日本の社会問題の多くを『ゆとり世代』という“掃き溜め”に捨てるのは、みっともないからやめてくれ
ぼくは、1992年生まれ。
いわゆる、ゆとり世代ど真ん中だ。
ゆとり世代というのは、ゆとり教育を受けてきた世代を指す。
1987年〜2004年生まれの人がその世代のようで、年齢で言うと14歳〜30歳あたりだろうか。
それまでの「詰め込み式の教育」=”勉強しかさせてこなかった教育”から、その知識偏重からの脱却を目指し思考力に重きを置いた教育方針のことを「ゆとり教育」と呼ぶ。
そのため、ゆとり教育というのは優れた教育方針であることに間違いはない。
もし、そうでなく、日本人を滅亡させるために、「バカな子どもたちに育てよう」としていたのであれば、
その教育方針を打ち出し、その教育を”強制的に”日本の未来である子どもたちに受けさせた当時の大人たちは何を考えていたのか、深く自問自答すべきである。
戦後の教育方針は、「詰め込み教育」と「ゆとり教育」に大きく二分され、その広義の意味では現在の30代、40代もゆとり世代であるそうだ。
でもきっと、40代の人は自分がゆとり世代であるとは微塵も思っていないだろうから、ここでは世間一般のイメージどおりのゆとり世代を「ゆとり世代」と呼ぶことにする。
ゆとり教育を命名したひと(昔、テレビに出ていたが、ネットでも名前がヒットしなかった)は、
本来「心にゆとりを持った世代」にしたいという良い意味合いで『ゆとり教育』を行い、そしてその強制的に敷かれた教育方針の上を生きた世代に対して『ゆとり世代』という言葉を充てた。
しかし、ここ10年以上『ゆとり世代』という単語は、若者たちをバカにする意味合いを多く含み、その言葉を生み出したひとの意に反するものとなっている。
ぼくが見たドキュメンタリーでは、その「ゆとり世代」という言葉が悪い意味になってしまったことを、その命名者は謝罪していた。
ゆとり教育への変更を実質行った中曽根元首相は、こうに答えている。
――「ゆとり教育」は失敗でしたか。中曽根元首相:こういう教育方法を目指した真意はよく分かる。私が臨教審を作った84年当時、受験地獄、詰め込み教育、偏差値重視、学歴偏重など、いろいろな弊害が出ていた。さらに青少年の犯罪も多発していた。そこで「ゆとりを持った教育にしないと、心豊かな人間を育めない」となった。こうした方向性が、今回の新学習指導要領に反映している。今の子どもは、私が子どもだった頃と比べようもないくらい負荷を負っている。インターネットなどによって情報はあふれ、IT(情報技術)や環境教育、英会話など、彼らが学ぶべき課題は昔に比べ、格段に増えている。そんな子どもたちに「心のゆとり」を与えようと考えるのは基本的に正しいことだ。
「ゆとりを持った教育にしないと、心豊かな人間を育めない」
心豊かな人間を目指していたのだ。「心豊か」とは物質主義、経済主義、学歴主義ではないということだ。
そして、この言葉は、その当時の人々は「心豊かであるようには見えなかった」ということを示すものでもある。
最近ではメディアを通じて、ゆとり世代を卑下することで、大多数の大人様方の自尊心を高める役割まで担わされている。
ゆとり世代サゲ と言われることだ。
さて、どの時代でもそうだから、年配者は「近頃の若者は全然ダメだ」と言って、自分の過去の栄光を肯定したくなる。
これは、古くエジプトやギリシャの時代から多くの人が書物や逸話に残していることなので、人生を長く生きてきた人の性なのだろう。
日本でも、江戸時代にそういう世論があったことが知られているし、世界に限ったことでもなく、人類皆兄弟。同じことを考えるのだろう。
この記事を読んでくれているひとも、若いころ年配の方からそうに言われた経験があるのではなかろうか。
たしかに、「ぼくが小学生だったころは、公園で遊んだり、夜まで友だちの家で遊んでたりしたから、“今の子ども”たちより健全なだった」気がしなくもない。
つまり、これと同じ思い違いが起きているのだ。
ぼくは26歳というまだまだ若僧で、人生は過去よりも未来の方が長い。
しかし、『自分の幼少期と今の子どもたちの“知りもしない”ことを勝手に比較して、なぜか優位に立とう』としてしまうのだ。
ぼくは実際のところ、全くいまの小学生・中学生のことを知らない。
接点が全くない。
大学生のころ、横浜市の小学校でボランティアをさせてもらっていたので、本当に全くの全くというわけではないが、全くと言って一切支障はない。
そんな“何の罪もない”“なにも知りもしない”彼らの子ども時代と比較して、「ぼくの子供のころのほうが楽しかっただろうなぁ」と心のどこかで考えてしまうのだ。
これは悲しいことだ。
実際何も知りもしないことに対して、マウントを取ろうとしているのだから。
では、なぜぼくはそうに思うのだろうか。
それは、テレビや新聞、ネット記事の影響だろう。
基本的にそこからしか、自分の世界とは接点のない情報は入ってこないからだ。
テレビのドキュメンタリーで、
学校が終わったあとに、すぐに塾に行く小学生
良い学校に入るために習い事ばかりで、自分の時間がなく、友だちと遊べない
不審者が出る危険性や子どもの声を嫌う公園の存在によって、子どもたちが外で遊べない
家のなかにいる時間が長いから、テレビやパソコン、ケータイに熱中し、受動的な性格になる
などなど
まぁ、ありきたりの情報と、そこから得て広げたぼくの想像の世界だ。
つまり、ごくごく一部の事例紹介
「モンスターペアレントが〜」
「誘拐事件が増えたから、公園には行かせない」
「勉強はできるけど、常識を知らない」
「親のしつけができてないから、子どもがわがまま」
が、その世代のすべてになってしまう可能性を秘めているのだ。
実際そうだろう。
「コロンビアはどういう国?」と問われれば、多くのひとは実際のコロンビアのことを全く知らないのにもかかわらず、その人なりに得たコロンビアに関する断片的かつ誰かのフィルターを通したうえで発信されている情報を繋ぎ合わせて、『コロンビア』のイメージをつくるのだから。
だから、テレビでゆとり世代をバカにすることには意味がある。
世間の『ゆとり世代』に対するイメージに沿った、いわゆる”あほっぽい”若者を起用し、それを司会者やゲストなどの権力を持つ年配者たちが嘲笑う構図だ。
「バカ」をテレビに出して、“バカを演じさせて”、日本社会の多くの人に『私のほうが、こんな“バカ”より優秀だ』という優越感を与えているのだ。
政治と同じだ。人数が多い層を狙って政策を立てるのだ。
テレビがくだらない
というのは当然だろう。
そういう世論のレベルに合わせて、作られてるのだから。
だから、番組にも流行り廃りがある。
“世論のレベル”に合わなければ打ち切りになり、世論の興味と合致すれば人気となる。
当然のことだ。
一昔前には日本のテレビにも、おっぱい丸出しの女性が普通に映っていた。ぼくはその時代生きていないが、それが普通だった時代があったのだ。
では、いまの40代以上の人はそういう自分たちが過ごしてきた懐かしい社会を否定するのだろうか??
しないだろう。できないだろう。
自分が過ごしてきた思い出の詰まった過去を否定したいひとなどいない。(構ってもらうために、”否定するように話す”人はいる)
『あの時代は良かった』という意見が多くを占めるはずだし、そうあるべきだ。
自分が歩んできた道は否定するものではない。
バブルの時代。
就活で何万円というお金をもらえた好景気の時代。
日本がまだまだ天井知らずの右肩上がりで、自分たちが子どもの世代・孫の世代に対して大きな負債を残すことを知らずに明るく生きてきた時代。
そのような時代を創ってきたのは、言わずもがな『その時代を生きていた”大人たち”』である。
その時代を生きた子どもたちではない。子どもは未来であるが、子どもたち自身で自分たちが望む時代を創ることはできない。
すべての子どもは、その時代の大人が創った時代を仕方なく生きるしかないのだ。
したがって、自分たちの子どもを否定したり、その若い世代を否定するということは、すなわち、自分の世代が歩んできた過去を否定することなのである。
社会を動かせる年齢層というのは、管理職など以上だろうから、ここでは30歳以上の大人としよう。
ゆとり世代という世代を作ったのは、いまの40代以上の世代ということになろうか
素晴らしいことだ。
心にゆとりを持った世代にしたいと願いを込め、教育カリキュラムを変え、土曜日を完全な休日にしてくれた。
そして、ゆとり世代を生きてきたぼくらは、ただその環境を生きてきただけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
円周率πが、ぼくのころは3.14だったが、3.1になったり、3になったという話を聞いたことがある。そしてまた、3.14に戻したと。
きっと、ゆとり世代以前の人たちは、3.1415926535で習っていたのだろう。そのほうが正しく、そのほうが優秀で、そのほうが良い人格者になるだろうからね。
ぼくは、この円周率、3.14159265358979 まで無駄に覚えてる。
高校以降、πを用いた計算を一度もしたことはないけれども。
このゆとり世代、ときどき「さとり世代」と呼ばれることもある。
簡単に言ってしまえば、「欲がない世代」だ。
これも過去の世代との比較によって生み出されたものだろう。
これを悟りと呼ぶ
車を所有することに興味をあまり持たず、マイホームでなくてもいい。時計も高価な物はいらないし、給料は少なくても自分の時間が欲しい。
恋愛にあまり興味がないらしく、自分の家庭を持ちたいわけでもない。自分の時間を謳歌するが、あまりお金のかからない趣味を好む。
家庭に関するところ以外、ぼくも当てはまる。
でも、別に悪いものではないよね。むしろ、健全な気さえする。
高価なものを買って、大量生産大量消費するアメリカ式の経済モデルはこの地球において破綻してるのを皆が学校で習い、知っているのだから。
それを、日本社会が煽り、「いまの若者は購買意欲がない」と焚きつけたいのだろう。
休日家でゴロゴロしてテレビやインターネットを楽しむことで、活発的に休日を外に出て謳歌しようとしないのも、どうやら年配の方々は嫌いらしい。
見識が少ないひとのように見えるからだろうか。
それとも、「子どもは外で遊んで来い!!」と同じニュアンスなのだろうか。
こればかりは、ゆとり教育だけでなく、
ゆとり世代とともに発展してきたインターネットやスマートフォンの存在もこの価値観の変化にはとてつもなく大きな影響を与えている。
ぼくらは小さいころから、それらのデジタルな世界と深く関わって生きているのだから。
こればかりは、ゆとり世代とインターネットの発達を分けて考えることはできない。
我々は、そのふたつが同時に起きた唯一無二の世代だからだ。
ゆとり世代は目に見える物質には、それほど大きな執着がないのかもしれない。
美味しいものが、戦時中から
白米
チョコレート
卵かけご飯
すき焼き
牛肉
寿司
パスタ
ケーキ
などなどと、この100年ほどで、その当時の社会や経済レベルに応じて移り変わってきたのと同じことだ。
すき焼きが寿司よりも絶対的に美味しいことはない。
価値観は人それぞれで、その価値観はその社会によって大枠を作られるものだ。
アメリカンドリームに憧れた世代もいるのだろう。いまの若者は、アメリカンドリームのことはあまり知らない。
「巨人・大鵬・玉子焼き」の世代もいるだろう。いまでは、巨人の試合は日テレで放送されなくなり、巨人ファンは当時に比べ少なくなった。ぼくは巨人ファンだが。
白黒テレビが出たころ、テレビのある家にみんなが集まってプロレスを見たという世代もいるだろう。我々はそれを歴史の教科書で習った。
工場がなく、輸入品によって支えられているコロンビアでは、いたるところに車やバイクの修理屋さんがあるし、服や靴を直すクリニックもとても多い。ケータイが壊れても、それを修理に出す。コロンビア人はすぐに大切なものを捨てて、新しいものを買って解決することはない。
レストランで美味しそうなメニューがあったから頼もうとすると、「それは今日はないよ」といわれることしばしばである。食材の廃棄が少なくて良い。
日本ではどうだろうか。
日本は資源国ではないから、輸入に依存するしかない。しかし、モノが溢れているし、お金を払えば綺麗な新品を買うことができる。だから、「直す」よりも「買う」を選択する。それが、日本の経済を回すためには大切な消費でもあったからだ。
だから、エコポイントなるもので消費者の購買を煽ったり、テレビのデジタル化に際して液晶テレビの購入を促したのだ。
でも、それはただ資源を使っているだけだろう。
環境に優しいクルマが販売されて、それを購入してもいいが、その今まで乗っていたクルマは中古車として世界のどこかでまた走り出すのだから、世界に一台新たに排気ガスを出し、資源消費するクルマが生まれたに違いないのだ。
目先のことばかりを気にして、「環境にやさしい」と謳うのは構わないが、全体を見ないと意味がない。木を見て森を見ずだ。
エコバッグもそうだ。
その使用資源量を考えれば、普通のビニール袋を使ったほうが環境に優しかったりする。最低でも5年は同じエコバッグを使わなければ、地球的に見ればマイナスなのだ。「環境に優しいと思ってとった行動が、実際は環境により負荷をかけていた」という事実を知れば、悲しくなる。
エコバッグは、「環境に優しそう」なので企業や団体はアピールのためにたくさん生産している。
しかし、広告のためにプリントを入れたり、ビニール袋に比べてより厚みのある頑丈な素材をたくさん使うから、その製造過程でビニール袋を生産するよりも多くのCO2を出し、資源を消費するのだ。そして、それをずーっと使い続けるかと言われれば、その多くにとって少し経てばエコバッグはゴミになる。
「リサイクルすれば問題ない」と考えるかもしれないが、100の資源量のビニール袋をリサイクルするために、120の資源量を消費していたら、ビニール袋をリサイクルするだけで20の資源量を毎回そのライフサイクルのなかで消費することになるのだ。
環境を考えるとはそういうことだ。ライフサイクルマネジメントしなくては意味がない。
だから、ぼくはスペインのバルセロナ空港で買ったエコバッグ(5年)とガラパゴスで買ったエコバッグ(1年)、そして、コロンビアの天然資源で作られた手編みのエコバッグ(半年)の3つをこれからもずっと使い続ける。
バルセロナのエコバッグについては、もう元を取ったと言えるのかもしれない。
廃棄食料や電気自動車についても触れたいけど、テーマが変わってしまうのでそれはまたの機会で
環境について完全に話が逸れてしまったので、話を戻そう。
われわれゆとり世代が苦しめられていること。
それは、いまの日本社会が未だに“さとり”を開いていないことだ。
日本の経済レベルを維持し続けることが不可能であるのにもかかわらず、いまの40代以上(50代かもしれない)の人はその経済レベルにしがみつこうとし続けている。
いまの日本社会を見れば、多くの理想と現実のギャップが浮き彫りになってきていることは明らかだ。
日本国内に住む人の足並みも大きく違っている。
しかし、それを直視せず、未来に負債を負わせながら、そのレベルを維持し続けたがる。いつまで“最盛期の日本”の経済レベルを、いまの日本が見栄を張って維持しなくてはならない?
2人分の仕事を1人に押し付けて、『それが日本では当たり前だ』と社会的にみなすのが、健全な発展と呼べるのか?現実に即したレベルで、無理のない成長をすべきだろう。“成長”とは、ときに衰退を指すときもある。人間の成長でも、身体的に劣える。それは普通のことであり、恥ずべきことではないのだ。問題は80代になっても、30代のころと全く同じことを全く同じクオリティでできると勘違いしていることだ。80代には、80代しか楽しめない世界があるものだ。
日本は、これから人口も減り、生産世代もかなり減る。
子どもも減る。
子どもが増えないことは、果たして、いまの20代30代のせいなのか?政府だけのせいなのか?
そういう社会を作った“大人”は、もう丸投げでいいのか?
われわれ人類は生まれたときすでに、1つ2つ前の世代が作った時代を生きることしかできない。
ぼくは、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんが作ってきた社会でしか生きていくことができないのだ。
そして、ぼくらの子どもや孫は、ぼくらのゆとり世代が創ったレールの上(社会)でしか生きることができないのだ。
だから、
「ゆとりはダメだ」という意見を、40代以上のひとたちが言ってたりするのを聞くたびに、『それはあなたがたがそういう時代を創ったからなのだよ』と内心思うのだ。
ぼくの経験上の話だが、
人間的にも素晴らしい人格者で、社会的にも成功している人は「ゆとり世代だから〜〜」ということを言い訳にしない。
そういう人たちは、ゆとり世代がどうこうと嘆かず、うまくいかない責任を彼らに押し付ける前に、その若者の扱い方をよく知っているからだ。ひとりひとりの人間をよく観察し、そして理解し、彼らをうまく利用するのだ。
「人を使う」というのは、そういうことだろう。昔から『馬鹿と鋏は使いよう』という言葉がある。きっと、みんな人の扱い方には苦労していたのだろう。
だから、言い方を変えれば、
なんでも「これだから、ゆとりは」と言うような人間は大したことないのだ。
自分がその人をうまく動かすことができないという、自分の能力が足りないことを棚に上げて『ゆとり世代』という魔法のゴミ捨てワードに頼るしかないのだ。そうでなければ、いまの”おかしな”日本社会ではやっていけないのだろう。
まさしく、掃き溜めだ
ぼくはゆとり世代だから、よくわかる。
ゆとり世代にも優秀なひとはいるし、活発な人はいる。
また、僕は個人的に、『ゆとり世代』という言葉を聞いても
『“ゆとり世代”の人が過小評価されるいまの社会なら、ぼく自身がある程度しっかりしていれば、それだけで評価してもらえるじゃないか!!だって、{ゆとり世代は常識を知らず、使えない}っていうイメージが世論を支配しているんだから』と思う。
ぼくは、ゆとり世代であることを利用しようと思っている。
無論、仕事において、ゆとり世代はどこか働きぶりが違うのかもしれない。僕は知らないが
しかし、それを教育するのは、その会社の上の人が行うのだ。その上司の仕事であり、義務だろう。
「ゆとり世代は酒の付き合いも悪い」と、若者に構ってもらえなくて寂しい気持ちになるのはわかるが、ゆとり世代の考えや価値観を理解しようとすることも大切だろう。
おたがいが歩み寄らなければ、価値観の違いは埋まらないものだ。
われわれ今の若者は、長時間働いてお金を稼ぐよりも、給料は多くないが残業が少なく自分の時間を多く持てる仕事を好む傾向がある。
それは、少なからず中曽根元首相が目指した『心豊かな世代』に近づくことを意味しているのではないだろうか。
それを過去の栄光を捨てきれずに、現実に沿わずに自分を大きく見せるために体を壊してまで働くことに何か意味があるのだろうか。
ナルトではないが、「それを社会人になると呼ぶのであれば、それは破滅に向かうだけだ」。
まぁ皮肉にも、今の日本はそのおかげで、負の方向に一目散であるのは間違いないが。
仕事が楽しい人は仕事にその多くの時間をささげて嬉しいのかもしれないが、われわれの多くは仕事に人生をささげるために生きているわけではない。
だから、いわゆる、社畜になりたい気など毛頭ないのだ。
*ぼくは、子ども食堂とか地域の家庭ごみ資源の循環などの諸々の事業に興味があるから、仕事を楽しみたいと思ってるけど。
われわれゆとり世代は、
これから人口の減る日本社会をより良い社会に導かなくてはならない。
これから化けの皮が剥がれる日本経済のすべてを背負い、新たな経済モデルを創りださなくてはならない。
その際に、移民を受け入れて労働力を確保するか、経済規模を縮小していくかなどなど、めちゃくちゃたくさんの判断をしなくてはいけなくなる。
そのためには、それぞれが「幸せの在り方」を追求し、少しでも多くの指針をもって次世代を迎え入れなくてはならないのだ。
それが、われわれゆとり世代が、これから担っていく日本での役割だろう。
今読んでいる自衛隊に関する本(マンガ)は結構心に突き刺さる。
われわれは1つの会社で働く以前に、日本国民であるのだ。
経済のことばかりに目を向けるのは構わないが、各々自身の内側にベクトルを向けるべきだ。
経済とは、もともと「経世済民」という単語だった。
経世済民(けいせいさいみん)とは、「世をおさめ、民をすくう」「世をおさめ、民の苦しみを救うこと」という意味である。
この経世済民は、経国済民(けいこくさいみん)と同義である。この四字熟語のほうがわかりやすい。
「国を治め、人民を救う」という意味だ。
本来、経済とは民を救うためのものなのだ。しかし現在はどうだろうか。
経済が世を荒らし、民を貧しくしているではないか。
だからこそ。ぼくはコロンビア人から幸せな生き方の1つの解を学んでいるのである。
ここのひとは、経済や政治に左右されない幸せをもっている。それは人とのつながりである。
日本で「人とのつながりを大切にしましょう」なんて言っても響くはずがないし、「いい歳したひとが何言ってんの」と思われるだろう。
それが、日本が創り出した社会だ。
ある本では、【日本の文化は愛を知らない文化だ】と見出しで書いてあった。
われわれは過去から学び、良いところは学び、良くなかったところからも学ばなくてはならない。
コロンビアで学んでいることが少しでも活かせることができれば、これほどうれしいことはない
この記事も『ゆとり世代』というワードに対して、ぼくが日頃から思っていることを書きました。
そういう点では、ぼくが過剰に意識しているだけなのかもしれませんね。
ゆとり世代のぼく自身が1番ゆとり世代であることを気にしているのかもしれない ということです。
でも、いざ書いてみると、意外と出てくる、出てくる。
まあ、たまには自分の意見や考えをしっかり書いた記事も面白いかなと思い、書きました。
長い文章になってしまいましたが、最後まで読んでもらえて嬉しいです。
クセが強くて、不快に感じた人がいたら、許してください
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