、その発言を無思考で信じてしまう人もいるのかもしれないが、普通、自分がよく知ってる事象であれば、何が正しくて、どこが間違っているのかがよくわかるものだ。

自分たちが仏教や神道を信仰しているのに、なぜ宗教自体が悪になるのか?

そもそも宗教というものは、(多くの場合)生前に授かるものではなく、生後に自分で信仰を決めるものだ。
なかには、家族や地域の影響を強く受け、特定の教え(宗教)に従わざるを得ない場合もあるのかもしれないが、一般的にはそうではない。

であれば、自分の意志で選ぶことのできる宗教的な選択に対して、どうして善悪を感じるのだろうか?
宗教を信仰しているだけで、悪になることはない。
仏教徒神道キリスト教徒イスラム教徒  何かを信仰していると、悪いのだろうか?



宗教的な理由が背景となって起きた争いは歴史的に多いが、日本の「宗教は悪」はそういう高度な視点ではなく、感覚的に「宗教は弱い人が騙されるもの」というような心象を与えているから嫌われているだけではないだろうか?

自己啓発本は読むのに、なぜ宗教的な教えに習うのは「弱者」なのか?


宗教に学ぶことは多い。

日本には哲学の授業は必修でないから、自分の考え方や生き様のような個性的な哲学は育まれにくい。
だから、意外と宗教の教えをあらためて見てみると、「そういう考え方もあるのか」とハッと気付かされることもある。

こういう体験は、自己啓発本により近い。
自己啓発本に書いてあること全てに納得できないように、他の宗教からも何かしら学べることはある。
宗教を「人生の教科書」的に利用することは、従順な信仰者からしたら邪道そのものかもしれないが、ぼくは『自分の哲学を築くために学べる部分は、部分的に吸収していく』スタイルでたくさん存在する宗教を理解している。

もしかしたら、物理の教科書の全てを、章の構成や数式まで漏れ無く覚えている人もいるのかもしれないが、“教科書”の内容のなかで大切なことを見つけたら、そこだけ覚えたり、学んだりすればいいと思うのだ。
何ページに何が書いてあるか、とか、教科書で説明している順番はそれほど重要ではないのではないだろうか。

心が弱っているときに、外的な支え(救いの手)を探すのは当然のこと


疲れていれば、美味しいものを食べる。

何かに悩んで、悩み抜いても、答えに行き着かなければ、なにか外部から刺激を自身の中に取り入れる必要がある。

それが、先輩や上司、家族や後輩、知人、友人、本やネット、宗教であろうとその出典は問われない。
なぜなら、どのような情報を得るかは自身のフィルターで濾されるからだ。

そのときに、いずれかの宗教的な教えが自身の深い悩みを解決してくれることもあるかもしれない。
そうであれば、それは悪いものではない。
というか、それを「悪いもの」と呼べるひとの気が知れない。

自身の心のなかは「何か」でかならず支えられているのだから、その支えの存在自体は素晴らしいものであるはずだ。
その支えが、人によっては「とある1つの宗教的な教え」であるのかもしれないし、ぼくのように「これまで育んできた自身の哲学感」であるかもしれない。

ISISのように犯罪行為と繋がってしまう「支え」だと困るが、この国では信仰の自由が憲法によって保障されている。

どのような心的な支えだろうと、その人が周りの人に迷惑をかけずに幸せでいることができるのであれば、尊重されてしかるべきであるし、尊重すべきだろう。

続きは別の記事で

エホバの証人の人の家で、彼らの考え方を学んでいたこと
インドネシアのイスラム教徒の子と仲良くなろうとしたこと
コロンビアで、モルモン教徒の子たちと談笑していた話も書いていたのだが、記事が長くなりすぎるので、ここで一区切りとした。


心に支えがある人とない人は見ててわかることがある。
何かにやる気を持っている人は、それを支えにしているが、無気力になってしまう人もいる。

人が幸せであればそれでいいのだが、混沌な状態に突っ走っている人を時々みかけるので、布教者が手を差し伸べたくなる気持ちがわかるようになってきた気がする。


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Chaito

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