幸せは椅子取りゲームではない
大人歴が長くなるにつれ、見えないものが見えてくる楽しさがある。
子どもの頃思っていたほど、今の自分(大人)が大人ではないこと。
子どもは大人になりたがるが、大人は子どもに戻りたがる子どもだということ。
べつに、それを恥じているわけではない。
ただ単に、年を重ねてもわからないことばかりで楽しいということだ!
これまで「幸せ」について扱った記事
http://enjoy-slowlife-blog.com/?s=%E5%B9%B8%E3%81%9B
目次 Índice
他人が幸せなのを見て、幸せになれないのはなぜ?
30歳が近づき、僕くらいの年齢になると、結婚ラッシュがやって来る。
そして、波状攻撃にように、出産ラッシュが来て、いつのまにか友だちが立派な親になっていたりする。
これは嬉しいことだ。
自分が望む変化だけでなく、周囲の環境や立場によって成長できることがあるだろうから。
だから、話を聞いていると、自分の何歩か先を歩いているので、非常に参考になることが多い。
そうだからといって、僕の気持ちが乱されることは決してない。
自分の人生に責任を持つことができるのは、自分だけだからだ。
イイネ数を気にする
FacebookやInstagramでは、「イイネ」数が表示されない仕様になってきた。
どうやら、イイネ数によって他人を比較してしまうからだそうだ。
そりゃぁ、SNS上で”友だち”が少なければ、イイネ数は少なくなるだろうし、
息を吐くように気軽にイイネボタンを押してくれる”友だち”がいなければ、増えないだろう。
イイネ数を稼いだところでお金が入るわけでもないのに、それが気になる心理が理解できない。
イイネされると拡散されていくから、という理由はわかる。
それと似たような話かもしれないが、
友人知人の幸せな報告を焦りに似たネガティブな感情で受け取ってしまう人もいるようだ。
まわりが幸せになれば、自分も幸せにしてもらうことができるのに。。。
「人のことをバカにしている時がいちばん楽しい」:愚痴が増えた
かまいたちが大好きなので、この漫才を貼っておこう。
この半年ほどで、自分の変化に気づいた。
そのうちのひとつが、
不平不満についての表現が増えたこと。
これは物申す系ではなく、単純な愚痴系の話。
なんだか、僕もようやく社会の歯車として機能し始めたなぁと思って、クスクス笑けてくる。
生き急いでいるわけでもないのに、以前よりも心のゆとりが狭まった。
ゆとり自体は変わらずあるのだが、「愚痴ってしまえ!!」の心的アクセルの踏み込みに躊躇がなくなってきた。
これは僕がなりたい自分ではないので、調整が必要な部分だ。
明らかに、愚痴が増えた。
僕は1年以上、アプリで家計簿をつけていて、ボタン一つで「2019年の支出内訳」が円グラフで表示され、お金の投資先が明確になるのだが、
僕の発言歴を円グラフにしたら、10%くらいは愚痴になってきていると思う。
愚痴が増えていることに、それを発している自分が気づいている場合、「どんどん性格が悪くなっていっているなぁ」と他人事のように自分の内面的な変化を感じて取れる。
これはおもしろいことでもある。
幸せの椅子が人数分あったとしたら、他人を邪魔するのは邪念
世間には、「イケメンと高収入の男性ならどちらがいい?」という非常に興味深いことを訊くインタビューがある。
その一方で、男性に対して「どんな女性が?」と訊くケースは稀だ。
なぜなら、日本において恋愛は女性が優位に立つべきもので、男性が女性に奉仕するような構造になるように女性側が主導権を握っているからだ。
だからこそその反動で、傲慢奇天烈な女性ではなく、おしとやかな女性は男性に人気が出るのだろう。
女性が男性を選ぶのではなく、男性も女性を選んでいるということだ。
これは普通のことなのだが、文字にすると違和感を感じるのはそのくらい影でコントロールされているということなのだろう。
けれども、女性が主導権を握って男女の仲を調整することが悪いわけではない。
ましてや、付き合っている、結婚しているからといって、それが幸せになることへの必要条件であることもない。
同様に、他人が幸せであることから焦りを感じることや、他人の足を引っ張る必要もない。
ぼくはそういう状態をドラマでしか見たことがないから、実際に引き摺り下ろしているところを見てみたいと助平心で思ってる。
でも、幸せは椅子取りゲームではないのだから、幸せの椅子の数は人数分ある。
自分の幸せがどのようなものなのかを理解していない人が、他人が椅子に座ることを邪魔する。
その人にとっては、他人が座ろうとしている椅子が唯一の椅子のように見えてしまうのだろう。
隣の芝は青いのだ。
幸せの椅子が間違いなく人数分あるとしたら、他人を蹴落とす理由は嫌がらせのためだけになる。
「他人の幸せを奪うことで自分が幸せになれる」という邪念を取り払うことは難しいことなのかもしれない。
ぼくの中にも、9の天使と1の悪魔がいる。
ときどき、悪魔が勝つこともある。戦いではなくて、確率の問題だからだ。
人に悪さをすることはなくても、怠けてみたり、自分ルールで処理することもある。
そのたびに、模範的な人物にはなれないなぁと思うのである。
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