道徳観を育む:一貫した道徳を鍛えて、使い分けない

道徳観を育む:一貫した道徳を鍛えて、使い分けない

小学生のころ、「道徳」の授業があった。
なにを学んだのかと言えば、「なにかを学んだ」程度にしか答えられない。

子どものうちに、道徳心を育むことは大切なこと。

社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準(の総体)。自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。

道徳の意味

児童生徒が,生命を大切にする心や他人を思いやる心,善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは,とても重要です。

道徳教育 :文部科学省  https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/

つまりは、道徳観を持つというのは
『善悪の判断ができるように自身の良心を育み、社会のひとりとしての言動に責任を持てるようになる』
といったところだろうか。

道徳観はどんなときも変えないほうが疲れない

道徳は、社会の模範となるために育むものではない。
道徳は、自分の言動に対する善悪の基準となるものだ。

したがって、自身の道徳観というのは、各個人によって異なる。


禁煙ゾーンのすぐ外に勝手に喫煙ゾーンをつくってタバコを吸うことに、全く悪気を感じないひともいる。
禁煙ゾーンが何のために設けられているのかを理解せずに、自身の欲を満たすために、歩行者が多い道の脇でタバコを吸う。
タバコの吸い殻をその場所に捨てていくことで、イヌが散歩道におしっこしてマーキングしていくが如く、マーキングしている。


人に見られているから、やる。
人に見られていないから、やらない。

この2つの行動は違っても、動機はおなじだ。
「人に見られているか、人に見られていないか」という基準で、自分の言動を管理しているからだ。


歩行者の信号機を常習的に信号無視するひとは、警察官やパトカーが見ていたとしても信号無視して渡ったほうがいい。
そうでなければ、普段の自分がかっこ悪いということを肯定してしまうからだ。

自身の善悪の基準は自分のなかの基準だから、おなじ判断基準に基づいた行動したほうがいいわけだ。

自身の1つの道徳観を洗練させる

常におなじ道徳観で過ごすことで、自分が持っている唯一の道徳観を鍛えることができる。

性格は場面によって、相手によって使い分けたほうがいいわけだが、
道徳観は人格の部分なので、1本筋を通したほうが生きやすい。


ひとつの道徳観を洗練させていくためには、つねに自分の道徳心に基づいた言動を行うように意識することだ。

後ろのひとのために、ドアを開けておいてあげる。
すれ違うひとのために、歩道のどちらかに寄る。
年配の方が重い荷物を持っていたら、手伝う。
小さい子どもが危険性を含む行動をしないかどうか、注意深く見守り、とっさに動けるようにする。
世代や年齢に関係なく、おなじ言葉遣いと態度で接する。



場面場面において、自分が理想とする言動があるだろう。
そこを基準にし、いまの自分の思考と言動で足りない部分を探す。
そうすると、自分の勇気がないだけだったり、ただタイミングが合わなかっただけだったりする。

ぼくは最低でも1日2善と決めているが、気分が良いときはゴミを拾ったりする。
その一方で、ゴミを見て見ぬ振りするときもある。
そこにぼくの弱さがある。

自分が「やりたい」と能動的に思わなければ、言動に反映されないからだ。
きっと、何も考えずにもスッと造作なく動くことができるひともたくさんいるはずだ。

相手を選んで言動を変えるのは、やめたほうがいい

何度か扱ってきたテーマだが、
「親しい仲にも礼儀あり」は他人に対する気配りだけの意味ではなく、自分の道徳観を鍛える心構えだと思っている。

年上や社会的地位が上のひとへの対応と、
年下や子どもへの対応が 大きく変わるのは変な話だ。

子どもに対して敬語を使わなかったりすることはあっても、根本的にすべてのひとに対して、相手個人を尊重しながら接するのは当たり前のことだからだ。
だから、相手によって対応を変えるのは、かっこ悪すぎる。


ケンカをふっかけるなら、弱そうな人だけでなく、絶対に強いであろうひとにもいくべきだし、
お金持ちであろうと、お金を持っていなくても、
高学歴だろうと、中卒だろうと、
そういうフィルターを自身のなかにいくつも持っていると、絶対に疲れるからやめたほうがいい。



「自分が誰よりかは上で、あのひとよりかは下。だから、高圧的な態度を取る。」
などというの実践しているひとがいるのであれば、自分の子どもにその道徳観を教育したらいい。

その点、子どもというのは、誰に対しても平等におもちゃを渡してくれるし、対応を変えることがないから偉い。

善悪の判断が狂ったら、いよいよ終わりの始まりだ

最近、いろいろなトラブルがニュースになる。
ささいなことで小突き、人に見られないとなにもできないひとが多い。

自撮りしながら動画を撮ることで、自分を監視しているのかわからないが、
承認欲求を満たすことと、善悪の判断ができるようになるのであれば、いいことだ。

飲食店の裏でバイトが悪さをしたり、バイトテロも頻発している。




学校での教育が終わったところから自身の鍛錬が始まるのに、
いつまでも学校教育レベルのまま生活するのには無理があるだろう。

社会生活からのほうが、道徳についてよっぽどたくさんのことを学べる。



「善くないこと」と認識しながらもそれを守れないのは、その場しのぎではいいのかもしれない。
しかし、自身の道徳観を偽装するのが常になってしまうので、自分の内面的な成長は期待できない。
就活のときだけ、就活の日だけ、
その場しのぎできれいな恰好で礼儀正しく振る舞おうとする者と
毎日礼儀正しく生活している者とでは、やはり違う。

ぼくらは修行僧ではないから、こんなポエムみたいな文章を真に受ける必要はないが、
ぼくはあと80年近く生きるから、毎日の自身の変化を楽しみながら生きていきたい。


*ちなみに、車がまったく来ていないとき、ぼくも稀に斜め横断します。


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Chaito

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