自分が1駒であることを理解して行動する:特別な駒はない

自分が1駒であることを理解して行動する:特別な駒はない

将棋には、さまざまな役割を持った駒がある。
ぼくは素人なので、ただただ「玉」だけが大切だと思いがちで、
「歩」を無意味に動かしたり、意味もなく「飛車・角」の2枚だけを動かしがちになる。

すべての駒に役割と意味があって、たとえ「歩」であれど、そのあるなしでは戦況は大きく変わるようである。

「オンリーワンな何かを持つと、オンリーワンになれる」わけではない

大学生くらいのころ、ギラついているひとがいた。
それは「高圧的な」という意味ではなく、『世界を変えてやるんだ!!」という活気に溢れた意味だ。
ぼくもまさにそうだった。

ぼくはそれを『若気の至り』とポジティブに呼ぶ。
そういう活気を持ち、それをモチベーションに変えることができるのは、なかなかできないことだからだ。
(ぼくも若いのかもしれないが、)若くてエネルギッシュなときだからこそできることも、少なからずあるだろう。

そういうとき、オンリーワンを目指す。
特別な存在になりたくて、カンブリア宮殿やプロジェクトXなどの密着ドキュメンタリーへの出演に憧れを持つ。
オンリーワンを目指し、オンリーワンの存在になるだけで満足できると想う。
それは当然、頭のイメージのなかでの話だ。

「オンリーワンになりたい」と思うからには、オンリーワンになるための特別な何かを自分が持っている必要がある。
これは単純な話で、オンリーワンな何かを持っていれば、オンリーワンな存在となれるのだ。


でも、何か1つを極めることだけでは、多くの場合、不十分だと思う。
1つに長けるだけでは不十分で、複数の特技(長けること)を見つけることで、ようやくオンリーワンになれると思うのだ。

ナンバーワンはオンリーワンである


そして、ナンバーワンはオンリーワンであるという事実も、冷静に理解する必要がある。

ナンバーワンにならなくてもいい。もっともっと特別なオンリーワン という歌がある。
花屋の店先に並んだ曲だ。

ナンバーワンはオンリーワンなのだが、
ナンバーワンには1人しかなれないがオンリーワンはすべての人がなれる可能性がある という意味だろう。
でも、花に携わることをしていると、花屋の店先に並ぶことができる時点で「精鋭」であることがよくわかる。
選抜されたうえで、花屋までたどり着くことができるから。


「私は君を世界で一番愛している」のはナンバーワンであり、オンリーワンなのだ。

すべての能力が80点以上のひとは、どのくらい特別なのか?

ぼくは、絵に描いたような器用貧乏だ。
何でもできるけど、何か極めたものはない。
おおよその物事を要領よくこなすことには自信があるけど、なにかを生み出すことには長けていない。

だから、ぼくは大学生のころから、1つのことを突き抜けて学ぶのではなく、多くのことを平均以上に身につけたいと思っている。
それは、優秀でその道の一流のひとたちに囲まれて過ごしたからかもしれない。
”彼ら”のようになにかを極めることは、ぼくには無理だと素直に実感するのだ。


でも、べつにそのひとたちがライバルなわけではないし、人生のなかでライバルという存在はいないと思っている。
だから、素直に彼らから学べることを学び、盗める技術や知識・考え方を盗む。
そうして、部分部分の秀でた側面を紡いで、自分に継ぎはぎをする。



以前林修さんが、痛快でおもしろいことをテレビで言っていたのを見たことがある。
ある女性が、「高身長で、高学歴で、高年収で、やさしくて~~」と結婚したい男性像に条件を付けていく。

それに対して林さんが、こんな感じで応えた。(動画が見つからなかった)

・身長が平均より高いということは、日本男性の半分(50%)に絞られる(50/100)。
・学歴が、高学歴と呼ばれるひとたちは、上位10%(10/100)。
・高年収というのは年収××以上だから、上位○○%(○○/100)。

この3つの条件を兼ね備えたひとというのは、本当に限られる。
(50%×10%の時点で全男性の5%に絞られて、さらに5%×○○%だから。)
そして、そのようなごくわずかで、なおかつ結婚適齢の男性と出会える可能性というのは天文学的な確率になる。

で、
たとえ貴女がそのような天文学的な確率のなかで理想の男性に出会えたとして、貴女は彼になにを与えることができますか?

記憶に基づいて書いてます

多くのことを(平均60点として)80点以上でこなすことができれば、たとえ一芸に秀でていなくともオンリーワンなひとになれる可能性は高いのではなかろうか。

自分だけが『特別な駒』なんてことはない

わたしたちは駒だと思う。
生きるためには社会に属する必要があって、社会を構成する一つの駒になる必要がある。
駒のなかには、突拍子のないことに挑戦するひともいるし、平穏を求めるひともいる。過激なひともいるかもしれないし、社会の歯車にはなりたくないひともいる。

そのような無数の駒があるなかで、自分が特別な駒だなどと思うのは変だ。
たとえば、有名な野球選手だって、アイドルだって、政治家だって、バイトの社員だって、学生だって、オケラだって、アメンボだって駒に過ぎない。
知名度が高いと社会への影響力を持つが、特別な存在ではあっても駒数としては1つのままだ。

他人が自分より特別なことはなく、自分より他人が特別なことはない。
誰かの存在に価値を与えるのは、社会や集団、周りの環境だが、少なくとも1人の人間に与えられた駒数は1つだ。


最近はイヤな事故や、上級国民が無罪になったりする。
上級国民という言葉自体が意味不明なのだが、そんな不条理な壁とぶつかったらやっていられない。
「特別な存在」が平然といるとしたら、ルフィが如くグーでパンチしてあげなくてはいけない。


方向性が違えば、自分が伸したい能力も違うし、みんなそれぞれが1つの駒。
少しずつ前進して次の世代の駒を育成することが、社会の進歩のためには大切だと思う。
将棋の「玉」は、将来を担う子どもたちなのだ。
自分が1人でできることなど限られているのだから、自分を駒らしく動かして、周りを動かす。
それに、現状を維持するためにルーティンワークに励むひとも大切な存在なのだ。
上ばかりを見て、足下をすくわれていては、おいそれと星を眺めることさえできない。

あー満月や


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Chaito

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