何もないからこそ、有る:自然と“無”、そして良い写真。高尾山行ってきた
26歳になったからだろうか、心が安らぎを求め始めたからだろうか、それとも、心にゆとりができたからだろうか。
最近の出かけ先は、神社やお寺、公園や山になったきた。
何もないが良い
「何もない」が良い。
と
何もないが、それも良い
では、多少ニュアンスが違ってくるが、何も見返りを求める必要のない場所にいくと心が安らかになる。
たとえば、なにかのテーマパークに行くと、「楽しまなくてはいけない」と自分に課してしまう節がある。
美術館に行けば、「センスを感じ取らなくてはいけない」と背負いこんでしまう自分がいる。
それはそれで楽しいし、おもしろいのだが、普段そもそも歩くのが遅く、頑張って早く歩かなくては行けないと疲れるぼくは、背伸びをせずに気楽に行ける場所に自然と惹かれる。
その点、自然というのは「行く」のではなく、「包んで」くれるので、こちらが意気込まずに済む。
気づかぬうちに包まれているのである。
何もないがしかし、あるのである。
神秘性を表現すべく、カメラを構える
最近の記事で使っている写真はすべて自分で撮ったもの。
そう、カメラを新調したので、カメラ小僧に戻りつつある。
昔は恥ずかしながら、ミラーレスカメラを持っていたのに、すべて「オート」で撮っていた。
最近は、絞りやシャッタースピードを意識するようになった。
それでもカメラ初心者に違いない。
だから、いろいろ勉強がてら、写真に収めている。
どうやら、写真教室ではまずモノクロの写真から始めるようである。
カラー(色彩)という情報を削って、よりシンプルに構図や表現したい世界を表現する術を学ぶためのようだ。
最近、他の人の写真を見ると、色がカラフルすぎて気持ちが悪くなることがある。
自然な色彩で感じたいのだが、最近は簡単にトーンをいじることができてしまう。
だから、写真コンテストの審査員を辞退したいひともいると聞く。
構図さえしっかりしていれば、幾らでも偽装できる時代になってしまったのだ。
ぼくは、写真を加工するのが面倒なので、そのまま利用する。
眼前に広がる色彩豊かで平然と広大な紅葉した山々を表現することができなかた悔しいのだが、悔しさをバネにしていきたい。
熱い 笑
無音は安らぎを、無行動は消極性のイメージを与える
静かな場所では心が安らぐ。
日頃の喧騒を忘れさせてくれる。
無音は非常に良いイメージがある。
無音を嫌うひともいるだろうが、雑音に比べたら、数倍マシだ。
無 というのは、静寂とともに、何にも染まらずして何にでも染まる潔さがある。
そんなことを考えながら、ネームバリューのある高尾山を思いつきで登っていた。
コインロッカーがどこにあるかわからなかったので、リュックと手提げカバンを持ちながら、カメラを片手に歩き登った。
(コインロッカーは、リフト乗り場のあたりに見つけました。帰りに)
ラテン音楽を片耳で聴きながら、スタスタと登っていた。
高尾山の前に南アルプスを登っていたので、足がなんとなく怠かったのだけど、思いつきと「高尾山って入門編の山なんでしょ?」という数年前のワイドショーのコメンテーターの発言を信じて、登った。
たくさんのひとが下ってくるなか、前後には歩いて登るひとがいなかったので、少々意気揚々なフリをしながら「これ、後戻りできないな」と肝に命じた。
高尾山がなんの山なのか知らないが、下りてくる同世代以下の女性たちはみな「彼氏欲しいなぁ」という話しかしていなかったので、「高尾山は縁結びの山なのかな」と考えてしまい、無心の世界をいとも簡単に破られた。
頂上に着くこと。
これだけが目標だったので、てっぺんに行ってすぐに下りてきた。
16時になるとピタリとひとが減った。
とても静かで、誰にも邪魔されない久しぶりの時間だった。
そこでどうでもいいことが気になった。
家の外に出ない、いわゆる、インドア派のひとが無趣味でつまらないひと という風潮についてだった。
大して考えもせず、ただ、無趣味な人がつまらないひと と思われるのってかわいそうだなと思った。
ホントにそこまでしか考えなかった。
無垢な人は、純粋無垢と清くポジティブなイメージを持たれるのに、
無趣味はつまらなそうというネガティブなイメージを持たれる。
同じ無なのに、違う無。
この場合、「何もない」がある という無敵の褒め言葉さえつかえない。
中身がない人なんていないのに、つまらないっていうステッカーを貼るなんて強情だなぁと思ったりしたが、いかんせん実体験で「つまらない人」には出会ったことがないので心はすぐに無に戻った。
無いからこそ、のびしろがある
ぼくはうまい写真を撮る技術がない。
まだ無い。
だから、向上できる。
ぼくは頭でっかち。
だから、これからたくさんのことを経験することができる。
無いからこそ、有るものがある。
そんなカッコつけたことを考えていると、高尾山の周りは「世界平和」とか、かなり宗教チックな言葉が多く掲げられていた。
年間数百万の人たちが高尾山に訪れるようなので、「世界平和」が叶うときは近いかもしれない。
ムム、ムムム、無
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