過去の自分から再び学ぶ:経験したことを思い返せる手段を持つことは大切

過去の自分から再び学ぶ:経験したことを思い返せる手段を持つことは大切

調べごとのために、学生のころ読んだ本を読み返す。
すると、自分が知りたかった部分に、すでにマーカーが引いてある。


8年前のぼくはすでに、「重要だ!」と学んでいたのだ!

常に前に進んでいても、忘れ物がある

前に進んでいるけど、なんだかんだ忘れているモノはある。
「また、忘れていたんだ」と思い返せる楽しさがある。

自分が覚えられない部分や弱い部分というのは、時間が経っても変わらないモノで、また同じところを覚え直す。
そうすると、しっかり覚えられる。
でも、そうに思い込んでいるだけで、だいたい覚えられていない。


そしてまた、過去の自分から学ぶことになる。

「昔の自分のほうがよく考えていた」と思うことはよくある

新しい価値観や情報、経験を自身に取り入れると、自分がリニューアルされる

リニューアルされている自分に気づくことができるときもあるけど、ほとんどの場合、気づくことができないのではないだろうか。
それは、自分のリニューアルが連続的に起きるからだ。

劇的な変化ではなく、細かな出来事に対して少しずつ自分が変わっていく。
そういう連続性のなかの変化は、自分自身では気づけない。
自分が変化していることに自覚がない。


ぼくは昨日書いた記事や先月書いた記事を読むことがある。
タイトルを見ると、自分がどういった内容の文章を書いたのかを思い出させられる。


でも、数ヶ月前や1年前の記事からは、学ぶことが多い。
いまの自分が考えていないことを、当時の自分が書いているからだ。
これは、ほかのひとの文章を読んでいる感覚により近い。


とても不思議な感覚だ。
経験をもとに自分の引き出しを増やして、その引き出しのなかに自分なりの解釈を入れていたのに、いまの自分はその引き出しが存在していたことさえ忘れている。

経験しないとわからないこと

なにごとも経験だ


どういうことでも経験をすると、それは自分の糧になる。
失敗したら、笑い話にすればいい。
成功したら、成功体験にすればいい。

でも、月日を重ねるごとに、その経験の存在自体を忘れてしまう。
年配の方と接すると、「さまざまな経験を経て今に至っている」という強さを感じることができる。
これは紛れもない強さだと思う。



ときどき、電車のなかで大学生が「土日バイトだ。死にそう」と言っている。

そんなことで死ぬわけない。

「この人たちは、ずいぶんと気楽に言葉を使っているなぁ」と思って、すぐさまイヤホンをする。
ぼくにとっては、”気持ち悪い”言葉遣いで、聞きたくない言葉遣いだから。


ぼくら若い世代は【死】に対して、非常に近い距離感を取っているようで、
すぐに「死ぬ」とか「死ね」とか、
「死にそうなくらい暑い」とか「死にそうなくらい疲れた」と言うが、死ぬわけない

そう気軽に声に発するべき言葉ではないと思うのだが、30代以下のひとの話を聞いているとよく耳にする。



そういう言葉遣いは、身近なところでの「死」の経験が少ないから、なのではないかなと思っている。
ぼくはだいすきなおじいちゃんとおばあちゃんが亡くなってから、そういう言葉は使わないように心がけている。

思い出せるほどの出来事は、とても強い経験となり、それは糧となる。
年配の方が総じて言葉遣いが丁寧なのは、さまざまな経験を乗り越えているからなのではないだろうか。

経験は、ときどき呼び起こさないといけないね


倉庫に食糧をため込んでいる。
食糧をため込んでいたことさえ忘れてしまう。
すると、その備蓄食糧は無駄になってしまう。
ときどき、その存在を思い返さないといけない。


経験は自分の糧になる。
その経験が自分を成長させてくれる。
でも、成長した自分は前に歩んでいるが、なぜ自分が成長できたかは忘れてしまっていることが多い。
そういう”糧”を、意識的に思い返すことは大切なことだと思う。


何をしていたかを覚えていない。
どう感じたかを覚えていない。
どう解釈して、どう行動したのかを思い返すことができない。

スケジュール帳やカレンダーを見返すことで思い出すことのできる強烈な出来事もあれば、思い出せない出来事のほうが圧倒的に多い。
心理的なものは、より思い出せない。


そういう過去の自分を思い出すことができれば、
自分のルーツをたどることができ、過去の自分から学び直すことができるのではないだろうか。


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Chaito

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