人を幸せにしたことのない僕が、愛について考えてみる

人を幸せにしたことのない僕が、愛について考えてみる

ふと、”愛”について考えてみたいと思った。

なぜだかはわからない。
答えに行き着いたわけでもない。

でも、なぜか朝起きたら、愛について自分の気持ちをまとめたい気分だった。

 

話がややこしくなると面倒なので、この記事で扱う”愛”を示そう。
この記事での愛は、恋人や結婚相手などを指す。

 

ぼくは人を幸せにしたことがない

ぼくは、自分が好きな人が幸せであることに幸せを感じる。

だから、その人が幸せでなければ、ぼくも幸せでないことになる。
その人を幸せにするのが僕であれば、それはこの上ない幸せだ。

でも、ぼくはそういう意味で、ひとを幸せにできたことがない。

そのたびに、自分の人間性を否定された気分になるわけだが、恋愛というのは相手が在ってのものだから仕方ない。

その人にとって、そのときのぼくの価値が高くなかっただけであって、ぼく本来の価値がなくなったわけではない。

 

ぼくは人を幸せにできたためしがないので、結婚をしているひとや家族を持っているひとを見ると、「すごいなぁ」と素直に尊敬する。

 

愛し抜けるポイントがひとつあれば十分

 

愛し抜けるポイントがひとつあればいいのに
それだけでいいのに

この歌詞は、B’zのイチブトゼンブという曲のワンフレーズだ。
ブザービートというドラマのテーマソングで、ぼくが高校生くらいの頃によく聴いていた曲なのだが、改めて聴くとこの曲の深さを数年越しに理解できるようになっていた。

 

 

男性は、女性を好きになると、その人を幸せにすることに対して覚悟を決める。
少なくとも、ぼくはそう。

でも、この「覚悟」は女性には理解できないようである。笑

何を勝手に覚悟を決めているのか、わからないらしい

ちょっと哀しいね。

 

でも、哀しいと思っていることも、哀しいよね。
自分が勝手に覚悟を決めているだけなのに、その覚悟を相手に押しつけようとしているわけだから。

つまり、
「相手が僕の覚悟を理解してくれなくて、哀しい」
こういうことだ。

 

 

この記事はぼくのものだから、ぼくの考え方を紹介するわけだけど、
失敗から学ぶことって大きいよね。

だいたい恋愛って、うまくいかないもの。
恋愛のゴールを結婚とするなら、なかなかゴールにはたどり着かない。
そして、たどり着けるとしても、1人につき1人だ。

だから、うまくいかないものなのだろう。

 

愛するひとが幸せになってくれば、そのプレイヤーはぼくでなくてもいい

ぼくはこれまで、結婚願望が強く、家庭を持ちたい気持ちが強かった。

いわゆる「遊ぶ」という恋愛をする気は毛頭なかった。
だから、真面目に人を愛していたわけだ。

でも、現状からわかるように、その愛情のキャッチボールがうまく続いたことはなかった。
そして、なんか将来もこの状況が続く気がすこししている。

 

好きになったひとを、自分の人生をかけて幸せにすることは当然のことだと思っている。
これが、「謎の覚悟」の招待なのだろう。

 

コロンビアで愛の文化を学び、その良さを目の当たりにしたので、自分も実践してみるのだけど、無償の愛というのはかなり難しい。

それでも、一番成長したなと感じるのは、
愛の本質を悟ったこと。

 

ひとを愛するということは、そのひとの幸せを願うことである。

たとえば、親は子に対して、愛情を捧げる。
それは、子の幸せを願うが故の感情であり、愛おしいが故の行動になる。

自分が愛したひとを、僕自身が幸せにすることはできなかったとしても、そのひとがその人の幸せをつかんでくれれば、それでいい。
そうに心から思うようになった。
というか、そうに思ってしまった。

もちろん、自分がそのプレイヤーであれば、それが理想だ。
でも、相手の幸せを願うのであれば、必ずしも自分がプレイヤーである必要はない。

自分がそのプレイヤーでないことがわかれば、哀しいのは当然のこと。
でも、その人を「愛する」ということは、もっと大きな枠のことだと気づいた。

それに気づいてから、急に恋愛に関して、自分の心が澄み渡った気がした。

 

我人を愛す、故に人なり

この記事を読むと、とってもきれい事のように感じるかもしれない。

でも、実際自分の心のなかは、嘘のようにそんな感じだ。

相手のことなんてわからない。
でも、なにか愛している・愛せるポイントがあって、「自分の人生をかけてでも幸せにしたい」と覚悟を決めるためには、それだけで十分なのだ。

そうに覚悟を決めていても、うまくいかないこともある。
それでも、それは自分が愛したひとが幸せを手に入れるために必要なことなのだから、そのときは哀しいかもしれないけど、素直に受け止める。
そこから決して逃げてはいけない。

必ず、その状況と自分の感情と向き合って、乗り越える。
これは、なにも恋愛に限ったことではないと思う。

時間が解決してくれることもあるだろう。
でも、「自分で解決する」ことと「時間が解決してくれる」ことは違う。

どれほど苦しくても、自分の気持ちから目をそらしてはいけない。

 

 

たくさんもがくと、その先にようやく見たことのない絶景が現れる。
それを悟りと呼ぼう。
自分の核心となる部分だ。

悟りを開いた数だけ幸せになることはない。
でも、悟りを開くと、自分のなかで肝が据わる気がする。

 

この世界は、愛に満ちている。
ほかのひとの幸せを純粋に願うことができれば、それは素晴らしいことだと思う。

電車の中で外を眺めている大学生の1日の幸運を願い、ひとつの挨拶からそのひとの1日が明るく始まってくれたら良いなと明るく挨拶する。
講義を受けている学生の将来が幸せにあふれ、自分が関わっているひとみんながつらいことはあっても、より幸せな人生を送ってくれればと思う。
気持ちの良い一期一会であれば、心はほっこりする。

 

この記事やこのブログを読んでくれている人の足下に100円玉が偶然転がっていることを願っているし、ひとつでも多くの笑顔に囲まれることを願っている。

そうに考えるのが、ぼくにとって当たり前になっている。

 

『我人を愛する、故に人なり』

 

この前、朝目覚めたら、なぜかこの言葉が頭のなかに掲げられていた。

「どこかで見たフレーズを覚えていたんだろうな~」
と思って、調べてみたけど、デカルトの『我思う、故に我あり』しかそれらしきものがなかった。

 

と、最近「愛」について深層心理から考えているようなので、書いてみました。

 

料理ができるとか、服がおしゃれとか、スタイルが良いっていう小さい項目が重要な訳ではない と思うわけですよ

恋はするものではなくて、落ちるものだと思うのですよ。

だから、恋に落とすか、恋に落とされるか。
高校生が受験の時期に恋愛を始めると、勉強に集中できなくなるのは「落ちる」から。

 

子どもと同じ目線になるようにしゃがんで話していたり、ふとしたときの横顔が光って見えたりする。
どれだけ料理教室に行こうと、それに落ちるひともいれば、落ちないひともいる。
がちゃがちゃ騒がずに、隅の方で静かにマイペースで何かをしているだけで落ちたりもする。

意外と、意識的に”何かをする”よりも、”何もしていない”ときのほうが落ちやすいような気がする。
というのも、舞い上がっているときは、「いつもの自分とは違う自分」になっている可能性が高いから。
その舞い上がっている自分も、そのひとのイチブなのだが、どうやら疲れるらしい。
無意識に現れる自分には自信が持てず、その「自分がつくっていない自分」をキープするのが難しいみたい。

 

ひとってなんなんだろうね。
自分らしさとか、そのひとらしさってなんなんだろうね。

なんていうことを考えてもキリがないことに気づいたから、最近は素直に等身大の自分に満足するようになりました。

 

コロンビアで出会ったひとのなかで1番素敵だと思ったひとに言われたことを、最近思い出す。
「自分は1人しかいないんだから、自分のことを好きになるように努めるのは当たり前のこと。自分は自分なのに、どうして自分のことを嫌いになったり、過小評価をする必要があるの?」

 

コロンビアから行ってから、自分のことをきちんと好きになれてきている気がするよ。

 

おわりに:自分を大切にして、相手を大切にしよう

人生って、ゲームみたいにプレイヤーを選ぶことができない。
自分は自分のまま、人生を全うしなくてはいけない。

だから、結局自分の答えは自分の中にしかないし、その答えというのは人それぞれ違うと思う。
ぼくが書いていることに共感する人もいれば、嫌悪感を持つひともいると思う。

「自分をしっかりと持つ」ことで、ひとに敬意を持って接することができるのかもしれない。

自分自身を愛することができないのに、ひとを愛することはできない。

結局僕は、自分がつくった格言
「自分が持っていないモノを、人に与えることはできない」
という格言に行き着いてしまう。

 

あなたにとって、「愛」とはどういったものでしょうか?


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Chaito

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