日本語は心的距離間や立場によって変わるから、それを再学習しなくちゃ!!

日本から帰国して、空港から実家に帰る間ラジオが流れてきた。
どうやら、若い女性のカリスマリーダーらしい青山テルマさんのラジオだった。

ぼくは彼女の曲、「そばにいるね」だけ知っている。
youtubeで調べてみると、10年前の曲だそうだ。ぼくが16歳のころなので、高校生のときの曲だ。

この曲か知らないが、フワフワのアルパカの毛でできたような白いニットを被って歌を歌っていたイメージがとても強い。
優しい顔して、切ない声で失恋ソングばかり歌っていたというイメージを持っているので、とても綺麗な言葉遣いをしているイメージを持っていた。

 

「マジで」とか、「ウケルー」とか、マジウケるんですけどー

ラジオを聞いていると、すごい若者言葉を繰り出してきた。
特に、それがまじまじと聞いた帰国後初めての日本語だったので、なおのこと真剣に聞き入っていた。

どうやら、最近の若い女の子のオピニオンリーダー的な存在らしい。

西野カナじゃないんだな~

西野カナの曲はぼくは好きです。

 

そんななかこの曲が流れてきた

 

一緒に時間を過ごしているひととの問題だろうけど、ぼくの周りにはこういう言葉遣いをする人はいなかったから、なおのこと驚いた。
まぁ、昔からいろいろな言葉遣いの人がいるんだろうけどね!!

 

東南アジアや南アジアのひとが日本語を学習するのをサポートする立場にいたので、個人的に綺麗ではない単語を使わないように日ごろから心がけていたのだけど、ある日仲の良い子から言われた。
「ほかの学生の日本語聞いていると、汚い言葉をよく使うんですね。あまり好きじゃないです」と。

 

きっと”汚い言葉”というのは、文化圏によって大きくその枠自体が変わってくる。
コロンビアでも若者は、Marica ゲイという意味の単語を、句読点のごとく連発してくる。「コロンビアにはゲイがたくさんいるけどね 笑」というのがコロンビア人に対してジョークになるくらいだった。でも、そのMaricaマリカには、特に意味を持っていない。僕らの辞書では「ゲイ」という意味で紹介されているが、実際にゲイという意味で使っているわけではない。「えーと」とか「おい、アレ何だっけ?アレだとアレ!! (ああくっそ)マリカ」という感じで使われる。

 

だから、ぼくらが何か失敗してしまったときに、「クソー!!」と憤慨するのも、ある種の汚い言葉としてとらえられてしまう可能性を秘めている。

 

日本語は心的距離感で語彙が変わるから、再学習しないといけない

2年間海外にいると、圧倒的に日本語に触れる機会が少ない。

協力隊員同士で話していると、年齢の幅が広いこともあり、丁寧でよそよそしい日本語を使い続けることになる。
だから、日本の俗世界とのかかわりは遮断されて、2年間を過ごすことになる。

その分、帰国後に友人やフレンドリーなひとと話していると、「この人の日本語綺麗だな」「このひとはフレンドリーな話し方をするな」とちょっと分析してしまう。
なんせ、2年間生きた日本語を使ってこなかったのだから。

特に、日本語は言語の特徴上、日本の尊敬の文化と密接にかかわってるので、尊敬語や謙譲語、丁寧語、タメ口を使い分けなくてはいけない。いくら日本語が母語であったとしても、これを無意識に判断できるようなレベルに帰国直後の語学レベルはない。
なんせ、尊敬の文化というのは、相手との心的距離や立場を加味したうえで、語彙が決定されるからだ。

コロンビアにいたときのような、コロンビア人に対して感じていた同じ心的距離でフランクに話すとすると、それは多くの日本人にとって「近すぎたりする」ことだろう。

 

だから、「こういうときはどういう距離感の語彙を使うのか」を再度学習しなくてはいけないのだ。

 

音楽を聴いていても、みんな綺麗な言葉遣いで歌を歌う。歌詞が綺麗だからね。

 

日本代表の協力隊が、代表していた日本国をまじまじと再観察する

これまでは、すべての隊員が日本を代表して、派遣国で活動を行ってきた。
帰国後に、「あれ、俺が代表していた日本で実際こんな感じだったんだっけ?」と思うことも帰国後徐々に増えてきた。
それは何も悪い意味ばかりではない。

日曜日公園の周りをランニングしていると、公園の噴水のところで50人以上の親子が水遊びをしたり、レジャーシートの上でおにぎりを食べていた。
ぼくは、出国前にこのような風景を見たことがなかったから、「日本人の多くは次の週もよく働くために、日曜日は家でゆっくり休んでいるんだよ」と説明することが多かった。日本人=働いてばかりというイメージがあったからだ。

特に思うのは、電車のなかでみんなケータイをいじっていることとだ。
その異様な光景を見て、「暗い」と感じる人も多いだろうが、ぼくは「ああ、日本は安全だから、みんなそんなにスマホをおおっぴろげて、無防備に知らない人たちの前でピコピコできるんだな」と感じた。

コロンビアでは街中でケータイを使うときは、道の端に寄って、周囲を気にしながらスマホを取り出し、そこで通話していたからだ。
でも、日本なら、カバンを椅子の後ろに引っかけたままにしていても問題ないし、トイレに行くときにケータイと財布を机の上に置いておいても大きな問題はない。

 

表面的なコロンビアと日本の違いを理解するのは簡単だが、その理由を考えると、電車でみんながケータイをいじっていることにも”安心安全”を感じる。

ただ、各電車でのんびりとしたクラシックを流したりすれば、そこで一体感が生じるように思う。
というのも、あまりにも殺伐とした雰囲気が充満しすぎている気がするから。。。。


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Chaito

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