【農業×国際協力を目指していた】ぼくの過ごした大学の長期休み:大学1~2年

【農業×国際協力を目指していた】ぼくの過ごした大学の長期休み:大学1~2年

学生は夏休みが終わったようで、よく見かけます。

自分がどういう夏休みを送っていたのか、自分自身でも忘れてしまいがちなので備忘録的にここに記します。

ぼくは、農業をベースに国際協力を行う人材を育てる「日本大学 生物資源科学部 国際地域開発学科」で大学時代を過ごしました。

そのため、学科の勉強をしっかりしていれば、【農業×国際協力】というのは必然的に達成されるものと考えていました。また、そもそも国公立大ではなく、自分の意志で日本大学を選択して、その学問が自分が学びたいことだったのですから、勉強自体が楽しいものでした。

ぼくは大学は遊びに行くものではなく、勉学に励む場所だと思っていたので、アルバイトもする気はありませんでした(先輩に紹介され、園芸のバイトを始め、そこでの学びは単にお金稼ぎではありませんでした)。

さまざまな条件があると思いますが、お金のためだけに勉学を捨ててバイトをするのなら、特待生になって学費を免除してもらったり、奨学金の返済が求められないほどの成績を残すことも選択肢に入れてもらえると大学の過ごし方が変わるのかなぁと思います。

大学1年の夏は、母島へ1ヶ月農業ボランティア

日本大学と東京農業大学の有志で、母島に1ヶ月ほど農業ボランティア(援農)にいった。


アフリカマイマイというでっかいカタツムリ と
グリーンアノールという緑色のトカゲがたくさんいた。
蝉の鳴き声は聞こえなかった。
グリーンアノールが侵入してきたことで、蝉が食べられてしまったからだという。

夜、みんなでたむろしていた部屋の中に、ゴキブリがよく現れてギャーギャー騒いでいた。ぼくだけがね


人生で初めて釣りをしたのが、母島だった。
透き通った水面に船上から餌のついた釣り糸をタラーッと下ろすと、魚がよく見えるから簡単に釣れた。
「釣りってこんなに簡単なんだ」と錯覚するほど、よく魚の動きが見えた。

共同生活での協調性はこのとき学んだ気がする。
ずっと住み込み的に、母島の農家さんのもとで農作業を手伝っていた。

大学1年の春は、西表島にサトウキビ刈りへ

大学に通って、特に「ボランティアをしなくちゃ!」とか、「経験経験」と意気込むことはなかった。
大学1,2年生の内は、講義を真剣に聴いて、そこで気になったことを本を図書館で勉強するのが当たり前だったからだ。
講義のメモも、毎日講義後に図書館で別のルーズリーフに清書していた。
今思い返せば、すごい努力だったなと思う。
でも、図書館で名探偵コナンの漫画を読んでいたり、サッカー雑誌を読んでいたりした。
とにかく図書館が好きだった。

部活動に所属していたことと、その付き合いで知り合った先輩方が積極的にいろいろな経験をしていて、楽しそうに見えた。
だからぼくもそれにならって、先輩が1年生のころに参加したボランティアなどに参加した。
それが、西表島にサトウキビ刈りのボランティアだった。

西表島では、約1ヶ月ほどサトウキビを手で刈っていた。

そこではボランティアとアルバイトで10~20人くらいの人が寝食を共にした。
「靴下がくせえ」だの、「ご飯当番なのに、朝ご飯が炊けていないトラブル」だのいろいろあった。
ボランティアのひとたちも、アルバイトのひとたちもとても個性豊かで、今思えばもっと学べることがあったなと思う。

2,3月くらいだったから暑くはなかったけど、沖縄はほどほどに暖かく、
結構過酷な環境で朝から晩まで、サトウキビを手で刈っていた。
サトウキビをかさぐ(葉を切り落とす)専用の鎌を持って「鎌キャッチ」を覚えたり、となりのひとと競争したりと、
和気あいあいとした雰囲気の中でも切磋琢磨する環境があった。



車の免許持ってなくて、西表島を電動付き自転車で1周したのはよく覚えてる。
結構起伏があって、宇多田ヒカルのAUTOMATICを歌いながら、「充電切れるなよー」とヒヤヒヤ自転車を漕いでいた。

樹海みたいな所に入っていって怒られたのは、今でも笑い話である

大学1年の春、よくわからない外国のひとがやるダンスイベントに参加した

西表島でサトウキビ刈りボランティアのあと、英語だけでコミュニケーションを取るダンスイベントに参加した。
それに参加するために、西表島から帰ってきた。

とくにあまり覚えていないのだけど、
ショーのなかで壇上で台詞を言う場面が割り当てられた。
緊張しながら、大して英語も得意ではなかったから、すごく緊張していた。

けど、場数だね

大学2年の夏、うさぎを飼い始める

この頃はまだスマホはない時代で、ラジオでプロ野球を聞いていたなー

ひとり暮らしの家で、まめぞうを飼い始める。
さみしくってやることがなかったから、夏休みの最初の8月上旬にまめぞうを飼った。

まめぞうは可愛くて、クンクン言いながら周りをぐるぐる回る。
放し飼いで飼っていた。


最初、この子の名前は「まめぞう」ではなくて、「アニモ」という名前だった。
スペイン語を第2外国語で取っていた僕は、ANIMO=元気という名前に紙辞書を引いて付けた。

でも、なぜだか命名した後1週間くらいで、「まめ太」に変わった。
そして、本名はマメタなのに、なぜか現在は「まめぞう」という名前になっている。
実家に移動したマメタは、いままめぞうになった。


いまでもかわいい、まめぞうちゃん

大学2年の秋、ドイツースイスーフランスを旅行

大学1年のころ、学科で特待生になったため、受講料が浮いた。
日大は私立で、ぼくがいたのは文理融合の学科だったので、学費は文系と理系の間で90万円ほどだった。
そのお金を元金に、家族でヨーロッパに旅行に行った。
計2,3回特待生になったことで学費免除になったので、意外と学費が浮いた。
(浮かせるように頑張った)

大学の夏休みが終わった10月上旬のローシーズンのパックツアーだったため、時期的に周りは新婚旅行のご夫婦ばかりだった。
みんな帰国時に税関手続きが必要な高額物を購入していた。
指輪や時計などを新婚旅行の思い出に購入したのだろう。

ドイツの石畳や、スイスのトロッコ、フランスのシャンゼリゼやモンサンミッシェルなど、一通り有名どころを回ることができた。
フランスのどこかの電車駅近くの路地を、夜暗くなったときにひとりで散策していたのは、今思うとちょっと危機管理能力が少なかったなと思う。
パリの地下鉄で、ジーパンのポケットに誰かに手を入れられていることに気づかなかったりもした。
ポケットには何も入れてなかったので、なにも盗まれなかった。



英語で少しコミュニケーションとれたり、外国の観光客に観光地で写真を撮ってと頼まれることが多々あった。
モンサンミッシェルの地方のふわふわのオムレツがあまり口に合わなかったのは、よく覚えてる。

大学2年、難民や遺骨収集などのイベントに気軽に参加する

当時の僕は、協調性が低く、他人を巻き込む感じでもなかった。
まわりのひとに気を回すことよりも、「自分が成長したい!!」という気持ちがとても強かった。
だから、知識を増やしたり、自分の可能性を広げたいという気持ちがあだとなり、周りとつるんだり、経験や考えを共有したりすることに煩わしさを感じてしまっていた。
ぼくはこのことを「若気のいたり」だと思っている。

誰かに何かを相談することも、甘えることもできなくて、引きこもり気味になっていた時期も1ヶ月くらいあったと思う。
ストレスでニキビができて、外に出たくなかったり。。。。
特に、口の周りと首元にできた。


そういう「自分のモチベーション」と「精神的なキャパシティ」のギャップが、大学2年生のときに1ステップ一気に払拭された。
それは、それまでにも大学の勉強だけではおもしろさが満たされなかったために、たくさんのイベントに参加して話を聞いてみようと思ったからだった。

高校の同級生もたまたま国際協力を志していることを知って、彼が参加する在日難民を支援するイベントに参加した。
その組織には1回きりしか参加していないけど、いまでも交友がある友人もいる。
国際協力にはいろいろな側面があるから、真剣に国際協力の仕事や勉強をしたいと思える同年代の人たちとの出会いは、とても刺激的だった。


そのほかにも、
ガダルカナル島の日本兵遺骨収集ボランティアの話を浅草の方に聴きに行ったり、
環境系のエキスポで話を聞くために、ビッグサイトに行ったりした。


人見知りで恥ずかしながらにも、それぞれのテーマでいろいろなひとと出会う場面に積極的に飛び込むようになった。

続きは、次の記事で

大学生の休みの期間は、意外となにかやっていた。

やっていたと言っても、大学生の夏休みは2ヶ月近くあるし、冬休みも春休みも数週間ある。
だから、このなかで1,2週間どこかに旅行に行ったり、なにかに取り組むことは大変なことではなかった。

社会人になると、数ヶ月はおろか数週間のまとまった休みは取ることができない。
だから、その期間を有意義に使うことは大切なことだなぁと思う。



無論、なにが大切かは人それぞれだから、かまわない。

10年前のことなんて思い出せないんだから、思い出せるほどの出来事があっただけ幸せなんだと思う。


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Chaito

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