【奇跡の再現性】良い結果を得るための方程式をつくれることは成功の証

【奇跡の再現性】良い結果を得るための方程式をつくれることは成功の証

いい練習が奇跡を必然に変える
ラグビー エディ元監督

良い練習ができれば、良い結果がでるのはあたりまえ

そのような因果関係で、世界をとらえることができるひとがいる。


単純化しすぎている表現かもしれないが、
単純化された関係を無数に紡いで、目的達成に導こうとするのはワクワクする行程だ!

空前のラグビーフィーバー

ラグビーは男のスポーツ。
観るだけで熱くなるし、目頭が熱くなる。

タックルのたびに、「スゲー………」と唖然とするし、
100kgの鍛えられた巨漢が全速力でぶつかり合う激しさは自分の非力さを際立たせる。


体がぶつかっても、コロコロ転がらない。
痛がる素振りはしない。


肉弾戦のなかに戦術があって、おもしろい。
アメリカンフットボールのように、戦術のなかに基本的な肉弾戦があるのではなく、
ラグビーは肉弾戦を基本とした上で戦術があるからシンプルにも楽しめる。

みんな良い結果がほしいけど、良い結果はプロセスがしっかりしていれば必然的に訪れる

勝利は、方程式によく例えられる。

勝利への必勝パターンがある。
ときどき、そのパターンが敗れることもあるけど、信頼できる選手を紡いでいくと「勝利」へとつながる。
勝利をたぐり寄せるために、最善の策を練り、選択肢を紡いでいく。
それは勝利への最適性であり、必然性でもある。

よい結果を求めるのであれば、導線を見極めて、無数の可能性のなかから取捨選択を繰り返し、最善の策を練る。
手駒では不十分であっても、「不十分である」ことに気づいてさえいれば、いくらでもその部分を補うことはできる。

それは、スポーツにおけるチームワークであり、組織における役割分担であったり、
いろいろなものに当てはめて考えることができるものだ。
自分1人が孤軍奮闘することも大切だが、集団のなかの自分の役割を全うすることも大切なことだ。


One for all, All for one
1人はみんなのために、みんなは1りのために。

【奇跡の再現性】を見つける

奇跡はない。
たとえ、それが「奇跡だった」と言われても、そこには奇跡が起きた理由が必ずある。
理由がわかれば、それは奇跡ではなくなる。

なぜなら、結果から逆算すれば、それ(結果)が起きた理由は明らかにすることができるからだ。
1度のサンプル(事象)では足りないのであれば、複数のサンプルから共通点を見出して、分析をすればいい。

奇跡を「奇跡」と評しているうちは、
「奇跡」と呼ばれる良い結果を継続して得ることはできない。



ベートーヴェンは言った。
努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力をしている

王貞治は
努力しても報われないことがあるだろうか。たとえ結果に結びつかなくても、努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。それでも報われないとしたら、それはまだ、努力とは言えないのではないだろうか。」と言う。


努力をするのは簡単なこと。
誰でもできることだから、志がある人は誰でも努力している。
そのなかで、「努力量」の一点張りで抜きん出ようとしても限りがある。
だから、【努力=成功】にはならない。

成功を得るために、努力だけで導けるはずがない。



少なくとも、方程式の構成要素を増やさなくてはいけない。

【適した知識+適した技術+適した方向性+十分な努力量=成功】

自分で勝手に創った

成功者がその道のプロフェッショナルになれるのは、【成功】への方程式を理解していて、その再現性があるからだと思う。
社長を辞任したひとや無一文になった成功者が、ふたたび返り咲いてくる姿を見るとそう感じざるを得ない。
それを、世間ではカリスマと崇めるが、理由があるだろう。

「良い結果を得られる」ことが必然にならないと、そのプロセスは最適ではない

ぼくは農業の生産者になりたいので、なんでも自分の将来に当てはめて、自分のこととして吸収する。


ぼくが、美味しい野菜を作ることができたとする。
でも、毎年野菜の味が変化してしまい、質が不安定だ。
1年目のものは美味しかったけど、翌年のモノはそうではなかった。
理由はわからない。

これでは、再現性がなく、普遍性がない。


「美味しいものをつくる」ことが1つの目的ではなく、
味の質に関しては「毎回、必ず美味しいものをつくることができる」という再現性が大切になる。
毎回毎回味が違うということは、その生産方法が目的に対して最適ではないということだ。

たとえば、鶏ふんを中心に栽培していれば、味はばらつき、えぐみが増す。
毎回鶏ふんで栽培をすれば、高湿度の夏が訪れた年は病害虫・病原菌の被害に遇いやすくなる。
これは偶然でも、「なんでだかわからないけど。。。」でもない。
必然性だ。

それに、有機農業の就農1年目や畑を借りて1年目は、たいがいよく実る。
それは、前作の残りの養分が土壌中に残っているからだ。
この貯金を消耗していけば、2年目3年目は徐々に実りが悪くなるものだ。


そういう細かい知見や知識・技術・経験を紡いでいく。
そうすることで、1つの目的を達成する。

もしかしたら、自分が持っている知識・技術・経験よりも、優れた選択肢と出会うかもしれない。
そういうときは、その選択肢を目的達成のために柔軟に取り入れてみる。

複数の独立した目的を1つに束ね、そのなかの最適解を見つける

モバイルバッテリーは持ち運びに便利だが、少し蓄電量が少ない。
じゃぁ、蓄電量を大きくするために大きなモバイルバッテリーをつくるべきか、と考えるとそうではない。
そういうトレードオフの関係は無数にあるから、そのなかで最適化を図る必要がある。



生産者が味を追求するのは当然のことだが、そのほかにも
生産性・収益性・環境保全性・地域貢献性・技術的な普遍性など、いくつかの大切な目的が存在する。
1つの目的の達成に夢中になって、ほかの目的を無視することは、ぼくはイヤだ。
少なくとも、自分が知っている・気づいている目的は、最低限満たしたい。

たとえば、植物の根が土壌を良くすることを知っているから、
雑草を根っこごと抜き取って畑の外に出す行為は、環境保全性と技術的な普遍性の観点からイヤである。
土壌を耕しすぎることは土壌の持続性を損なうし、地球温暖化を促進させるからイヤである。
未熟な家畜フンをそのまま畑に使うのは、病原菌や抗生物質の汚染を考えるとイヤである。
特殊な農業資材に頼って、それで営農を行うことも技術的な普遍性がないからイヤである。

自分がやっていることは、日本でも、コロンビアでも、フランスでも、アメリカでも、タイでも、どこでも(応用すれば)うまくいく ということを目指して進みたい。
それが技術的な普遍性であり、どこでもできるということは、逆説的に古今東西で優れた技術であることの証明でもある。


そうでなければ、ぼくにとっては「良い結果を得る」ための技術を開発して紡ぐ意味がない。
なかには、環境に優しいことをしていると思い込んで川や地下水を汚染したりするひともいるし、そもそも自分が汚染源になっていることも考えもしない(考えがそこまでまわらない)ひともいる。
ホームセンターでラウンドアップを買って除草すればいい くらいの感覚のひとはたくさんいる。

自分と他人の視点や視野が全く同じになることなどない。


だれでも解ける方程式をつくれることは、成功の証


『僕にしか、このやり方は真似できません』というのは、そのプロセスが間違っているということだ。

良い結果を得るために逆算をしているのだから、そのプロセスを明確にして、だれでもそのプロセスを辿れるようにしたい。
ほかのひとがそのプロセスを歩んでもうまくいかなかったとしたら、再考して改良・応用する必要がある。



手持ちの選択肢によって、視点やルートは変わるもの。
自分には見えていて、他人には見えないものがあり、
他人には見えていて、自分には見えないものも当然ある。


成功の方程式は、必ずしもひとつとはかぎらないのだ。


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Chaito

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