【本紹介】戦争のカラー写真:先祖の想いは、自分が死ぬころにはわかりたい

【本紹介】戦争のカラー写真:先祖の想いは、自分が死ぬころにはわかりたい

歴史について、昔を生きた人々の生活について知りたい気持ちがあるので、
「AIとカラー化した写真でよみがえる 戦前・戦争」を購入した。

この本を介して、戦争について自分の考えを整理していきたい。

白黒がカラーとして蘇り、「現実」となった

戦争について、知らない。
映画やアニメーションでは戦争をテーマとしたものを見たことがある。
けれどそれは所詮「作り物」にすぎない。
そうに思ってきた。

もしかしたら、とても現実に似たものであったとしても、ぼくはそれを「作り物」と判断してきた。
なぜなら、本物を知らないからだ。

ぼくの知る戦争というのは、白黒でモノクロだ。
第二次世界大戦を遠い過去、数百年前のことのように想う。
そのくらいぼくにとって、戦争というのは現実と乖離したものだ。
だからぼくは、戦時中に人々が何を思い、どう生き、どう時を過ごしたのかを知りたかった。



それが最近、最新の技術によって、モノクロをカラーに補正できるようになってきている。


不思議なことに、色が付くだけでとてもリアルになる。

本当は「現実」だったモノクロが、カラーになって鮮明に蘇る。
これほど、技術に感謝することはない。

カラーで見ても、何をどう感じたらいいのかわからない哀しさ

正直に書きたいが、
いま、ぼくはとても哀しい。

それは、カラーで鮮明に蘇り、これまで見たことのない当時の日常風景を見ることができたのにもかかわらず、
自分がその光景を見て、何をどう感じたらいいかわからないからだ。
カラー化によって「現実」にふれあえたのに、自分がそれをうまく咀嚼できない。


この本は、約350枚のカラー化写真を紹介している。
そのなかには、空襲を受けて焼け野原になった風景もあるし、日本の都市に爆弾を投下しているアメリカ戦闘機からの写真もある。
沖縄で白旗投降している少女の姿もあれば、「翌日、殉死した」と書いてある20歳前後の空軍青年の笑みもある。

1人の男の子がモミガラの詰まった袋を仮想の敵と見立て、槍で突き刺している。
その男の子を囲むように、たくさんの男性と学生が固唾をのんで見守っている。



果たして、なにをどう感じたらいいのだろうか。
自分が「戦争」についていかに何も考えてこなかったのかが、明白だ。

たとえば、20歳前後の青年が戦争で殉死した。
このことを自分に重ねれば、ぼくは28歳というこの年齢でこの世にはいない。
時代が時代なら、すべての日本人がいまのような生活を送ることなどできていない。



この本で印象的なことは、戦前・戦中・戦後が描かれていること。
戦争について学ぶ際、その多くの場合、戦前の背景を深掘りし、戦中・戦後は流しぎみに紹介される。
それに、戦場のことはよくわかるが、日常生活についてはあまり知ることがない。
しかも、小中高の授業では、近代史は時系列的に1番最後に扱われるので、さらっと流される。

だから、ぼくはなかなか過去と現代が繫がって理解できていない。
これは自分の学習が足りないからにほかならない。

きっと、自分自身の中で20世紀の出来事を把握していれば、いろいろと感じれるものがあったんだろうと思う。

前に進むちから、復興のちから

この本を見て感じたことは、
辛いと思うなかにも、笑顔で明るく過ごせるひとがいる という力強さ。

たとえば、焼け野原になった街をビルから見て、笑っていられるだろうか?
焼け野原で平地になった見通しのよい街中で、ドラム缶風呂に入れるだろうか?
1946年にタバコを買うために並べるのだろうか?


ぼくは彼らから、力強さを感じた。
精神が強い。

本当はこんな軽い言葉ではないはずなのに、それを言葉で表すことができない。

写真に写っている彼らが戦後の復興を担い、彼らが高度経済成長の日本社会を築いてくれた。
それだけで、胸がいっぱいになる。


8を9にすることと、0から1を生み出すのは違う。
彼らはまさに0から1を生み出したのだと思う。

彼らが過ごせた温度感で、どうして自分は過ごせないのか

そのような彼らの試行錯誤、切磋琢磨の日々は希望に満ちていたのだろうか?
「日本を良くするために!」という意気込みで、毎日何を思い、そこまでがんばれたのだろうか?
戦争で多くの人やもの、景色を失ったのに、どうして彼らは前に歩めたのだろうか?


ぼくには、その部分が欠けている。
現に彼らがなにかしらのモチベーションによってなし得た社会の変容、そのモチベーションが理解できていない。
これまで自分の先祖が強く願ってきたであろうことを、まだ見いだせていない。
彼らは、ただ自分たちのために力強く歩んだのか?
それとも、「将来のため」とか「日本のため」というモチベーションが大きかったのだろうか?


ぼくは彼らのような熱いモチベーションを持っていない。
だから、自分なりに社会に対して頑張っていることは不十分だ、と感じる。

将来の現役引退時の自分よ、この記事を笑い泣きしながら読んでいるか?

「学問のすゝめ」を読んで以来、ただ漠然と生きているだけでは自分の人生がもったいない ということを強く再認識した。
何かにつけて意味や意義を唱えようとするのは、なんだか面倒くさい。
けれど、30歳までには自分のなかで生きる意義を見出したい。

たぶん、僕の場合は「自分よりも若い世代のために、環境と農と食についての一貫した現状最適なビジョンを築くこと」なのだと思う。
最適や最善というのは、その都度の選択の結果に過ぎない。
だから、これから幾重にも最善の選択を繰り返しても、最終結果として最善なのかどうかはわからない。
なぜなら、途中で想像もしていなかった出来事が起きて、さらに良いものが現れるかもしれないからだ。
でも、そんな「もし」を待っていても仕方ないので、現状考えられる最善の選択を行っていかなくてはいけない。

自分が死んだあとのほうが、自分の人生は長いんだ。
死んだあとに、誰かが自分の歩みを生かしてくれれば、それでぼくは永らく生きられる。
この想いが先祖と同じであれば、この上ない喜びだ。


この記事を読んだ我が子や孫には、ぜひこの想いを理解してほしいと思う。
自分が年を取って、いよいよ現役を引退しなくてはいけなくなったとき、
そのときのぼくがこの記事を読んだときに、笑って泣きながら自分のこれまでの歩みを振り返ってほしいね!


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Chaito

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