「人生が片手に収まっている」という秀逸な表現
ラジオを聞いていた。
最近は人生が片手に収まってしまっている。でも、うちのラジオでは未だにハガキで意見をもらっている。手間をかけてくれている分、想いがそれだけ詰まっているんだよ。それがすぐにポンッと人に伝えることができてしまえる時代になった。これほど中身がないことはないよ。
とても的確な視点で、秀逸な表現だと感じた。
目次 Índice
親指で恋をする:『指先で送る君へのメッセージ』
ぼくらが中学・高校生のころ、カパカパの携帯電話、いわゆるガラパゴスケータイが一般人にも普及した。
持っていない人もいたが、多くの学生がケータイを持ち始めていた。
それを受けて、ある曲が流行った。
YUIのCHE.R.RYだ。
この曲は恋の歌だが、携帯電話を通して恋愛をしている歌である。
当時、ラインはなく、キャリアのメールアドレスでやりとりをしていた。
今振り返れば、面倒だったのかもしれないが、あの頃はそのコミュニケーションスピードが当たり前だった。
現在が速すぎるのかもしれない。
何かを送るのにも、きちんと考える時間が与えられ、件名に「RE:」が付け足されていった。
たかが10年前ほどのことなのに、現在とはとても大きな違いを感じる。
ぼくらの世代は、親指で恋をする最初の世代だったのだろう。
音楽は聴くものではなくて、観るものになった
スマートフォンが出てきたことによって、動画が身近なモノになった。
今では、ユーチューブを知らないひとは少ないだろう。
暇な時間があればYouTubeを見る。
やることがなければYouTubeを見て、時間を潰す。
録画されたテレビ番組やレンタルビデオと似たようなもので、さらに、それらに比べ、携帯性と利便性に秀でている。
だから、文字通り「永遠」と見ていることも可能だろう。
YouTubeの台頭によって、音楽の概念が変わった。
聴くものから、観るものになった。
純粋に歌詞や声質で楽しませる というコンセプトが弱まった。
動画を観て、動画のイメージを元に、音楽を楽しむように変化してきている。
だから、随分”見せる”曲が増えた。
そのイメージを”思い入れ”と捉えることもできるのかもしれないが、動画でストーリーを見せることで、聴者が受け取る曲の歌詞に含まれるニュアンスをかなり統一させている。
考えさせないようにしているわけだ。
だから、ラジオなどで音源だけを聴いていると、全然入ってこない曲が多い。
ぼくがこのような考えをもって過ごしているからだろうか、昭和の時代の”魅せる”曲がとてもスムーズに頭のなかに入ってくる。
その時代は、YouTubeではなく、CDなどやラジオの時代だったからだろうか。
声と音だけで、とてもよく響いてくる。
情報があふれているから、「ある日突然」を待てない
毎日同じことの繰り返し。
本当にそんなことはありえるのだろうか。
今の時代、何かわからないことがあれば、すぐにその答えを調べることができる。
簡単にたくさんの情報に触れることができる。
それは素晴らしいことである。
たとえば、協力隊のこともそうだ。
スマホやパソコンが普及している現代において、先輩隊員の経験や意見を知ることは容易である。
そこで連絡先を交換することもできるし、多くの隊員がブログやフェイスブックで情報発信しているからだ。
どのような家具や雑貨が人気で、なぜおすすめなのかを説明してくれているサイトもある。
Amazonや楽天のレビューが信頼できないとき、このようなサイトを見るとたくさんの写真とともにわかりやすく説明してくれている。感謝。
ぼくは本屋さんで本を見る・探す・発見することが好き。
友だちに話すとすぐに共感してくれる人が少ないので異質なのかもしれないが、ぼくは面白そうなタイトルの本を見つけると、目次と筆者情報に目を通した後、Amazonで検索する。そして、Amazonのなかでのその本の口コミ評価やコメントを見て、それから買うかどうかを判断する。
口コミ数が多く、評価も高いのであれば購入を抵抗なく決意するが、評価が低い場合は参考程度にしておく。
実に都合の良い判断だろう。
決めるのは自分だから。
作ったことがない料理も、ネットで調べれば簡単に再現できる。
きちんと再現性があるのだから、すごい。
ときどき「クックパッドにつくったものなんか、ダメだ。。。」という古風な男性も存在するが、クックパッドが料理をしてくれるわけではないのだから、何の媒体を通じて料理を作っていても、それはそれでいいとぼくは思っている。
知恵袋もおもしろい。
ぼくは大学生のころ、知恵袋でベストアンサーをもらうことを楽しんでいた。
そのベストアンサー賞をもらったところで、ポイントをお金に還元できるわけではないのだが、「人の役に立てている」ことに喜びを感じていた。
知恵袋に質問や悩みを投稿するひとは、実際に本当に悩みを解決したい人である。
それらの悩みに意見をしたり、アドバイスをする。たくさんの考え方に触れることができるし、自分が置かれたことのない立場をその質問を通じて経験することができる。
でも、多くの場合、質問者側にすでに「答え」があって、その答えを説いてくれる回答者がベストアンサーをもらえる。
つまり、最初から、答えが決まっていて、ただ背中を押してもらいたいだけのひとである。
そういうひとに、まじめに異なる意見を伝えてみても、響くことはない。だから、ベストアンサーにはならない。
出来レースみたいな感じになる。
「ここにも、自分を肯定してもらいたいだけのひとがいるのか」と思っていたし、そういう人間味が知恵袋のなかにはあって、楽しかった。
最近はなにもやっていない。
さて、最近は高校野球のシーズンだ。
今年はたくさんの都道府県で100回目大会が記念されていて、そのような地区は東西や南北で2校出場できるため、出場校が史上最多だそうだ。
前橋育英高校が日本で一番長い暑い夏にしてもらいたい。
カレンダーも明日めくると8月に入るので、高校野球特集が増えてきた。
ある特集を見ていると、「最近はもう、『ある日突然』を待つことができない」と言っている監督さんがいた。
反復練習をする。
基本ばかりでおもしろくない。
それでも、基礎を固めることは大切である。
だから毎日毎日同じ守備練習をする。
そうすると、「ある日突然」コツがつかめたりする。
「ある日突然」見えなかったものが見えてくるようになる。
でも、その「ある日突然」を待つことができない。
いつか来るらしい「その日」を待つことができない。
そう、嘆いていた。
「答えは簡単に出るもの」というコンセプトを、ぼくらのようなスマホ世代は持っているのだろう。
簡単に答えが出ると思い込んでいるから、答えがないと不安になるし、不満に思う。
自分で決定する判断力が養われない。
やりたいこと、なりたいこと、目指すこと、将来の夢、幸せの価値観、
多くのことをほかの人の意見にゆだねるようになる。
自分の人生のことは自分で選択しなくてはいけないのに、それを他力本願で過ごすことに慣れている。
そうすると、芯がないひとになる。
自分のことを自分で決められないひと、
自分の価値観を周囲に合わせようとするひと、
幸せの感じ方はひとりひとり違うのに、世間一般の幸せの背中を追っているひと。
おわりに:友だちって本当に必要?
誰かに頼ることは決して悪いことではない。
しかしながら、「友だちがいないと生きていけない」ということはありえない。
われわれは、小学校の授業でも「友だちをつくる」ことの大切さばかり説かれてきた。
友だちは良いものだ。
友だちが多ければ、人生が豊かになる。
友だちが多ければ、たくさんの悲しみと幸せを共有できる。
われわれ人間は1人では生きていくことができない。
友だち100人できるかな。
果たして、友だちはそこまで大切なのだろうか。
友だちが多ければ多いほど、豊かなのだろうか。
大人になって気軽に相談できるひとが欲しくなるのは、吐き出したいためであって、相談のためではないのではないだろうか。
『友だち』
多いに越したことがないと思っているひとは、増やせばいい。
でも、人生を豊かにしてくれるひとは「友だち」ばかりではない。
「孤独」や「ぼっち」を蔑む人は、1人の時間を十分に確保できていない。
だから、内省する時間がなく、自分の分析ができていない。
内なる自分と対話することができないから、自分がなにをしたいのかがわからない。
すると、常にだれかと一緒にいないと不安になる。
だから、それを群れることで解決する。
群れることでしか自分の存在意義を見出すことができないから、1人で行動・生活できるひとを非難する。
ぼくは1人で居ることを悪いと思わないし、1人で自分に対して時間を割けることが贅沢であることを知っている。
もちろん、ひとと話したり、ひとの話を聴いたりすることも好きだが、ぼくは自分の時間を一定以上確保しないと心が疲れる。
だから、自分のために使える時間を大切にしたい。
もう一度、デジタルからアナログの、手間がかかって面倒な世界に戻ってみようと思う。
ひとの悩みのすべては、人間関係に起因するのだから。
*着地地点が難しくなってしまったので、おしまい
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