自分の機嫌くらい、自分で取りなよ【王様・お姫様気質のひと、最近多い】

自分の機嫌くらい、自分で取りなよ【王様・お姫様気質のひと、最近多い】

予期せぬことで、不意に心を乱され、不機嫌になる。

よくあることだ。

そのときは、突発的に機嫌が悪くなることもあるだろう。

でもさ、いつまでも機嫌が悪いままいても仕方ないのだから、自分の機嫌は自分で取ればいいと思う。

誰かが自分の機嫌を良くしてくれるだろうと、他人にばかり求めていてはいけない。

われわれは、王様やお姫様ではない。
昔の豪族がごとく、誰かが自分を楽しませてくれるのが当然だと思い込んでいる。

 

 

「私を笑わせてくれる人がタイプ♡」

なんだ、そこにもわがままなお姫様がいるのか。。。。

 

もし「自分が、”誰か”が自分の機嫌を良くしてくれることを待っている」としたら、あなたは誰かにとってその”誰か”になれるのか??


すべてのひとが、誰かの救いの手を待っているとしよう。
例外なく、すべてのひとだ。

そしたら、誰が他の人に手を差し伸べるのだろうか。

全員が自分のことしか考えていないで、受け身の姿勢しか持っていないのに、どこの誰が相手のことを考えるのだろう。

自分が他者になにも与えないのに、自分は他者から当然のごとく何かをもらえると考える。
これ、まさに自分本位。

 

「誰かが助けてくれる」と思うのなら、あなたはその誰かを助けたことがあるのだろうか?

誰も助けたことがないのに、その恩が自分に還ってくると思うのは多少自分勝手な発想ではないだろうか?

他者に傲慢に求めずに、他者に与え、そして、自己で解決する


人間は1人では生きていけない。

 

よく聞くフレーズだ。

しかし、だからといって、他者に全体重をかけて寄りかかっていていいわけではなかろう。

たとえば、
「話がつまらない」と言って他者をけなすのではなく、その「話」はその相手と創り出すものなのだから、話が面白くなるように手を差し伸べてあげればいいのではないだろうか?

自分に甘く、他者に厳しい。
これまさに、裸の王様だ。裸のお姫様かもしれない。

 

もう、裸の王と王妃があふれすぎて、誰も何も指摘しなくなった。
そして、その王家のおかげで、若者自体が枯衰だと認識される。

なんでなのだろうか。

 

スマホやゲームのやりすぎで、自分で考えずともソフトウェアを買えば、新しい面白いことが訪れることになれてしまったのだろうか?

自分で自立心を育むことなく、他力本願をモットーとした精神とともに成長してきたからなのだろうか。

「他人が手を差し伸べてくれなかったら」というケースを全く想定していない。

誰も助けてくれなかったら、自分自身で解決しようと努力するのは当たり前のこと。
そういう自己解決と自立の精神を持っていれば、他者に手を差し伸べることができるようになるだろう。

自分が自分の気持ちさえうまくコントロールできないのに、他者の気持ちを良くすることはとても難しいことだろう

孤独の時間は、孤高の時間


協力隊のように、見返りを求めずに、心の底から頼ることができるひとが周りにいない場合、自己解決能力は高まる。

これは幸か不幸か、事実だ。

それを自立と言えるかもしれない。
誰かが、自分の機嫌を取ってくれることなんてあり得ないのだ。

心を乱してくれることは頻繁にあるが、心を整えてくれることはほとんどない。

家族や最愛の人が近くで支えてくれるわけでもない。
そこに弱音を吐けるわけでもない。

弱音が吐けないということ自体に、ストレスを感じたりもする。

 

なにもない のだ。

 

孤独ではないけど、心は孤独の状態に置かれる。

だから、それに慣れるまでは、とてもよく乱れる。
小さな不幸でどん底に落ち、些細な幸福で有頂天になる。

でも、徐々にそんな激動の感情の起伏が落ち着いてくる。
前まで心が乱されていたことで乱されなくなる。

心の持ち方をどっしりと自分だけで自立させることができるようになるときがくる。

そうすると、孤独な時間を「1人の贅沢な時間」として受け入れることができるようになる。
誰かに何かを求めるのではなく、自分が求めているものを自分自身で満たせるようになってくる。
孤高力が増していく。

そうすると、自分の機嫌を自分で取れるようになる。

ひとりで、道ばたで口笛を吹いていたっていいではないか。
自分の気持ちを自分でうまくコントロールできるように、自分が何を求めていて、何をすることで解決されるのかを知ることはとても大切なことだ。

 

自分の気持ちを幸せにできることのことを、本来「趣味」と呼ぶのだろうが、なかなかそこまで達観できないのも事実だ。
ぼくの最近の趣味はカメラだけど、やはり気分による。

余談:スペイン語の再帰動詞のすごさ 「私が私を喜ばせる→私は嬉しい」という表現の背景にある考え

そういう意味で、スペイン語というのは良くできているなと感じる。
スペイン語では再帰動詞というのがある。

alegrarseという単語がある。
この動詞の母体は、alegrar(喜ばせる)だ。
この後ろに、seという再帰動詞の追加的な部分が付く。
こいつが、たとえば「私を喜ばせる」だと(私を)を意味するme、(君を)ならte、(彼・彼女を)ならseという風に変化していく。

音楽が私を喜ばせる と表現する場合、La música me alegraとなる。
実際にスペイン語でよく使われる表現は、「me alegra」である。これは、「あー良かった!!」「私をうれしくさせる→私はうれしい」という意味である。

A「おはよう!体調はどう??」
B「良くなったよ!!」
A「me alegra(その良い知らせが聞くことができて)私はうれしい」
B「ありがとう」
という。

何か良いことを言っていたら、とりあえず「それは私を喜ばせてくれる」と言っていればいい。

さて、再帰動詞の話に戻すが、alegrarmeをきちんと文にすると、「me alegro」私は私自身を喜ばせる→私は嬉しいとなる。
「喜ぶ」っていう自動詞を創りなさいよ!!!と思うのだが、スペイン語には「alegrar(喜ばせる)」という他者に影響を与える表現しかない動詞が多い。

そういう際は、「私は私を喜ばせる」という日本語に一度変換せざるをえないのだが、不自然な表現を使う(再帰動詞)ことで「喜ぶalegrarse」を表現する。

 

ここからは勝手なぼくの解釈だが、この再帰動詞というのはよくスペイン語圏のひとたちの行動力の強さを表していると思う。

私が私を喜ばせる yo me alegro という表現。
この文法的な表現をよくみると、「行動」と「気持ち」が分離して表現されていると思うのだ!!

つまり、yo alegro(私は喜ばせる)というアクション、それに、me (a mí)(私を)という対象。
「行動」と「気持ち」になっている。

私が私自身を喜ばせるためになにか行動をすると、それに付随するように私の心に喜びが届くのだ。
だから、私が「喜ばせる」アクションをすることで、私の心は「喜び」リアクションが起きる。

それが、つまりは「私は私を喜ばせる→私はうれしい」という文法に現れる。
自分が喜びを感じるためには、何かが自分の心に喜びを届けてくれないといけない。
それを自分自身で届けることこそが、「私が私を喜ばせる」ということなのだ!

スペイン語の再帰動詞というのは、そういう風に「自分の気持ち」と「自分の意志を持ってアクションすることができること(行動)」で分けて考えられている。
自分自身を幸せにするためには、自分がそのために何か行動する必要がある。
彼らは文化的に自分の気持ちとどのように向き合うのかを、言語学習の際に学んでいるのだろう。

 

おわりに:山のあとに谷がやって来る、と感じるのは我々だけなのかも


この記事を書くきっかけは、自分の周りで何か気にくわないことがあったわけではない。

ただ単純に、自分の気持ちをうまくコントロールしたいな~と考えた際に、思いついたことを並べた。

 

残念ながら、最近自分の気持ちが落ち着きすぎていておもしろくない。
日々の幸せに感謝していて、負の大きな感情が現れない。

そろそろ、谷が来るかな~~

 

そうそう。

コロンビアで、
「最近良いこと多かったから、もう少ししたら悪いことが起こると思っている」と同僚に話したら、

「いや、そんなわけないでしょ!順番にやってくることなんてないよ。それに、良いことが多い方がうれしいんだから、自分でわざわざネガティブなことを招き入れる隙をつくる必要なんてないよ!!」
と言われたことがあった。
今、思い出した。

彼らはめちゃくちゃポジティブだね!
それでも、『良いことが起きたら、悪いことも起こる』という考え方は、日本人特有の先入観なのかもしれないね。

そういう先入観が、悪いことを引き寄せるのだろうか。
「病は気から」と言うからね。


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Chaito

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