「悩みの種」から芽が出る
早朝4時半前後に、ミャーミャーとアラームが鳴る。
その時間に起こしてくれるから、ぼくは早起きする習慣が身についた。
けれど、最近は梅雨だ。長梅雨だ。
雨が嫌いなわけではないのに、なぜか雨が降っていると外に極端に出なくなる。
だから、早朝外に出ない習慣も身についた。
まだ白んでもいない外を、部屋のベッドに腰掛けてベランダ越しに眺める。
しとしとと規則正しいリズムの雨音とどこかの家の屋根に打ち付ける大きな雨滴の音が聞こえる。
もうカレンダーは8月になったのに、涼しい雨の香り付きの風を全身に感じれて気持ちがいい。
この時間ではまだ、家々の部屋の明かりはほとんどついていない。
そして、ふと哀しくなる。
ぼくは景色や香りが記憶を呼び起こしてくれることが好きなのに、なんだか一向に呼び起こしてくれない。
雨の香りや土の香り、蒸した夏の香りや似たような景色は自然と頭のなかで紐付けられて、感傷に浸ることがしばしばあったのに、それがない。
なんなんだろう。
いつからこうなってしまったんだろう。
ぼくは何かを失ったのだろうか。
自分の意思に反して、何かがぼくの習慣を奪ったのだろうか。
このような状況のことを「多忙」と言うのだろう。
心を亡くすほど、忙しい日常なのかもしれない。
それほどに集中力が研ぎ澄まされることは嬉しいものでもある。なぜなら、そのような環境から逃げるのは簡単で、その環境を得るのは大変だからだ。
ビジネスの面では、「ご多忙のなか」とは言わないのがマナーらしい。
「ご多用のなか」の方がより丁寧な表現だそうだ。
違いはそのまま、「用事が多くて心が亡くなるくらいの状態」か、ただ、「用事が多い」かの違いだ。
いまのぼくはまさに多忙と言える。
ぼくは真面目にも、このような機会を嬉しく思う。
それは、心を亡くす機会は滅多に経験したことがないから。
ただ単に興味や魅力のない雑務をこなしているわけではなく、自分自身の人生のなかにおける意義や社会的な意義をきちんと理解しながら用をこなせている。
だから、精神的な余裕は減ったのかもしれないが、意義や意味を失ってはいない。
「余裕」というのは経験を増やせば、必然的に増えていくものだ。
最初は緊張することも、何回も何十回も似たようなシチュエーションを繰り返せば、緊張は和らいで余裕を持てるようになる。
そんなことを考えていた30分の間に、空が白んできた。
部屋の明かりだと思って、勝手に仲間認定して眺めていた明かりが、マンションの廊下の灯りだった。
見えないものが見えてくる。
一方で、感じることのできていたことを感じることはできなくなる。
それはさながら、魔女の宅急便のキキのようだ。
子どもから成熟した大人へと成長していく過程で、いろいろなバランスを一度崩し、そして再度構築する必要が出てくる。
短い期間で終わるそんなターニングポイントの時期に、自分がいるのだろう。
そうに考えると、悩みの種を撒くのも悪くないことだなと思った。
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