Web上で「普通の人生」を煽るのはなぜ?:アフリカ少女を苦しめる日本の番組企画

Web上で「普通の人生」を煽るのはなぜ?:アフリカ少女を苦しめる日本の番組企画



人間に限らず、動物は皆「自分は何か特別な存在」だと思うのかもしれない。




だからなのか、この時代に入ってもなお、『特別な人生であることが良い』と煽る日本の広告は多い。
どうしてなのだろう??

どうして、特別な人生を歩んだ方がいいのだろうか?



これ、
日本人は根本的に自己肯定感が低いから、反抗心・反逆心を煽る文言が日本では多い気がし始めた。


人生において、普通の人生を歩んで何が悪いのだろうか?
何か劣等感を抱く必要があるのか?

というか、そもそも論だけど、
劣等感を抱くのって、何と比較しているの?
何かと比較するのをやめれば、比較対象がいなくなるので、相対的に自己評価を下げることがなくなって、自身だけの絶対評価になると思うのだよね。
昨日と同じくらい幸せな今日なら、それで良いんじゃないかなぁ〜〜



無論、そのネット広告を見て、これだけ僕の中に違和感として長く残るということは、やはりその広告の宣伝効果からすると成功しているのだろう。
僕はまんまと、そのネット広告の戦略に引っかかったのだ。

でもね、
僕はそういう触れ込みで煽る”何か”を利用したいと思わないし、利用することはないから、結果的には失敗になるんだけどねー

普通の人生を歩める裕福さ

人生は、何も日本人だけのものではない。

言葉遊びを始めるが、
人生は、世界中の人類に皆平等に授けられる。
生を受けた瞬間から人生は始まり、終わりは人それぞれだ。
同じ人生を歩む人は2人としていない。

だから、そもそも何を「普通」とするかは、非常に難しい議論だ。

でも、一つ言えることは、日本人の「普通の人生」は贅沢な人生だと言うことだ。



トイレの便座があったかいこと。
※普通、トイレの便座は温かくない。

でも、なぜか日本のトイレの便座は温かい。
そもそも、トイレが臭くない。
(僕の家の便座は常温です)

・道が綺麗。
・ゴミが(比較的)少ない。
・一眼レフのカメラで、レストランなどの席取りができるほど盗難が少ない。
→これだけは、とても奇妙。コロンビアの感覚が抜けない僕は、そのカメラをいつも最後まで「誰か持っていく人がいないかなぁ」と番犬が如く眺めてしまう
・新幹線や電車、バスでも盗難がないから安心して眠れる。
・基本的に高校まで行って、勉強できる。
・大学に進学している人も、50%以上いる。
・給料も、コロンビア人の平均年収を、日本では1ヶ月で稼げる。




勉強ができることが贅沢だと感じないほどに、我々日本人は「普通(に贅沢)な生活」を送っている。


ガスコンロをひねれば、火が出る。
そのメカニズムがわからずとも、使っている技術は多い。
僕はwifiやbluetoothのメカニズムが、身近なところではわからない。
なんとなくはわかるが、それでもその機能を使っているだけで、その奥にある洗練された技術を理解していない。

だから、僕がすごいわけではなく、それらを開発して商業化してくれた人に日々感謝せざるを得ない。

自分が構造を理解していなくても使えるものというのは、「日本」がすごいのであって、我々がすごいわけではない。



僕は日本に生まれ、現世は今の家族の元に生を授かり、紆余曲折を経ながら今の人生を歩むことができていることに感謝している。
通勤するときに毎回思う。

とあるテレビ番組は非情な事実をアフリカ少女に突きつけた

家にテレビがなく、どこで見たか、いつ見たかも覚えていないけれど、よく覚えている動画がある。

(体感的に)2010年以降、海外を特集する番組が増えた。

【世界の果てまで行ってみた】はよくみていた。
今思えば、異国の日本であそこまで日本語が上手に話せて、普通にテレビに出れるほど流暢にやりとりができるというのはすごいことだ。

コロンビアでラジオに出演したとき、もともと高めの声質なのに、さらにスペイン語を話していた自分の声が少し高めになっていた。
スペイン語は言語的に、日本語と比較するとワントーン高くなると思う。(英語は、スペイン語よりも低い)


さて、僕がみた動画の内容をご説明しよう。

アフリカの田舎に住み、そこで生活していた少女
  と
日本人の女の子
を交換留学的に異国交流するというものだった。

その企画では、アフリカ少女は日本少女の替わりに日本人家族の元で全く同じ対応をしてもらう。
その代わりに、日本少女はアフリカ少女の家族の元で生活を送る。



どういう意図があった企画なのかわからないが、
「普通に裕福な生活」を送っている日本社会に、「田舎の農村で満腹にご飯を食べることさえ苦労する生活」を送るアフリカの農村の少女を日本に連れてきていた。
日本の(贅沢な生活)水準を経験させてしまうのは、非情でしかなかったように思う。


毎日温かいご飯をたくさん食べて、しっかりした家の中で安心して眠ることができる。水も蛇口をひねれば出てくるし、家族も優しい。
私も日本に生まれたかった。。。。

彼女は、日本のように、何もしないでも贅沢に暮らせる生活を知ってしまった。
(我々が自分自身で、それらの技術を作っているわけではなく、これまでの誰かが創ってきてくれた技術を使わせていただいているだけだ。我々はそれを使うことに何も努力を必要とせずに、授かっているだけ。それは日本人の蓄積ではあるが、僕は何かそこに貢献できてはいない)

彼女は、一生日本の贅沢な生活を忘れることはなく、自分が戻った先で毎日何時間も水を汲み歩き、その水は透明ではない。
そして、
「日本では蛇口をひねるだけで水が出るのに」、
「日本ではクーラーを使えて、雨漏りのしない家で快適に過ごせるのに」、
「日本ではふかふかの布団とはずむベッドで安心して眠れるのに」
と思うだろう。


僕だって、「コロンビアなら、年末年始にカリブ海で暑いバカンスを過ごせるのに」と、東北のほんだら寒い冬にあてられ、コロンビアを恋しく思った。




生まれた場所、地域、国、世界が違えば、違うことは当然だ。
僕がコロンビアの農村で生まれたら、絶対に今のような自分にならないことは誓える。

その違いを正しく伝える(体験させる)ことが、必ず正しいことだとは思わない。


僕は特段稼いでいるわけでもないし、普通に幸せな人生を日本で送らせていただいている。
それだけでも、自分の人生は恵まれていると思っている。

もちろん、彼らには彼らの幸せがあることは理解しているけど、日本の社会的基盤の底の高さは贅沢である。

停電にならないとか、お湯が出るとか、殺人が少ないとか、病院に行けば大概の病気は治療できるとか、

人生は普通でいいでしょう

国が違えば、普通な人生は違う。
地域が違えば、人が違えば、普通な人生が違う。

それは言わば当然のことだ。

僕の人生は普通ではないのだろうか?
いや、普通だ。


というか、特別な人生って何???
毎日ビジネス思考でビジネスに精を出すことができる人は、その人にとってそれが普通な人生だろう。

年収5000万円の人にとって、その生活は普通な生活だろう。

毎日朝から夜まで仕事することも、普通だろう。
休日に、ゆっくり寝て、読書して、動画を見たり、散歩したりする。

普通だ。


今の自分の生活に満足できなくて、次のステージに進むべく、精を出す。
起業をすることも、転職することも、退職して休むことも、別に特別な選択ではないだろう。



何かを選択する際に、常に前進するばかりではないだろう。
戦略的な撤退もある。

どうして、ネット広告や最近の宣伝は、ああも攻撃的で挑発的で、反骨心を受け付けて今の生活のあり方を煽るようなものが多いのだろうか。



それらの広告を出している人が、いかに「特別な人生」を歩んでいるのか、見てみたいものだ。
特別な人生は突然訪れるわけではないから、日々普通の人生を送り、徐々に自分が思う「特別な人生」に寄せて行けば良いだろう。
でも、「特別な人生」に到達したころには、それはもう普通の人生になっているんだろうけどね!笑


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Chaito

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