学校では、「学ぶための方法」を学ぶ

学校では、「学ぶための方法」を学ぶ

この数日間、「光合成」についての本を読んでいる。
10年近く前に発行された本なのだが、興味があるものの、詳しく知らない内容なので、ぼくにとっては新しい。

それでも10年前の本なので、今の光合成に関する知見はもっと進んでいることだろう。

本屋で、今の自分の興味に気づく

最近、本屋さんに行くと、「SDGsコーナー」と「お金に関するコーナー」と「勉強をする理由コーナー」が設けられている。

本屋さんに行って、社会の興味の動向を感じる。
そして結局の所、いつもお決まりの社会情勢や科学系のコーナーに行き、目次を立ち読みをして、アマゾンの「気になるリスト」に追加する。
で、帰り際に園芸・農業コーナーに立ち寄って、流し観る。
家に本が溜まっているので、すぐさま買うことはない。


そこで思うことは、
「今の自分は、食の栄養素に関心があるんだなぁ」
「最近は、歴史に興味が向いているんだなぁ」
「ジムニーほしいなぁ」
「サバイバル生活をするなら、どういうことを知っておくべきなのかなぁ」
という、率直な自分の関心の移ろいだ。

学校で習うことは、学ぶための方法

関心があることにしか、興味が向かない。
そして、興味を持つためには、興味を持つ素養を持たなくてはいけない。
素養を持つためには、ある程度のことを理解していないといけない。
ある程度のことを理解するためには、まずは概説を学ばなくてはいけない。
その概説こそが、学校などでの学びだろう。

たとえば、冒頭の光合成についての話もそうだ。
みんな、「光合成」については知っているが、「光合成」とは何なのかまでは詳しくは知らない。
学校で習う「光合成」はもう明らかにされ尽くしたようなメカニズムのように思われがちだが、決してそうではない未だに進展が著しい分野だそうだ。
学校で習っていることや、あるいは本で出ていることも「もう、これですべてが明らかになりました!」という類いのものではない。わからないことばかりです。
一歩進むと、10個わからないことが出てくる。
だからおもしろいし、だから、ベーシックな素養を身につける楽しさがある。
基礎がわからなければ、発展性に気づくことができなくて理解できないからだ。


学校で習うことは多岐にわたるが、
学校で教えてもらえる知識(学問)というのは、あくまで非常に表面的な部分に過ぎない。
それに、科学の範疇ではあるが、理科の授業で扱えない分野はごまんとある。

お金についてもそうだし、政治についてもそうだが、
学校が文字通り「すべて」を教えてくれるということは無理だ。

自分が「学校や大学」に通っているうちは、そこに身を置いているからそこである程度多くのことを学ぶことができるわけだが、
結局、わたしたちがそこで学んでいることは、「学ぶための方法を教わっている」ということだろう。

素養を身につける

学んだことそのものは役に立たなくても、学ぶための方法を教わっている というわけだ。
その素養を身につけることが一番の大きな学びだったのだということを、最近サバイバル生活のための妄想をしているときに思った。


自然の仕組みについて学んでも、自然をどうこうできるわけではない。
けれど、自然というのは複雑な調和によって保たれているので、その生態系を把握することができれば、よく管理できる可能性はある。
自然は放っておけば、可逆性の範囲にある場合においては(人間からすれば)自然と再生する方向に進んでいくように映る。

しかし、そもそもの「自然のあり方」を学ばずに、人間が手を加えた人工的な自然を「自然」と認識して話を進めると、適切な管理を行えない可能性が出てくる。
その素養を身につけることは、とても大切なことの1つだと思う。


ま、言葉にするともっともらしくて、うっとうしいんだけどもね。
女王の教室のようなドラマ、またやってほしいな~
最近は人を殺したり、不倫するドラマや映画ばかりであんまりおもしろくない。

苦手になってしまった科目は、1歩のハードルが高くなるので敬遠しがちになる

宇宙に興味はあるが、宇宙に関する本はほとんど読まない。
なぜ自分がその分野に一歩を踏み出さないのかと、よくよく自分の心の中を探ってみると、
ぼくが高校のとき、物理学に対して苦手意識を持っていたからだと分析することができる。

宇宙の本を手に取ったとき、眺めているのは幸せなのだが、小難しい物理の数式が何気なく現れたりする。
光の話は好きだったりするが、重力などの力学的な話はどうも苦手だ。
だから、宇宙についての勉強を敬遠する。

これはもったいないことだとも感じているが、
大人になって9年経つ今、これから物理学を学び直すことには労力が多そうでめんどくさい。
「めんどくさい」という程度の気持ちで諦めてしまうくらいなのだ。

でもこれが、ぼくが高校生の時に数学3Cや物理学に対して、”変な”苦手意識を持っていなかったとしたら、違ったのだろう。
地理や生物、地学、化学、が好きだったぼくは、いまもその類いのことを気軽に学んでいる。
これは、歴史や社会とは違う。
歴史や社会は、基礎となる知識がなくとも、断片的にでも自分の興味関心のある部分から学びを始めることができるからだ(とぼくは思っている)。

しかし、物理学は違う。
ある程度数式を理解するためには、数学を理解し、そして、物理の法則を理解していないと、知識を積み上げることが難しい。
そしてそれらの知識的前提の元で、「宇宙」という分野に飛び立つことができる。


だから、学校や大学での勉学というのは、基礎を固めているにすぎない。
過去の自分に言うなら、
「学校での勉強は好き嫌いじゃなくて、将来、明るい未来を連想するために大切な、基礎的知識を身につけるためのものだから、基本的な部分だけは理解しておいて損はないよ」と伝えたい。

○○の法則であったり、テストのための勉強にはあまり意味がないけど、
「テストで点を取るために勉強すれば、きちんと理解できて、良い点数を取ることができた」という1つの事実は、自分のなかで着実に良い成功体験としてすり込まれるだろう。

学校で学ぶ「人付き合い」は、実践の実験場

学校で、人付き合いについても学んだりするだろうが、たまたま1つの場所で学んでいるだけなので、あまりそこのコミュニティを気にしすぎる必要はないと、個人的に思う。
合う人とは合うし、合わない人とは合わない。
世界には70億人くらいひとがいるし、日本には1億人いるのだから、自分に合う人たちとつるんでいればいい。
合わない人たちに無理に合わせるひともなければ、合わない人たちをいじめる意味もない。
学校で人間関係を学ぶとすれば、自分こそがもっとも大切な存在であるということだろう。
自分が持っているコントローラーはただ一つ、自分を操るためだけのものだ。

よりよい人付き合いの方法を学ぶための最初の実験場が、学校というのは言いすぎかもしれない。
けれども、うまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。
成功のためには、失敗を繰り返すことが大切なのではなく、失敗をきちんと分析することが大切だ。
失敗に価値があるのは、『選択肢のなかの「その道」を選択すると失敗する』と言うことがわかったからだ。

5この選択肢があって、そのうち1つを自分が選択して、その選択肢は失敗だった。
それなら、残りの4この内に成功があるということになる。
しかし、次に選択するときも大抵また5個の選択肢が用意されている。
バラエティ番組のロシアンルーレットのように数が減っていくわけではない。
そのときに、同じ繰り返しをしないために「失敗の選択肢」を分析するのだ。
なぜなら、私たちは一度生まれた思考回路を巡って、もう一度同じ選択をしてしまいがちだからだ。
成功した人はずっと成功し続けるが、失敗した人は失敗をキチンと分析し「次はいつも選びがちなこっちの選択肢は選ばないぞ」と意識しないと同じ轍を歩むことになりやすい。



ああ、とは言っても、ぼくも反省ばかりの選択をすることもあるので、経験がまだまだ足りないということなのだろう。


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Chaito

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