【モノを持たない豊かさ】最後尾 向きが変われば 先頭に
日本では、田舎が注目され始めている。
一昔前まで、田舎=遅れている地域。文明から取り残された地域。のような扱いだった。
日本社会、ひいては日本人の望むものの方向が変わりつつあるということだ。
それまで取り残されていた地域が、方向転換によって、一番前を歩く。
それは、われわれの”豊かさ”にも通じるものがあるのではないだろうか??
目次 Índice
モノに満たされた世界から、モノがない世界へ
歴史の話をするつもりはない。
これまで日本人は多くのモノを生み出し、改良し、改善し、進化させてきた。
われわれは、心のどこかで「なにかを生み出さなくてはいけない」という強迫観念的な使命を抱いているような気がする。
生み出すことで発展してきた経験から、生み出さないと衰退すると考えるのだろう。
だから、常に新しいものを生み出し続ける。
常に新しい価値を付加し続けようと努力し、妥協しない。
機能Aを求めているだけなのに、機能A+Bを提供する。機能Bは付加価値である。
これは日本流の素晴らしいサービス精神だ。
だから、シンプルなモノというのは意外と少ない。
「良いモノ」というのは、高性能で高機能なのである。そして、過剰スペックである。
求めている以上のサービスを提供してくれるモノで、われわれの生活は満たされている。
日本には、痒い所に手が届く技術が本当にたくさんあってびっくりする。
それだけ、われわれの生活はたくさんの機能によって成り立っていると言える。
「あれがあったらいいな」、「こういうことができる技術があれば、よりスムーズにいくようになるな」という部分にすぐに気が付く。
そして、それを実際にやってしまう。
素晴らしい。
でも、帰国して思うのは、
「あったらいいな」と思う技術が実在しているけど、特段なくても困らないものばかりだな ということである。
たとえば、簡単に目に付くのは、スーパーマーケットの無人レジ。
これは、帰国隊員がよく挙げる例のひとつだ。
無駄を極限まで排除したいがために行き着いた機械的な超文明社会に疑問を呈したくなるのだろう。
ぼくは生涯で一度も無人レジを使ったことがない。
使い方が分からないというのが最初の障壁であるが、使い方を教わってもべつに使いたいとは思わない。
だから、使う気が一切ない。
『ゆっくりレジの列に並んで待っていればいいじゃん』と思う。
だから、ガム1個とペットボトル1本を買うだけのとき、無人レジにだれもいなくても、普段通りレジに並ぶ。
有人レジだ。
有人レジという言葉が創られるほどに、無人レジが増えてきたと思うとびっくりする。
ちなみに、コロンビアに行く2年前から無人レジはあった。
ぼくは、レジに並んで、待つ時間を楽しんでいる。
待ち時間を楽しむ習慣があるし、気分転換のために買い物に出かけることが多いのでなるべくその空気のなかにいたいと思っている。
他方、無人レジを使う人を見かけることもたくさんあるから、それはそれでとても役に立っているのだろう。
1人店員さんが見守っているだけで、4つや6つのレジで同時にお客さんを捌くことができるのだから、非常に優れた効率性だ。
でも、在ったら便利なのかもしれないが、べつになくても困らない。
急いでいるひとは困るかもしれないが、急いでいるなら買い物なんかしなければいいのだ。
急いでいるのなら、5分10分早く出てくればいい。
根本的な原因はレジの処理能力ではなく、レジを待つ時間が退屈という発想なのではなかろうか。
付加的なサービスを当たり前のように期待する、息苦しい社会
高度なサービスによって提供される便利さ・快適性は、ときに諸刃の剣であるような気がする。
なぜなら、そのサービスは付加価値であるのにもかかわらず、それを「在って、当たり前のサービスだ」と錯覚してしまう可能性が高いからだ。そして、われわれはすでに、感覚的にそれが当たり前だと錯覚してしまっている気がする。
付加価値はあくまでも相手の好意によって付加されるべきものなので、利用者側が「ここのサービスには付加価値が付いてこない!!」と思ってしまうこと自体、変なことなのである。
たくさん高機能なモノが手に入り、たくさんの質の高いサービスを受けることができる。
それが当たり前だと思って生活している限り、このまま「過剰な世界」を脱することはないだろう。
これからは、「たくさんのモノに満たされるなかに幸せを求める」のではなく、「満たされているなかから不要なモノを削っていくことで幸せを整理する」べきだと思う。
ぼくもそうだったが、まわりにたくさん本があったり、「いつか使う機会があるだろう」というモノに囲まれている。
特に僕の場合、コロンビアに2年間いて、そこで充実した時間を過ごすことができたのだから、本質的には2年間僕の部屋でお留守番をしていたモノたちは”必要ではないモノ”なのである。
つまり、なくても問題ないモノたちなのだ。
「あったらいいな♪♪」は、無くてもべつに問題ない
途上国で2年間暮らす。
このとき日本から持っていくものは、スーツケース2つほど。
これで2年間過ごさなくてはいけない。
あなたは2年間日本の外で暮らすことになったら何を持っていきますか?
それがあなたが必要なモノだと思います。
必然的に持っていくものは厳選される。
選んだものを中心に据えるだけで、2年間生きていける。
現地でほかに必要なモノを買い足すだろうが、それはモノの価値としては高くない。
特に思い入れもなく、どこかで買って入手できることで満足できる程度だからだ。
ぼくはこのように考えるから、帰国してから自分の身の回りの最重要必要モノが明確になった。
僕の場合、スマホ、パソコンがあれば、ほかはわりと替えが効く。
ほかは、必要ではないモノということだ。
多くのモノを自分の「あったらいいな」精神によって、身近に置いていることがわかった。
カメラ、イヤホン、電動フロス etc.
「あったらいいな」に囲まれている生活は、物質主義になりやすい。
でも、いまのぼくは、あったらいいな=なくても問題ない と思い始めた。
「必要なモノ」と「それ以外の不要なモノ」と2分できるわけではなく、優先順位があるけどね。
パソコンは寿命が近づいているので買い替えて、ミラーレス一眼もコロンビアでおしゃかになったので買う。
必要なモノと趣味のモノは、大切だ。
ひとまず、ぼくは自分の部屋の”ごみ”を整理することにした。
本やマンガを、大きなダンボール15箱分処分した。
自分でもあんな8畳くらいのスペースにこんなに本やマンガがあったことに驚いたが、処分した15箱以外にも、研究関係や将来ビジョンを支える書籍など、処分せずに保管したい本がダンボール11箱分くらい残った。
→こういう意味ではまだぼくは捨てきる精神力がない
よくもまぁこんなに読んだなと自分でも驚いたが、それ以上に「この本を買うのに、いくらお金を使ったんだろう??」という素朴な疑問だった。ぼくはケチなので。
無駄にマンガをたくさん持っていたぼくは計算するのが怖かった。
単純に計算する。全30巻のマンガ、1冊400円だったとしても、1万2千円である。
1つのダンボールには、マンガなら80~100冊くらい入る。
全部中古のマンガも買っていたので、これどおりにはならないが。
ああ、こわいこわい
学術本はさらにえぐい。
一冊2000円以上するのが当然だからだ。
でも、学術本には中身がある。マンガのような娯楽とは違う。
だから、学術本がたくさん並べられた本棚が好きな時期が僕にもあった。
読んだ本を並べて、悦に浸るのである。自己陶酔みたいなものだ。
本を並べることで自分の知識や努力に自信を持つことができるのであれば、そうにすると良いだろう。
だから僕はした。
でもいまは読んだ本は処分して、ほかはダンボールに詰めたので、本棚4コ邪魔である。
本は読めば読んだ分だけ、自分の糧となる。
だから、ぼくは面白そうな本を読むのが好きだ。
でも、ほとんどの本は、一度読んだら読み返すことはなかったので、これからは要らなくなった本は処分していこうと思う。
と考えているけど、すぐに実践するのはやはり難しいものだ。
モノを整理することで、自分の本質に迫れる ような気がする
徐々に、身の回りのモノを整理していって、ミニマリストのようにスッキリと身軽な状態でいたい!!
なんでもかんでもモノを減らすことが良いわけではない。
「なんとなく持っているモノは役に立っていないことが多いので、そういうモノは必要ないよね」ということだ。
自分が本当に必要とするモノ。愛用しているモノ。
これらをきちんと自分で把握し、心の深い部分から何を求めているかを知ることは大切なこと。
自分の身の回りを眺めているだけで、今の自分になにが必要で、本当はなにを求めているのかが見えてくる気がする。
そのためには、雑音のように入ってきてしまう不要な情報を削るべきなのだろう。
モノに囲まれると、なんとなく孤独感を取り除いてくれ、なんとなく満たされている気持ちになる。
本屋に行って、本に囲まれただけで賢くなった気になるようなものだ。
賢くなるためには、本屋に行くだけでは不十分なのである。
「自分と向き合う時間」
それこそが自分の精神を鍛えてくれる唯一の手段だと思う。
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