有機農業と聞くと「江戸時代に戻るんか!?」と揶揄してしまうひとたちの声に、寛大な心で耳を傾けよう

有機農業と聞くと「江戸時代に戻るんか!?」と揶揄してしまうひとたちの声に、寛大な心で耳を傾けよう

ぼくは、化学肥料や農薬を強く否定する態度は持っていない。
ただ、それらを使う必要がない農業を行うことができるのであれば、それが理想だろうと思っている。

だから、どちらかと言えば、自然循環にちかいものを目指している有機農業寄りの立ち位置だ。
でも、もっと本質的には有機か慣行かではなくて、
不耕起や雑草管理のほうが土壌の持続性には大切なので、そっちに強い関心を持っていることから端を発している。

有機農業と慣行農業の違いは、
有機物しか使わないか、それとも化学合成物質も使うかの投入物の違いによるものであって、
なにか農業生産方式の根幹が違うわけではないので、ぼくは兄弟のような認識をしている。

農薬をたくさん使っている人たちにとって、「無農薬栽培=不可能」

花は食べ物ではないので、口に入れることがない。
そのため、農薬をよく利用する。
それは、外見的な可憐さが重要な花は仕方のないことかもしれない。

たしかに、現行のやり方、つまり慣行栽培では農薬がないとうまくいかないのだろう。
それは、「農薬を使うこと」を念頭において、すべての管理が行われるからだ。
花が不健康に育って病気や害虫に弱くなっていたとしても、農薬さえ使えば、その「不健康さ」を無視して大量生産を行うことができる。

それはつまり、僕からしてみれば、『酷使した農業』に思えて仕方がない。
その一方で、たしかに市場や社会からの需要を満たすためには、そのような生産方法を許容するしかないことも十分理解できるのだ。


ぼくもまさにそうだが、
一度農薬や化学肥料などの化学合成物質の手軽さに慣れてしまうと、病みつきになってしまう。
夢中になってしまって、「ちょっと生育が悪いなぁ。肥料あげてみっか」と安易に飛びついて、そして利用してしまう。

これは、使う側の人間の問題だ。
農薬や化学肥料という物が悪いわけではなく、人間が適切でない使い方をするから、悪者とみなされてしまうだけなのである。


では、無農薬で野菜や花の栽培が可能か、不可能かを問われれば、可能なのである。

農薬の効果を認めたうえで、それでも農薬なしでも生産は可能だ

農薬が登場したことで、農業生産が進歩した。
そのため、農薬が悪いわけではない。
それを使う側の人間が、上手に農薬を使うこと(管理すること)ができていないから、問題が起きているだけだ。
ぼくは、一貫してそのように考える。

でも、「農薬なしでは生産ができるわけがない」と語気を強めて主張されると、それは違うと言わざるをえない。
特に、若いころは農薬や機械がなくて重労働を強いられ、農薬や化学肥料の発展と出現にともなってその重労働から解放された年配の方に多い。


農薬や化学肥料の使用が普及したことで、劇的に農業生産が楽になったのだろう。
27歳のぼくは、それを推測することしかできない。

だからぼくは、年配の方々がぼくのような若輩者に対して、
「農薬や化学肥料をつかって、農業をやるんだよ。そっちのほうが手間がかからなくて、楽だし、生産量も安定するんだよ。」
とアドバイスをくれているのだと思って、理解している。


しかしながら、それはつまり、有機農業でも
農薬を使わずに済むように、「病気や病害虫が発生しない、もしくは発生しにくい」ような作物の健全性を高めればいいわけだし、化学肥料を使うということを念頭に入れずに技術のある堆肥で生産を行えばよいという話である。

事実、有機農業や無肥料で虫がつきにくく、ある程度の生産量を安定して得ている人は多くいる。
そのひとたちのやり方が、日本のみならず、世界中で行えるかどうかという普遍的な技術体系であるかどうかはわからない。
けれども、実際に農薬なしで生産できている人はいるので、「農薬なしでは生産できるはずがない」はずがないのだ。

慣行に比べて、有機の収量が少ないのではなく、慣行が酷使して一時的に生産量を上げているだけ

この記事のように、机上の空論を述べていても仕方がないのは事実なのだが、
ぼくは、いまの慣行農業は資源を酷使した上で成り立っているものだと考えている。

だから、慣行農業と有機農業の生産性を比較して検討する際、
慣行農業を100%として、有機農業を80%とする表現は誤解を招く とすこし思ってる。
(有機農業は20%程度収量が減ることは、いくつものメタ解析論文で報告されています。)


なぜなら、慣行農業は、
土壌を耕すことで地球温暖化の原因になっている(有史以来の石油などの燃料燃焼よりも、二酸化炭素放出してます)。
地下水や表流水から河川や湖沼、ひいては海に窒素を流し、生態系バランスや物質循環を乱している。
など、多くの環境問題を起因しているから。

それに加え、農地の土壌有機物を減らしているから、潜在的な土壌の生産性やそれにともなう持続性を低下させている。

これらの絶大な損失を、化学肥料や堆肥などの大量の投入物で見かけ上はプラスであるかのように見せている。


つまり、慣行農業を基準の100%とするのではなく、
慣行農業は資源の収奪・酷使によって、多くのものに害を与えながら行われており、これを改善する必要があるのだから、
120%や150%というように理解するべきだと思う。



そうに理解すると、(有機農業にもいろいろなレベルのやり方が存在するので一言でくくりたくないのだが、)
有機農業の生産量が少ないわけではない。
化学肥料や農薬を際限なく使えてしまうやり方が、一時的に(つまり、非持続的に)過剰に生産することができているだけとみなすべきだろう。

ぼくたちはあと60年くらい生きるのだから、すこしは地球の持続性も考慮に入れてくれよな

文が長くなるとよくないので、そろそろ終わりにしたい。

農業者の年齢があがり、ぼくのような20代や30代の数が農業界に少ない。
それは、人口割合によるものでもあるのだが、だいたい50代のひとたちが「若者」と呼ばれる業界でもある。
特に、生産者は。


そうなると、(農業だけに限った話だけでなく、政治などもそうだと思うが、)
まったくもって自分たち(年配者)の世代のことしか考えずに業界の舵がとられたりする。

そのたびに、「ぼくらあと60年間生きるんですけど。。。そのままのやり方で行くと、ぼくらの将来破滅するんですが」と思う。
だから、グレタさんのように声をあげて、行動に移す必要があるのかもしれない。
「かもしれない」と言うほど、あいまいなことではないのだけど、皆がすぐに動けるわけでもないからね。



そういうわけで、ぼくはときどき思うのだ。


ぼくらはあと60年も生きる。
だから、少なくとも他人事のように将来のことを眺めているわけではないし、
自分たちが進むべき道は自分たちで舵を取れるように鍛錬し続ける必要がある。
年配者が言う「将来のためにがんばっている」は、そのまんまぼくら若者が生きる予定の「未来」なのだ。
それならば、なぜ年配者が「若者は将来のことを何も考えていない」と揶揄できるのか、わからない。

年配者にとっては、体験することのできない未来であっても、
その未来は、ぼくらにとって、ぼくらが生きるはずの未来なのだから、自分たちのこととしてよく考えているよ。
そして、いまよりも良くなった未来で、ぼくたちよりも若い世代や子どもたちが幸せに生活できるようにがんばるのだ。


年配者が語気を強めて主張してくれるアドバイスを聞くと、ぼくは毎回そうに思い、
「このひとはこのひとなりの苦労や経験をもとに真摯に話してくれているのだな」と感じて感謝するのである。


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Chaito

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