マナーやルールの違いは文化ではなく、個人の意識の熟成度だと思う

マナーやルールの違いは文化ではなく、個人の意識の熟成度だと思う

文化が違えば、ルールやマナーが違う。
では、日本のなかでそのルールが違うのは、文化が違うことを意味するのだろうか?

ルールやマナーを守れない人、守らない人が多いとすれば、それはほかに問題があるのではないだろうか。

「ルールを守ってください」と言うなら、その暗黙のルールは頭のなかから文字に書き落として、周知してほしいものだ

いつも自転車を駐める場所と別の場所に置いた。
どちらも、見回りのおじさんがいるので盗難がすくなさそうでよい。

少し良い自転車に乗っているので、鍵を動かないもの(ポール)と結びつけて置いた。
(良い自転車は車体が8キロなど軽いため持って行かれやすく、動かないものにくくりつけて駐めるのが一般的)

その自転車置き場に駐めたのは初めてだったので、自転車を取りに行くときに「盗まれていないかな」と不安になっていた。
自転車はそのまま残っていたのだが、1枚の紙があった。


【自転車をものとつなげないでください。ルールはしっかり守ってください。管理人】


2ロックの看板はあったけど、そういうルールは特にどこにも書いてなかった。
結局1度きりでその自転車置き場を使うのはやめた。

書いていないルールを守ることは困難で、その暗黙のルールを守ることで自分の自転車を盗難のリスクにさらすのを避けるためだ。



最近、こういう暗黙のルール的な感じで他者に押しつける事案ばかりが僕の周りで起きている。
不思議でしょうがない。

「ルール」と言うなら、頭のなかのルールではなく、他者にわかるように文字でルールにしてほしいと切に願う。

福島の人の交通マナーが悪いのが、すごく気になる

以前、福島の歩行者が信号を待たず、横断歩道をノールックで飛び出てくることに触れた。

僕はその指摘を周りの人に雑談的に話すだけで、公衆マナー改善のためにどこかの組織に意見したりしていない。
福島の人に何かを問いかけたわけではない。

だから、福島の大学生がめちゃくちゃ信号無視することも、信号を待たずに5mほど離れた地点を斜め横断することも一向に改善される気配はない。


この歩行者マナーの悪さがおもしろいのは、彼らが急いでいないということだ。
急いでいないのに、大人数が信号待ちしているなか、行きシャーシャーと信号無視をする。
信号待ちは1分くらいのもので、結局信号を待つ僕らは信号無視して渡った人たちに信号の先で追いつく。

彼らはなんのために、信号無視しているのだろうか??
さっぱりわからない。


その人たちがポリシーとして常に信号無視するのであれば、それは一貫した道徳観に基づいているので、それはそれでいいと思う。
でも、その人たちは(大学生の交通マナーが悪くて稀に立っている)警察官がいると、信号を待つのだ。

「よくないこと」と認識しながらもそれを守らないのは、僕はかっこう悪いなと思う。


小学生が横断歩道の反対で信号を待っていたら、彼らは”大人として”信号を守るのだろうか?
もし守るのなら、それはそれでかっこうが悪い。
誰が見てる見てないかに関わらず、交通ルールは守りましょう。

彼らはきっと就活の時だけ、信号を守るようになるのだろう。
信号を守ることは、マナーではなく、ルールだからね。

電車内でカバンを下さないから、JRに意見した

大学生になるまで電車に乗っていなかったぼくが言うのもおかしいが、
ぼくが毎日通勤で乗っている電車の高校生・大学生は背負ったカバンを下さずに乗っている。
さらに、車内の奥に詰めないで、ドア前のスペースに群がるので、一見すごく混んでいるように演出している。
不思議で仕方ない。

毎日電車通学していても、自分たちで快適に乗り降りできるように改善されることはない。
高校生なら1、2年もしたら、どうしたらあの狭い箱の中でより快適に過ごせるようになるかを考えそうなものだが、彼らはそれに耐え続けている。
特に高校生は、大きなカバンを背負いがちなので、1人で2人分のスペースを占有する。

高校や大学でそういうマナーアップ運動していないのか疑問だけど、ひとまず福島に来てから半年以上経っても何も変わらないので、JR東日本にコメントした。
その日から車内アナウンスが増えた気がするけど、イヤホンをしている人が多い昨今はアナウンスではなく、ドア付近にシールを貼ったほうが効果がありそうなので、それも伝えた。


ルールやマナーは個人で考えて熟成していくよりも、周りから伝えられて気づかされることの方が多い。

大浴場でタオルを使わない人

大学生の頃、横浜の小学生の学外実習にボランティアでよく参加していた。
そこでは、集団行動の大切さを含め、お風呂の入り方などの実践教育もあった。

お風呂に入りに行くのにタオルを持たない子もいたりして、「家ではどうしているのだろう?」と素朴に疑問に思うこともあった。


さて、最近ジムに行き始めた。
これが結構楽しくて、週3、4日通っているのだが、そこに大浴場がある。
サウナもあったり、水風呂もあるので、運動せずともそれだけを求めて通うのも悪くはなさそうだ。

大の大人というか、大の男しかいないのに、タオルで体を拭かずに風呂場を出る人がいる。
風呂場のドアには「体をタオルで拭いてから出てください」とイラスト付きであるのにも関わらず、である。

これはなんなのだろうか?


お風呂は体を拭いてから出るというのは、マナーなのか、ルールなのか。

ルールやマナーは難しい

「エスカレータの片側を空けるのはマナーではない」ということが最近ニュースとして取り上げられる。
日本のエスカレータは歩く仕様になっていないから、2列で乗ることがルールだそうだ。

でも、一旦広く普及してしまった”偽のマナー”は、すぐに逆方向に変えることはできないだろう。


ぼくがコロンビアで2年間暮らしていたから、とかいう話ではないとは思うのだが、福島に来てから自分が知るルールやマナーの基準が一致しないことがちょくちょくある。
それは、自分の周りの知人と話すと、その人たちもその違いを大いに感じている。


日本人として同じ文化を持ちながらも、地域によってはルールやマナーが異なる。
この違いは面白い。

もし、マナーが熟成されていくものだとしたら、誰も指摘せずに放置しておいたら、そのマナーは鎖国状態になるのだろう。
マナーはみんなが知っているからこそ発揮される気遣い。

では、同じ地域にいても、ルールやマナーを遵守している人はどこから生まれてくるのだろうか?

自由の国コロンビアの片田舎の農村にも、突然変異的に日本人のような気遣いができるコロンビア人がいた。
マナーや心遣いは必ずしも社会が育むものではなく、個人の心のなかが言動となって表現されるだけなのかもしれない。


1日1クリック、お願いします!
ランキング参加中♪ →青年海外協力隊

応援いただけると、嬉しいです

*ただのブログ村のリンクです

スポンサードリンク
 




 




 

Chaito

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)