性格に裏表があってはいけないのか?:性格を使い分けることの重要性

性格に裏表があってはいけないのか?:性格を使い分けることの重要性

カードゲームには、裏と表がある。
表面を自分用に、裏面を相手用に使う。
両面刷りではカードとして成り立たない。


また、靴下にも裏と表がある。
ときどき、右足だけ裏返しで履いていることがある。

柄のあるデザインを裏返して履くことはできないが、
表と裏も区別が付かないようなデザインであれば、裏表は気にならない。

性格に裏表があってはいけないのか?

表の性格。裏の性格。
と言われることはよくある。

特に日本文化の場合、本音と建て前があるため、裏と表という概念が生まれやすい。
「いいえ」や「結構です」、「やめておきます」ときちんと否定することを好まない文化である。

したがって、「内心で望んでいること」と「実際に起きていること」に乖離していることがあったとしても、我慢してやり過ごしがちだ。

それをTPOに合わせて、対応する。
相手が友人の場合、
家族の場合、
恋人や結婚相手の場合、
取引相手の場合、
上司の場合、
他人の場合、

相手が違えば、多少の言葉遣いや対応の仕方が変わるのは当然のことだ。


そのため、周囲にはいい顔をする代わりに、身内にはその分の愚痴を吐く。
これでいいのではないだろうか。

性格には裏と表があるものだ。
時と場合によって、性格は使い分けが行われる。

性格はたくさん持って、切り替えられるといい

ぼくは、「性格」というものを1人の人間に対して1つであると考えていない。

陽気な性格。
真面目な性格。
おちゃらけた性格。
批判的な性格。
懐疑的な性格。
自己中心的な性格。
協調性のある性格。
社交的な性格。
恥ずかしがりの性格。
優しい性格。
奉仕的な性格。など

このように、人格を構成する性格的な要素は無限にある。
職場と家庭での仕事モードのONとOFF。
平日と休日でのリラックスモードのONとOFF。

このようなON/OFFでさえ、性格的な部分だろう。
バリバリの仕事モードONのまま、家族と接したりはしないのではないだろうか?

わたしたちは日常生活において、どこかでそのように性格的な(心的な)スイッチを切り替えている。
見た目ではわからない。(雰囲気が変わることはある)

それを意識しないで行っている場合が多数だと思うが、イチローのようにルーティンを課すことでそこをスイッチにすることもできる。
職場でコーヒーを飲んだり、居酒屋で「とりあえず生で!」と場所に応じて、自身の気持ちを切り替えたりする。
その際に、外的なスイッチがあると非常に便利なのだ。

我が家に帰ってきて、急に「ふぅ、、、」と心安らぎ、完全なOFFモードになるのもスイッチの使い分けだろう。



だから、性格というのは切り替えられるものだ。
そして、切り替えることができるということは、たくさん持っていても問題ないと言うことだ。

他人の性格を盗むぼくはカメレオン

1人の人間でも、性格はたくさん持つことができる。
だから、ぼくのイメージの中の「性格」は裏と表のようなカードではなく、
引き出しのようなものでもあり、サッカーボールのように何枚もの生地を紡いで球体にしているイメージだ。

場や人に合った性格を使って、そのTPOに適さない性格は要らないので仕舞う。

TPOに応じて身なりを整えたり、言葉遣いを変えたりするのが当たり前なのだから、
性格を合わせることも自然と行っているものだ。
上司に対して怒りっぽく付き合うことはないし、
知人と談笑するために批判的に真面目になることはない。

それは性格の使い分けだ。


ぼくはそのように考えてきたので、いろいろな性格を手に入れたいと思ってきた。
理路整然とわかりやすく話す人観て、「どういう精神状態でいれば、ああいう風にかっこよく、緊張感なく人前で話せるのだろう」と思ったし、
いつでも陽気で知人想いなコロンビア人と暮らして、「なんで、こんなに楽観的で社交的に物事を考えることができるのだろう」と思った。

性格の部分を考慮すれば、どのひとからも学びたい部分は出てくる。
たとえば、めちゃくちゃ無礼なコロンビアのちびっ子がいたが、あのくらい相手にグッと歩み寄れるゼロ距離スタンスは手に入れて損はないと思った。
なぜなら、手に入れた性格は、べつに必ずしも使わなくてもいいから。

ひとに話しかけるときに、その勇気に似た性格があれば、自分の背中を押してくれるし、
初めての場所に行って緊張するときは、コロンビアで手に入れた「相手も人間なんだし、自分らしく気飾らずに過ごせば受け入れてもらえる」考えで行けば、3時間後には物事は終わっているものだ。



だから、ぼくはカメレオンのように、TPOに応じて自分の性格を使い分けている。
『自分らしさを持っていない』と言うこともできるかもしれないが、
ぼくは『周りに合わせられる自分らしさを持っている』と考えている。

そうすると、環境に適応するのも早くなる。
引き出しが多ければ、その分相手との調和も取りやすい。
このことを「和」と呼ぶのではないかなと思っている。

性格は変えていいが、人格だけは使い分けてはいけない

ここまで性格の話をしてきたが、性格を使い分けたり、性格を増やしたりすることができるのは、
人格というそのひとを構成する根源的な基盤があるからだ。

性格の話をする際に、「性格はひとつしかない」と考える人のイメージは【性格=その人物】である場合がある。
しかし、先述のとおり、性格は人物像にはなりえない。
みながみな、自然と性格を使い分けているからだ。
人前ではネコをかぶったり、家庭では内弁慶だったり。


人物像は人格であり、その人格の上に性格が継ぎ接ぎされているイメージだ。
だから、性格はいくら足しても、使い分けてもかまわないが、人格は使い分けてはいけない。
人格を使い分けられるひとは、2重人格者やサイコパスと呼ばれるひとたちだけだ。

でも、個々人の人格をベースに、その上に性格を載せていき、TPOに応じて性格を使い分けるのはよい。
性格診断のようなものは、「性格」という冠が付いているのでわかりにくいが、実際はもっと根源をなす「人格」の部分を明らかにしようとしているものだろう。


1日1クリック、お願いします!
ランキング参加中♪ →青年海外協力隊

応援いただけると、嬉しいです

*ただのブログ村のリンクです

スポンサードリンク
 




 




 

Chaito

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)