知らないことは知らん:そのときの「最善」を求めて

知らないことは知らん:そのときの「最善」を求めて

どの分野にも、専門家がいる。
それはつまり、その分野には専門家が必要だと言うことだ。
まぁ、何の、どんな専門家なのかわからないひともいるけど。

でも、ひとつ確実に言えることは、
「自分が詳しく知っているからといって、万人が知っているわけではない」ということだ。

知らないことは、知らん。

恥ずかしげもなく言いたいが、
知らないことは知らん!!

知らないことがあるから、知的好奇心をくすぐられる。
知らないことを「知らない」と言えないのはつらいことだ。
そんな世の中はポイズンだろう。


簡単に調べられるから「知らない」って、なかなか言えない世の中になってきました。

調べてから訊いてよ
調べてから来いよ


面と向かっては絶対に言わない(言えない)ことが言えるようになった、こんな世の中はポイズンだ。

じゃぁ、知っているひとたちだけで話してて

知らないことについては、それをよく知るひとにゆだねたい。
それをよく知る人から、わかりやすく納得いくまで説明を受けたい。

なにかを知っているひとがいれば、なにも知らないひともいる。
ぼくもよく「何も知らないね!」と親近感を込めて言われることがある。

それは、真実なのだ。
ぼくは何も知らないから!

自分が知っていることを、相手が知っているわけではない。
相手が知っていることを、自分が知っているわけでもない。


これって、普通のことだ。


世界が混沌としているのもあって、知っていたほうがいいことはたくさんある。
でも、普通、すべてを網羅的に深く理解できることない。

(科学のなかにもいろいろ分野があるわけだが、)
経済に詳しいからと言って、資金運用に詳しいとは限らない。
海外で暮らしていたからと言って、海外の社会デモに詳しいとは限らない。

SDGsのように、「誰も取り残さない」ということは大切なことだ。
ただ、どこまでフォローするのかをしっかり考えないといけない。


3kmマラソンのゴールを目標として設定したとき、速く走ることができるひともいれば、「参加することに意味がある」と歩くようなペースで走るひともいる。
そして、老若男女が参加できる。

男性と女性、若者と年配など、さまざまなカテゴリーがある。
ひとにはひとの歩み方がある。


全王様のようにすべてを知っていたとしたら、娯楽は運任せのギャンブルしかないのだろうか

その時点での最善の選択を繰り返して

あとあとから振り返ることで、最短距離を導き出すのは比較的容易だ。
でも、今から最善の選択を繰り返して進んでいけば、必然的に最善の結果が得られるかと考えると、そうではない。

結局、ぼくらはそのときどきで最善を繰り返し選択するしかない。
そのときの自分にゆだねるしかない。



わからないなら、教えてあげればいいし、
それでもわからないなら、また何度でも教えてあげればいい。
何度も教えることを通じて、自分自身何度も自己学習ができる。



~~~~~~~~~~~~~~~~~

新しい記事を書きたいと思ったら、当時のぼくが途中までこの記事を書き進めていた。
当時のぼくは、この記事のようなポエムを書きたかったのだろうか。
今となっては、ここまで書いてきたような熱量を持っていない。
ぼくができる、いまの最善の選択は、この記事をここで終わらせることだ。

熱いことを書きたいときもあれば、読み返して恥ずかしく思うこともある。
けれど、その記事から当時の自分の気持ちや考えを知ることができるのは、なんだか、自分ではない知らない自分を発見したような気持ちになり、「こういうひともいるよな~」と教訓にできるのでいい。


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Chaito

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