「海外に行ったら、人生観が変わった」は言い過ぎなのか?その人の人生なのだから、べつに変わってもいいでしょ
インドに行ったら、人生が変わった
『海外に行ったくらいで人生が変わるなんて、たいした人生じゃないんだな』
と、思う人は意外と多いのではないだろうか。
目次 Índice
人生が何で変わるかは、その人の勝手でしょう
ぼくはインドに行ったことはない。
行きたいな と思うことはあるが、なかなかその優先順位は高くない。
ぼくが行きたいのは、優先順位で言えば、アメリカと中南米、アフリカだ。
現実的に、次に行く可能性が高い国は、台湾だと思う。
さて、
インドに行ったひとが「人生が変わった」と言うことが多い気がする。
ガンジス川で、流される遺体と沐浴しているひとのコントラストを眼前にすると、大きなインパクトがあるのだろうか。
そこの香りや雰囲気も影響しているのだろう。
それに、それだけではないことも事実なのだろう。
でも、ぼくはよく知らない。
人生観が何で変わろうと、べつにいいのではないだろうか。
きっかけは人それぞれで、特に咎められる筋合いもない。
むしろ、「そんなんで人生が変わるなんて。。。。」などと口に出せる人、その人の人生を知りたい。
そのひとの人生は何をきっかけに、人生観が育まれたのだろうか?
非常に興味がある。
これは皮肉ではない。
単純に、素朴に興味がある。
人それぞれ興味が違えば、感性が違う。
目の前の道路でイヌやネコの死骸が横たわっているのを見て、”何か”を感じるひともいれば、驚くほど何も感じないひともいる。
道ばたの小花の写真を撮っているひともいれば、それを「奇妙なひとだな。ただの花ごときに」と思うひともいるだろう。
人生には答えがないし、同じ人生などないのだから、どこにきっかけがあるかわからない。
誰かのふとした言葉が心に刻まれたりもする。
一方で、著名なひとの講演を聴いても、心や記憶を素通りしてしまうことも多い。
「道ばたの小石」で人生が変わったって、ぼくは驚かない。
ただ、そのエピソードが気になるだけだ。
僕の人生が「たいしたことない」のは事実だけど、それを指摘したところで何か生まれるか
海外に行くこと、海外で生活をすることがすごいことだとは思わない。
福島から(たとえば)宮崎県に行くこと、宮崎県で生活をすることがすごいことだろうか。
そのひとは、べつに、「すごい!」と言われたいから、どこかに行くわけではない。
もしかしたら、自己顕示欲がとても強い人は「すごい!」を求めて旅行をしたり、行動をしたりすることもあるのかもしれないが、一般的にはそうではないと思う。
こちらが、
「インドどうだった?」と訊くから、「日本と違ったよ」となる。
ぼくは、コロンビアに行って人生観が変わった。
こうに言うことができる。
事実そうだし、それが事実だったところで、べつに他人にどうこう言われるいわれはない。
そう、ぼくの人生はたいしたことがない のである。
26歳の青二才の人生がたいしたことある はずがないのかもしれない。
では、28歳だったら、たいしたことあるのだろうか?
30歳ならどうだろう??
10の倍数というだけで、たいした人生になるのであれば、4年後が楽しみだ!
40歳、50歳、60歳。。。。。
何歳になれば、「私の人生はたいしたものだった」と、他の人の人生に口を出しても問題のないレベルになるのだろうか?
ぼくは、明日「たいした人生」になることを願ってる。
人生は、歳月の積み重ね。
1年間が幾重にも積み重なって、できあがる。
1年間は365日の積み重ね。
「明日」という日が人生を変えるきっかけになっても、全く不思議ではない。
それが1週間であれば、そのきっかけと出会う確率は高まる。
毎日、新しい何か(人や情報などなど)と出会えば、それだけきっかけと出会う機会は増えるのかもしれない。
明日は明日の風が吹く。
吹かぬなら、吹かせてみればよい。
吹かぬなら、風通しが良くなるように環境を調整すれば良い。
我々には足がある。
海外で、現地のひとと時間をともにすることと、パックツアーでは違う
海外にパックツアーで行くと、周りも日本人観光客で固められるので、「海外」を感じることは難しいかもしれない。
それが悪いことではない。
変に気を張らなくて済むし、ガイドさんがいれば、その人にすべてを任せても問題ない。
海外旅行でも、国内旅行でも、仕事でもそうだが、「生きて帰ること」。
これに勝るものはない。
死に場所を探しに行くわけではなく、人生を楽しむ一環として出かけるわけだから、不慮の事故やアクシデントに巻き込まれては元も子もない。
それでも、「海外」を感じたいのであれば、パック旅行ではなくて、自分で宿を取ったり、地図を見て歩き回ったり、迷って疲れてホッとしたりするほうがいい。
1週間フランスに行っても、そのほとんどが日本人だけの貸し切りバスでの移動で、窓から日本と違う景色を眺めても、あまり心に響かない。
だって、そういうものは、るるぶでも見てるし、事前のネット検索でも見たことがあるからだ。
最近なんて、実物を見るよりもネットで出てくる写真の方が綺麗で、実物を見ても心がときめかないことが増えてきた。
哀しいことよ
旅行と留学は違うし、短期留学と長期留学でも大きく違う
昔、青年海外協力隊で記事を書いた。
→協力隊員の現地における視点の変遷:山あり谷あり 【2年間のカレンダー】 【期間特集第2弾】
→協力隊の2年間は短い。というか、ちょっと足りないのだけれど!! 【期間特集第3弾】
協力隊は短くても長くても原則2年間途上国で生活しなくてはならない。
2年間過ごすつもりで居ると、3ヶ月間や半年間という期間も可愛く見えてくる。
留学でもそうだと思う。
半年と言う期間は、まだ楽しい側面だけを感じて帰ってこれる期間である。
3ヶ月間くらいだと、見えないものが見えないまま終わる。
半年間を超えると、ようやく見えなかったものが見えてくるようになる。
そうなると、それまで好きだったモノが、嫌いになったりもする。そこに気づいてしまうのだ。
海外は異世界である。
異世界に行くということは、異世界に行って何かを感じ取ってくる学びの姿勢がある。
それはやはり、旅行とは違う。
また、イタリアに旅行に行くこととインドに旅行に行くことの目的がなんとなく違うように、自分の人生を探しに行こうという姿勢を持っていれば、なにか収穫が得られるのは当然なのかもしれない。
きっかけをつかむアンテナを高感度で、大きく広げているからね。
それに、実際に行ったとしたら、画面や写真からは伝わってこない情報がたくさんある。
香り、雑音、雰囲気、温度、湿度、天気、雑さ、人の性格、接客態度、危険性、現地の人の言動、服装、、、、、
「何か自分の生き様を決めるヒントをもらいたい」と願っている人が、自分の人生を変える”何か”を手に入れてくるのは、素晴らしいこと
海外に行かずして、人生観が固まる人。
いいだろう。
海外に行って、異世界で何かを学んでから、人生観が固まる人。
それもいいだろう。
どちらが優れているとかはない。
少なくとも、ぼくはそうに思う。
苦労が多ければ多いほど、いい人生ではないと思う。
ぼくは、幸せの質・量ともに多い人生が、いい人生だと考えている。
それも、ぼくがそうに思っているだけで、人生を仕事に捧げていても、それはそのひとの人生なのだからそれでいいと思う。
おわりに:ひとはどこまで他人の人生に口を出すことができるのか
最近、「仕事のしすぎはよくない!!」というコラムなどが多くあるが、仕事が好きな人もいるわけだし、ほっといてあげればいいのにと思う。
過労死はよくないが、
その仕事が嫌ならやめて、違う方法を考えればいいわけだし、そのひとはその人の意志でそこで働くことを決めているのだから、別に良いのではないだろうか?
相手の人生に口を出すことで、比較的に、自分の生き様を正当化するのをよくみかける。
かくいう僕も、この記事では自分の考え方を表現しているわけだ。
しかし、この記事の本意は、「他人の人生にとやかく言うのは、なるべくやめようよ」ということ。
なんか、ひとのことを気にかけてあげることが、”コロンビアに行って自分の人生観が変わってから”、面倒くさくなった。
他人のことなんてわからないし、ましてや他人の人生のことなんて過去も今も将来もわかりっこない。
そこに口を出すこと自体、非常にエネルギーをつかう。
他人はひとりではなく、無数に居るからだ!
1エネルギー/人×無限=無限 なのである。
26歳のぼくに、そんな無限のエネルギーはない。
海外にいって人生がかわること。
まったく感じたことのない価値観を持った人たちと出会い、話し、そして学べば、人生観が変わっても何も不思議ではない。
今の時代、一晩寝ているだけ(8時間)で、遠く離れた異世界へと降り立つことができるのである。
それはときに、夜行バスの移動時間よりも短いこともあるかもしれない。
さすれば、福島から九州へと足を運ぶだけで、多くのことを学べることを意味するし、人生が変わる可能性もたくさん秘めていることを意味する。
ぼくは国内の異世界を味わっていきたい!!
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