ネットの世界が、今の自分のすべてになりつつあるのが嫌だ!
1日が始まったときに、ワクワクすることが少なくなった。
朝起きたとき、なぜか心が閉塞感を抱えた状態で1日が始まる。
「また、いつもと変わらない日常か」
日常が楽しいときもあれば、楽しくないときもある。
今回は、そんな話をしたい
目次 Índice
ネット情報の波に乗るのが半端ではなく疲れる
コロナ禍である(言い慣れない)。
ウェビナーを含め、ネットにたくさんの情報があることに気づいたひとは多いだろう。
ぼくもそのうちのひとりだ。
国連の農業機関FAOのHPに行けば、ウェビナーのビデオコンテンツがとてもたくさんある。
1時間半のビデオが、何十本とある。
こういうことを知ってしまうと、「学習しないことは怠惰」に感じてしまう。
勝手に自分の首を絞めてしまう。
学びたい気持ちはあるが、学びたい気分ではないのだ。
勉強は贅沢なことだと考えてきた。
勉強は最高の趣味にもなるし、すべてのひとが等しく勉強する機会に恵まれている訳ではないからだ。
日本の義務教育は、中学生まで。
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利のために、ひとしく教育を受ける権利が決められているのが中学生までだ。
だから、大学はもちろん、高校は自分の意志で追加的に学びに行っているにすぎないわけだ。
ネットと適切にお付き合いするのは、難しい
ぼくら若い世代は、ネットネイティブ世代。
だから、物心ついたときから、情報量が必然的に非常に多い。
「現代人が1日に受け取る情報量は江戸時代の1年分だった!?」らしい
https://dime.jp/genre/603611/
若い世代は情報を取捨選択することが得意ではないと思う。
なぜなら、40代以上のひとたちのように、世界がネット社会に移行する前に鍛えられたベースがないからだ。
幸か不幸か、
ぼくらはネットで検索すれば、
ググったり、ヤフったりすれば、すぐにそれらしい情報にたどり着くことができる。
ここに努力もなにもない。
ただ、指を動かすか、「ヘイ、Siri」と言えばいいだけだ。
自分で記憶などしなくても、ネットを使えば、簡単に「答えらしいもの」に行き着くことができる。
将来的には、脳にチップを埋め込んで、思考の中でネット検索できるような時代が来るかもしれない。
というわけで、
若い世代は情報を覚える世代ではなくなっている。
情報は探すモノで、自分に適したものを取捨選択する世代になっている。
かといって、義務教育の過程で、取捨選択する上でのポリシーや道徳を教わるわけでもない。
だから、よくよく考えると、ネット社会をうまく活用できているわけではないのだろう。
ネットの疑似経験を、真の経験と錯覚する
ネットでは、調べればすぐに求めていた情報や他人の経験を知ることができる。
これが書籍であれば、検索機能はないので、「不必要な情報としてのまえがきや背景」なども情報として取り入れなくてはならない。
だから、自分で時間や労力を割く”気概”が、そこにはある。
他人の苦労話を聞く。
そうすると、「そんなへま、俺ならしないのに。笑」と思う。
「そんなへまは、ちょっと考えれば避けることができるだろ」
そんな感じで、若いひとたちの疑似経験は溜まっていく。
この疑似経験は自分で経験したことではなく、文章や映像で得たモノだ。
映画では数ヶ月・数年、もしくは数百年などのスケールの話が、ものの2時間程度で体感できる。
これを、さも、映画のなかの時系列を過ごしたような気分で見ている。
その2時間の中では、ストーリーでは表すことのできていない部分が必ずある。
たとえば、ストーリーのなかで必ずトイレに行ってるはずだし、「モブキャラ」にだって彼らの家族がいるのだ。
1ヶ月間ストーカーされている恐怖心を、たったの1時間ほどで同等に感受できることはないだろう。
そういうところをすっ飛ばして、2時間で表現したモノが映画だ。
疑似経験というのは、そういう意味において、意外とやっかいなものだ。
年上のひとたちに「若い人たちは頭でっかちだから」となるのは、ある程度仕方のないことだろう。
だって、触れている情報の量も質(善し悪しではない)が違うのだから。
ネットで容易に疑似体験できるからこそ、生の経験の価値が際立つ
このような時勢だからこそ、ぼくは「生の経験」により一層の価値を感じるわけだ。
疑似経験しかしていないひとばかりのなかに、生の経験を持つ人がいれば、それはこの時勢において大きな価値になるからだ。
例として不快に感じる人がいるかもしれないが、知識としての戦争についてはみんなが知っている。
それに、それを個人の思考の中で疑似経験している。
けれど、その疑似経験は決して本物ではない。
ぼくも何度も想像したことはあるが、その時代を生きた人たちの経験や感じたことと同じことを経験することはできない。
それが生の経験だ。
そして、そのような生の経験は、やはりその経験者から聞くべきだろう。
「ゆとり世代」と揶揄されるからこそ、しっかり者が際立つ。
でも、家にいるだけでは、疑似経験しかできないのだ!!!
家の中での経験は、悪い意味で変革にはならない
なにか、新しいことが起きるとワクワクする。
それは、緊張感も含む。
外に出て、緊張しながら人と会う。
そうすると、その健全な緊張感は良い刺激になる。
その刺激によって疲れるのは事実だが、自分の心がすこしでも動揺するというのは楽しいことだと思うのだ。
そのような経験は、PCやスマホからは得にくい。
これは、ぼくの使い方が悪い可能性もあるだろう。
悪い意味で、自分の興味があることしか調べないで済んでしまうから、
予期せぬ世界と出会うことがない。
ググっている時点で、ぼくの想いが「検索ワード」に反映される。
そこに現れた列挙されているサイトのなかから、さらに自分の好みで選択を繰り返す。
すると、ネットの社会はどのくらい広いかもわからないほど広いはずなのに、なんだか自分の世界が狭くなっているように感じる。
歩んでいる道の両側の壁が、刻一刻と迫ってきているような感覚だ。
だから、ぼくは、数十年後に完全デジタル社会がやってきたとしても、順応できないような気がしている。
ひとと何でもないような話をしたり、意味もなく一緒にご飯を食べたり、意見が違っていたりしても自分の知らないことを知ることができるのが好きなのだろう。
それに、「なにかをしたいという自分の根底にあるモチベーション」と「疲弊していてやる気のでない自分の今の気分」にギャップがあるから、ちぐはぐになっているのも嫌だ。
これを自粛のせいにするのも嫌だから、ぼくは最近将棋にはまっているのである。
みなさんは、人との出会いが減ってきている今に対して、どういう感情を抱いていますか??
COMMENTS & TRACKBACKS
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>若い世代は情報を取捨選択することが得意ではないと思う。
>かといって、義務教育の過程で、取捨選択する上でのポリシーや道徳を教わるわけでもない。
優れた問題意識だと思います。
最近、自分も「若者はタコツボ化しているのではないか」という懸念がありました。
今は情報量が多すぎて、そして若者は取捨選択の方法がわからない。
結果として自分が望む答えを検索して発見し、そこで満足しているのではないか?
今回、その懸念を裏付ける記事を見て、思わず膝を打ちました。
これは実はとても恐ろしいことだと思います。
世の中で実際に起きている事態を把握できず、バーチャルに満足してしまう。
後で取り返しのつかないことになります。
どうぞその問題意識を失わないでください。
大村けいすけさん
ご指摘の通りだと感じています。
けれど、この「タコツボ」のなかから抜け出るのは、相当時間が経たないと難しいとも思います。
というのも、僕より下の世代25歳以下は、たぶんタコツボの中にいるとも考えていないだろうからです。
そして不運にも私たち大人は、若者が置かれている立場、すなわち「タコツボ状態」になってしまっている教育にメスを入れることができないからです。
誰も何もしないのであれば、何も変わることなく進んでいく。
そんな気がしてしまっています。