「親を悲しませるような悪いことはしない」というスローガンが与える本質的な違和感

「親を悲しませるような悪いことはしない」というスローガンが与える本質的な違和感

小学校には、スローガンやキャッチフレーズがある。
非常にわかりやすく、そして核心を突いた言葉であることが多い。

子どもが理解しやすいように、つり革広告のようなアイディア性や難解な文章は必要ではない。

ぼくが毎日仕事に向かう道ばたにも、標識がある。
それは子ども向けというよりも、学校の周りの大人たちに向けられた標識でもあるように感じる。

我々は、なぜ悪いことをしてはいけないのか?

悪いことは、悪い。

善いことは、善い。


この判断基準に、親や友だちは出てこない。

自分が悪いと思うから、それをやってはいけないのであって、誰かが悲しむからやってはいけないわけではない。


かえって言えば、
親が悲しまなければ、悪いことをしてもいいのだろうか?

いいはずがない。


基準は決して、「親」ではない。
自分が「してはいけない」と感じたことを律するのは自分自身だろう。

それを、他者に委ねてはいけない。



自身の判断は、自分のなかの基準で判断するべき

善いことをするときもそうだろう。

誰かに褒められたいがために、善いことをするわけではない。
親に褒められたいから、テストで良い点数を取るわけではないし、
道端のゴミをひろってゴミ箱に捨てるのも、誰かによく見られたいからするわけではないだろう。


自分以外を自分の基準にしてしまうと、路頭に迷いやすい。
自分の価値観のようで、まったくそうではない他者依存の価値観になってしまい、しっぺ返しを喰らう。
自分の価値観なのに、それが他者の価値観と同じになれば、自分の個性に苛むことになる。


人に褒められたいから善いことをするという子どももいるかもしれない。
○○をすると、親は喜んでくれる。
××をすると、友だちが喜んでくれる。

奉仕性があることは素晴らしいことだが、相手が喜んでくれなかったら、その奉仕性で得ていた幸福感はなくなる。

その行い自体は良いことなのに、誰かに褒めてもらわないと善いことをしなくなる。

大人になると善いことをしても、それは”当たり前”だから褒めてもらえない場合が多い。
常に褒めてもらえるわけではないのだから、「なぜ善いことをするのか」の解は、自分のなかで見つけなくてはいけない。

このまえ電車に挟まれた


駅には大体どこにでも、「駆け込み乗車禁止」の張り紙がある。

ぼくはこの前、駆け込み乗車をして、鞄をドアに食べられた。
そのときは、ただただ恥ずかしかったことと、走って急いでいたので汗だくだったこととで、二重で恥ずかしかったことしか覚えていない。

いまでもこの話をすると体温が上がるくらいには、恥ずべき行為だと思っている。


それ以来、時間によりゆとりを持つように心がけるようにしている。
1時間に1、2本しか電車が来ない沿線では、心のゆとりがあっても、走ってでも乗り込みたい電車がある。

それでも、意外と走っているひとを見かけることはない。

みんなしっかり、今の生活に慣れているんだなぁ。。。

朝7時から開いてる本屋さんが近くにあれば、30分くらい待っていられるのに。

そうに考えると、コロンビアで1時間とか待たされても、散策して時間を潰していたあの頃が懐かしい。


帰国して、そろそろ半年が経過する。
そして、2018年ももう終わりを迎える。


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Chaito

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