ぼくの幸せを構成する3つの要素:「どういうときに幸せを感じるのか」を分析することは大切

ぼくの幸せを構成する3つの要素:「どういうときに幸せを感じるのか」を分析することは大切

幸せとはなにか。

これは人類への命題だ。
そして、当然長く議論されてきたテーマである。
そのため、その類の本を読めば、たしかにそれらしいことは書いてある。

しかしながら、ぼくにとって幸せとはなにか。
「個人にとっての幸せとはなにか」という問いへの答えは、個人個人に委ねられる。


ぼくにとっての幸せとはなにかを考える機会があったので、ここに言語化してみよう

たびたび「幸せ」をテーマにしていたことはあった

これまでに、幸せについて考えていたことがあった。

5つの記事を書いていたわけだが、いま読み返しても、それなりにまとまっている。
過去の記事から学べるということは、いまの考えが以前のものから変化していることでもあるのだろう。

いまのぼくの幸せは、3つの要素で構成されている

①自分がしたいことができれば、幸せ
②自分にとって大切なひとが幸せであれば、幸せ
③社会や将来に貢献できたら、幸せ

この3つの幸せが、最近のぼくの幸せを構成している。

この3つがすべて満たされていなくとも、1つでも満たされていれば幸せを感じることができる。
だから、結構ハードルが低くなっている。

そのため、ぼくは幸せを感じやすいと言えるだろう。



これは、仕事とプライベートに2分して、幸せを考えるのとは違う。
ぼくは仕事であろうと、プライベートであろうと、上の3つに分けて幸せかどうかを感じる。
むろん、「ぼくはいま幸せだ」、「これをやったら幸せになるかな」と毎度考えるわけではない。
でも、ささいな幸せは意識的に選択するようにしている。

これは、「 ①自分がしたいことができれば、幸せ 」を満たすためだ。
たとえば、豚肉が食べたければ食べる。アイスが食べたければ食べる。といった具合だ。
日常に潜むささいな幸せをすくい上げることができれば、結構恒常的に幸せな感情を心のなかに置くことができる。

友人や恋人、家族が幸せそうなら、それはまたぼくの幸せにつながる(②)。
そして、仕事やこのブログを通じて、社会や未来に貢献できているだろうこともある(③)。

これらは独立しているわけではない。
久しく会っていない人に対して、菓子折りを持っていく行為は、①と②。


将来的に、農業で普遍的な価値を持つ技術をつくることができれば、①と③が満たされる。

①自分のこと
②自分にとって大切なひとのこと
③社会や未来への貢献感


この3つがぼくを満たしてくれる要素だ、

どう満たすかを知らなくては、満ちることはない

まじめに「幸せ」について考えると、精神エネルギーを相当消費するので、気分が暗くなったりする。
だから、気軽に自分と向き合わないほうがいい。
長くまとまった時間(少なくとも週単位)が取れそうなときに、
自分とはなにか、
自分の幸せとはなにか、
自分はなにをしたくて、なにをしたくないのか などを熟考するとよいだろう。

自分の深層心理のなかの「自分の幸せはなにか」という解にたどり着くのには、相当疲れる過程だ。
憂鬱気味になっても、驚かない。
なぜなら、それは自分にとって大切なことだからだ。
大切なことや大切なものを扱う際に、神経をすり減らすのはあたりまえのこと。

けれども、そうかといって、
自分の感情のうわべだけをすくって、近道をするがごとく、それを「仮の幸せ」と位置付けてしまうのも危ないのかもしれない。
自分のことがわかるのは自分だけだから、そのひとにとって何が幸せなのかは構わないのだけど、自分の幸せを自分自身が偽る行為だけはやめておいたほうが良いと思う。


「これさえできれば、わたしは幸せになれるんだ!!」と自分を洗脳してしまうと、
その洗脳魔法が解けたときの反動がとてつもなく大きくなってしまうと思う。

みんな「周りばかりを気にしている自分」を気にしているのだから、結局自分のことしか考えていない

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自分のことを真剣に考えているのは、究極的に自分しかいない。
親や兄弟、子や親友、恋人、友人がいて、どれほど親身であったとしても、そのひとが自分自身になることはないのだ。
考えてみればわかる。
あなたが親や恋人、親友のことを想っても、彼らの深層心理を自分のことのように理解することができているだろうか。
深層はもとより、ただの心理さえも危うい。
むしろ、「相手のことを理解している」気になっていることが、もっとも歯車が狂いやすい行為だろうと思える。

自分のことを労わることができるのは自分であり、
自分のことを一番理解しているのも自分であるべきなのだ。



この部分は、日本の教育のなかに哲学がないから、日本人には育たない精神だと思う。
わたしたち日本人は、自分を犠牲にしてまでも、社会やコミュニティーを優先してしまいがちだ。
だから、「自分が幸せになっていいんだ」という至極当然の感情を抑え込む風潮がある。
自分が幸せであることを他人に伝えないし、だれかが幸せだとそれが嫉妬の対象にもなる。

不思議でしょうがない。


だれだって幸せになることができるのに、幸せな人がいると足を引っ張ったりするのだ。
コミュニティーの輪を重んじすぎるわたしたちは、周りの目ばかりを気にして、自分自身には目を向けないのだ。
周りばかりを気にするから、相対的な幸せしか得られない。
見栄を張ることで優位に立ち続け、負けると劣等感にさいなまれる。

それは、絶対評価にもとづく幸せではないのだ。



そして、さらに面白いのは、
まわりのことを気にしているふりをしている自分のことしか考えていない。


日本社会のことを、他者を重んじる社会という場合がある。
「空気を読む」という独特なカルチャーがその代表例だろう。

しかし、多くの場合、空気を読んでいる自分のことしか考えていないものだ。
空気を読むことによって自分の発言欲や顕示欲を抑えて、まわりを優先しているかのようにみえるが、実際は自分のことしか考えていないのである。


プレゼンで緊張して声が震えてしまっても、それを気にしているのは自分一人で、まわりのひとたちは「緊張しているんだな」程度の情報しか得ない。



日々の生活において、自分以外の人間の気持ちを本気で理解しようと考えている瞬間がどれほどあるかをカウントするとわかりやすいと思う、
一瞬相手の気持ちを考えることはあっても、連続的に継続して相手の気持ちに立つことはない。
瞬時に察するだけで理解した気になっているだけだ。

ヒーローやヒロインに憧れるのは、その実現性が低いと理解しているからなのだよ

よくニュースやコラムになっていたりするのは、
自分がどうすれば幸せを感じるのかもわからないのに、幸せを探し求めていることだ。
幸せを探して、求めているのならいいのだが、
往々にして、ただ幸せがやってくるのをヒロイン気取りで待っているばかりだ。


そもそも、自分がどういうときに幸せを感じるのかを理解していないで、どうして幸せになれるのだろうか(いや、なれない)。

コップを幸せの器とするならば、
コップへの水の注ぎ方を知らなければ、コップに水がたまることはない。



それをただただ、白馬の王子様が奇跡的に現れるのを待っていたり、
ただただ運命的なヒロインが現れるのを期待することになにか意味があるのだろうか。

奇跡のヒロインが現れるのは、創作の世界だけかもしれない。映画見に行かなくちゃ

仕事とプライベートに二分することで、自分の幸せを説明できるようになる可能性は低いと思う

仕事とプライベートは、大人を構成する2つの要素であるとされる。
わたしたちはそのくらい、仕事に時間を割き、その余った時間をプライベートと呼んでいるということだ。

だから、人生の時間を二分する、この2つの時間が満たされれば幸せになれると考えるひともいる。

しかし、「仕事」で幸せが満ちることはあるのだろうか?
それは、仕事がどうなったら満ちるのだろうか?
理想の仕事につくことができたときだろうか。
仕事がうまくいったときだろうか。
やりがいの仕事で成功したときだろうか。

もし、「仕事の幸せ」をそのようにさらに事象に分けて、細分化することができてしまうのであれば、それは自分の幸せの構成要素を理解できていないのではないだろうか。
なぜなら、「幸せ」というのは感情であって、モノや行動ではないからだ。

どういうときに幸せを感じるのかが大切なのであって、「仕事が早く終わって幸せ」という「仕事が早く終わる」事象をいくら羅列しても仕方がない。


これは、プライベートについても言える。
映画が見れたから充実している。
カバンが買えたからうれしくて、幸せ と短絡的に導いてしまうと、購入欲を満たし続けないと幸せを感じれないと勘違い(洗脳)してしまう。

自分が幸せになるためには、自分の幸せの構成要素を理解していなくてはいけない

【どういう職業に就きたい】ではなく、【どういう人間になりたいか】を優先して目指すべきだと、ぼくは大学生のころに思った。
だから、職業に対する執着や想いはない。
どのような職であろうと、それは「職」という肩書きにすぎず、ひとの中身を説明するわけではないから。


どういう自分になりたいか


それを知るためには、自分としっかり向き合わなくてはいけない。
料理をつくる際に、ひとつひとつの材料を連想するように、
自分の幸せを考える際には、それがどういうものによって構成されているのかを知っていなければいけない。


そして、それはまた、時の流れやタイミングによって、刻一刻と変化していくからおもしろい。
自分の内にベクトルを向けること。
それは、自己鍛錬とともに、他者に流れない安定感の絶対的な幸福感を得ることにつながるだろう。


こう、ツラツラともっともらしい精神論を語れることで、
大学生のころの8時間に及ぶほぼ毎日の草刈りバイトの時間が実に有意義で実りの多い時間であったかを思い知る。


チャンチャン


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Chaito

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