電車で席を譲ろうとして、相手が座ってくれなかったからといって、怒ったり、気まずくなるのって自分勝手すぎない??

電車で席を譲ろうとして、相手が座ってくれなかったからといって、怒ったり、気まずくなるのって自分勝手すぎない??

毎日電車に乗る。
最近は、月に数度新幹線にも乗る。
新幹線に乗り込む際、時々大きなスーツケースを持っている人がいるので、少しだけ手伝おうと声を掛ける。
「手伝いましょうか?」

すると、そういう言葉をかけられると思っていない人は、反射的に「だいじょうぶです」と言う。
本当に大丈夫なのかどうかはわからないし、何が「大丈夫」なのかわからないけど、相手が助けを必要としていないのであれば、それでいい。
だから、「そうですか」と、にこやかに応える。

その人よりも早めに乗り込む形になるので、車両に乗り込むと、声かけた相手が僕に対して「すみません」と詫びるように言ってくる。



親切心に対してそれが必要ないなら、「いりません」ときっぱり断られても、僕は気にしない。
それは相手の判断だからだ。

いらないものは、いらないのだから、断ればいいだろう。
お店のレジで、「ポイントカードをお作りしますか?」と訊かれたら、「いりません」や「結構です」と答えて差し支えないはずだ。「だいじょうぶです」の何がだいじょうぶなのかわからない。



自分が誰かに対して親切心や礼儀として何かを問う。
「問う」ということは、相手を強制させるわけではなく、相手に選択をお願いすること。
だから、Yesであることもあれば、Noであることもあるのが当然だ。

情報の波と「親切心」


この情報社会において、情報やコラムというのはたくさんある。
そのなかで、仕事に関するものは高確率で悪い点を指摘している気がする。
特に最近は、いろいろな人がいるようで、なんでも「個性」と言い張ったり、客ー店員の関係を利用して怒鳴り散らしている人もいる。

自分が親切心でやっていることなのに、それに対して、相手がその親切心を受け取ってくれないからといって逆上するのって、変じゃない????

「日頃善い行いをしているから、神様が味方をする」というのは、神様が味方をしてくれるように善い行いをしているの?

「ゴミを拾うから、神様が味方をしてくれる。」
とか、
「人に優しくしたから、何かいいことが起きるはず。」
というのは、僕は腑に落ちない。

善いと思った言動をするのは、誰かのためではないし、神様のもとで徳を貯蓄するためでもない。
「自分が善いと思った言動」だからこそ、それを行動に移すのだと思う。


だから、人が見ていないときは信号を無視して、人がいるときは信号を待つような行動ほど道徳的にかっこの悪いことはない。
それと同じで、人によって態度を大きく変えるのもカッコが悪い。
老若男女同じ対応するべきだと思うのだが、女性には怒鳴り散らすくせに、男性には何も言わなかったりする。


誰かが見ているから、とか、
自分よりも弱そうだから、とか、
そういう風に自分のなかで道徳的な基準を持たずに、外部の条件で自身の言動を変えていると、かなり疲れるだろうなぁと思う。


信号無視するなら、一貫して信号無視すればいいし、ゴミをポイ捨てするなら警察官の前で捨てるべきだろう。
突っかかりたいなら人を選ばずに突っかかったほうが、道徳的に自分の芯をしっかり持っている。
そうに思うのだ。

電車の中で席を譲るのは、「相手に親切にしたい」と想う心によるものであって、押し付けるものではない

人に親切にしようとしたのに、相手に断れて、かえって「なんだ!親切にしてやってるのに!!」というタイプの人がいる。
どうやらネットの世界にはそういう人が多いようで、よくそういうコラムを見かける。

若者は、年配者を敬い、席を譲る。

僕は基本的に席を譲ろうとする気概はある。
でも、めちゃくちゃ山登りに行く格好をしている年配者が目の前にいても、譲らないことはある。
意地悪をしているわけではない。


昔、大学受験当日の朝、受験会場に向かう電車内でおばあちゃんに席をゆずった。
その大学の受験には不合格だったのをよく覚えている。
そのおばあちゃんは、「ありがとう」と言って座った。


僕は、親切心は自分のためのものであって、その心を元に生まれる言動は相手のためにある。
僕が大切しているのは、その自分自身の心の部分であって、言動はあまり気にしていない。

例えるならば、
「電車で席を譲ってあげたい」と思っている自分の感情(心)を満たすために、自分なりに相手を思いやった言動をする。
結果的に、その言動が相手に受け入れられても、受け入れらなくても、どちらでもいい。
だって、それは相手が決めることだから。


だからこそ、「席を譲ってあげようと声をかけたのに、断られて恥ずかしい」という若者コラムの主張に共感できない。

小さな親切、大きなお世話 ということわざがある。
相手に過剰に干渉されるのは、気持ち悪い。

自分のことは自分が決める と思うのに、相手に対しては自分の小さな親切を押し付ける。
それが「大きなお世話」として却ってると、たちまち自分の親切な言動自体が否定された気になってしまうのだろう。
否定されたのはあくまでも、「言動」であって、親切にしたいと思う「心」ではないと思うのだ。

「相手に貢献すること」よりも、「貢献心」を大切に

アドラー心理学がどういうものだったかは、もう覚えていない。
コロンビアで生活していた2年間で、自分と向き合う時間が長く、新しい側面と出会う場面が多かったので、「心」にまつわる電子書籍をたくさん読んでいた。


かっこいいことを言うつもりはない。



相手の気持ちや言動を変えることはおろか、相手が考えていることや感情を理解することさえ難しい。

親や子、兄弟や恋人、親友、、、、
自分とより親しい関係の人たちのことさえわからない。
「今、サラダを食べようと思っているみたいだから、ドレッシングを差し出してあげよう」というように、言動を観察していれば、パターン化されたものは察することはできる。
でも、基本的に全くわからない。

なら、電車で目の前に立っている人が何を考えているか、何を求めているか、今座りたいかどうか、「座りますか?」と訊いたら座るかどうか、そういうことはわかりっこないのだ。


だから、相手への貢献よりも、自分自身の貢献感・貢献心を大切にしたほうがいいのではないだろうか。

自分が親切にしたいから、親切にしてみる。
そこでその小さな親切が、相手にとって大きなお世話であろうと、自分自身は「親切心(貢献心)」だけで幸せを得ることができる。

何か目標を立てる際、「相手を幸せにすること!」のように他者への貢献を軸にすることは素晴らしいことだが、実際に目標を立てる際はその評価を自分自身に向けるべきだ。
そうしないと、相手を幸せにできない自分になぜか苛むことになってしまうだろう。



人をしあわせにしたいとよく思っていたが、「その人の幸せはその人自身が決めることだから、その相手の基準を自分が勝手に創って妄想に更けるのはやめよう」、最近は自分自身の牙を抜いた。

のほほんと生きてます。


1日1クリック、お願いします!
ランキング参加中♪ →青年海外協力隊

応援いただけると、嬉しいです

*ただのブログ村のリンクです

スポンサードリンク
 




 




 

Chaito

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)