【知らぬが仏】仕事が無計画だと、道端に転がっている小さな成功を大きな成功だと勘違いして満足できる

予定は未定であって、まだ決定ではない。

計画を立ててみる。
計画を立てるということは、取り組むことをいかに実現していくかの道筋をつけること。

目的を明確にして、実現可能な具体的な目標を立てる。
どこにどのような中間ポイントを設けるか。

僕らにとって「計画を立てる」という行為の真意と言葉の意味は、多かれ少なかれ総意があり、みんなの共通認識がある。
だから、日本人同士や日本でのコミュニティにおいて、「計画を立てる」プロセスでの誤差が少ない。

でも、その「計画を立てる」という行為。
途上国では、われわれと彼らの間で共通認識はないので、めちゃくちゃフラストレーションが溜まる。

まともに道筋をつけることができないが故のテキトーな計画

途上国で働くと、この人たちよく無計画で仕事を進められるなぁと感心する。

明らかに行き当たりばったりで選択を迫られているし、かえって言えば、その段階で喫緊に迫られなければ選択できないと言っても過言ではない。
それは、彼らがそもそも見通しを立てていないからであり、さらに、誰かと協議しても歩み寄りの姿勢がないので常に平行状態のまま結論に至ることなく、課題に直面するまで放置しているせいでもある。

我々は仕事において、大きなビジョンを掲げ、そのなかから逆算して、計画を立て、順々に計画された課題をクリアしていくと必然的に目標が達成される。
そういうように、段取りを組む。
そういう風に、道筋をつけて仕事をする。

そうすることで、目の前の仕事に集中しながらも、進路を外れることなく、大意に沿って仕事を進めることができる。

 

後先考えず、仕事の意義を明確化するビジョンを描かずして、なにかを選択することなどできない。
日本社会では当たり前のことだ。

船を操縦するのに、どこにいくかも決めないまま、航海を始めてもどちらに舵をとればわからない。
でも、ハワイに行くという目標があれば、方位磁石片手にそちらの目標に向かって舵をとることができる。

こんなの当たり前のことだ。

先を見通す気がないから、毎日が波乱万丈なアドベンチャー

でも、途上国のひとたちは方位磁石を持たず、さらには、目標も持たずに航海に出かける。
それに、『船頭多くして山に登る』ということわざを体現するかのように、みんなで仲良く航海という不確実な世界に身を置き続けている。

彼らが仕事中に、何のために無計画な航海に出ているのかわからない。
だから、たとえば、日本からコロンビアに着かなくてはいけないのに、北海道に寄ってしまったり、ハワイに寄ってしまったり、カリフォルニアに寄ったり、メキシコに寄ったり、イースター島に寄ったりする。

コロンビアに着くことが目的なのだから、闇雲に冒険する必要などないのだが、全くもってどこの方角に目的地があるかを知らない(考えもしない)ので、航海中に目に付いた場所に立ち寄り、そこで一喜一憂して、満足する。

最短距離を走ればいいものを、最短距離の求め方を知らないが故に、永遠と寄り道を繰り返す。

最短距離を求められない(計画を立てられない)人たちにとって、寄り道を繰り返すことは当たり前のことなので、彼らは「無計画な進め方」に対して何の違和感も感じない。

われわれ日本人が「何かに取り組むときに、無意識のうちに計画を立てている」のと同じ感覚で、彼らは無意識のうちに計画を立てないで何かに取り組む。

 

今の時代、世界地図や航路(手本となる手法)があるのに、それを全く利用せずに、闇雲に冒険をしたがる。

おもしろいのは、彼らは冒険をしたいわけではない。
不確実性に溢れた冒険をしないと、目的地に着けないと思いこんでいるのだ。

道筋をつけることのできる、優秀な航海士がいないのだ!!

計画を立てた気になってるけど、明らかに無計画

「計画を立てたの?」
と訊くと、「立てたよ」と自信満々に言う。

こだまでしょうか?

 

その計画を見てみると、小学生の夏休みの宿題計画くらいのアバウトさで仰天する。
口が立つので、それっぽい装飾的説明(言い訳)は付いている。
それに、口頭で質問すれば、いくらでも“取ってつけたような”説明をしてくれる。

「いやいや、それを文字に落として、ビジョンを練って、計画にすればいいんだよ!!」と思うわけだ。

日本社会では「計画」とは到底呼ぶことができないシロモノが、現地では「計画」という単語を独占している。
この前提的な違いはとてつもなく大きな障壁だ!

たしかに、小学生の宿題計画も「計画」ではある。それは小学生ががんばって立ててみた健気なものであって、その「計画」はむしろうまくいかなかったであろう夏休み後の反省材料としての役割の方が大きいだろう。
貴重な証拠だ。

しかしながら、そのように反省材料として活かすことができるのは、両親や学校の先生のような監督者・教育者、そして、理解者がいなくてはいけない。

 

途上国には、
そういう風に物事を俯瞰で捉える視点を持っている人はびっくりするほど少ない。(ぼく、コロンビア生活の2年間で、すぐにパッと思い浮かぶ範囲では0人)

だから、「計画とは呼べないシロモノ」が、大手を振って現地語の『計画』という単語として使われる。

そういう世界において、
「計画立てたー?」と催促してみても、計画とは呼べないシロモノを提示されるだけなのだ。

そして、彼らはそれを「計画を立てた」と呼ぶので、『計画』とはなんぞや という根本的な認識の違いを説明せざるを得ない状況に置かれる。これが難しい。
それが難しすぎて、伝えることも、改善することももうめんどくさくてめんどくさくて、手をつけたくなくなる。

「計画」という単語の意味の深みが違うが、無形なので彼らの認識との違いを明確化できない苦しさ

イメージで話をしよう。

 

大量の本が収納された『計画』という名の収納ボックスがある。

この収納ボックスを取り出すためには、その中にある本を一旦全て持ち上げて、外に出して、収納ボックスだけの状態にしなくてはいけない。

彼らの世界における常識(中身の本)がたくさん詰まっているのだが、彼らの『計画』という名の大枠の前提・定義の規格も構造も違いすぎて、大大大作業になる。

それに、めんどくさすぎる。
たくさんの中身を持ち上げることも面倒だし、すでに彼らが長年意識せずに使ってきた『計画』という収納ボックスを、意識的に別の新しい容器に差し替えるのはめちゃくちゃ難しい。

そして、その大引っ越しに着手するほどのエネルギーと言語能力と語学力を持っていないので、残念ながら野放しになる。

協力隊員だけでなく、途上国やほかの海外諸国で現地の人たちと深く関わって仕事をしようとする際、いくら国際理解を深めたところで、彼らと私たちの間に「違い」があることは理解できても、その違いがどのくらい大きなもので、どうしてその違いが生まれてくるのかを正確に把握するのには限界がある。

 

計画を立てるということに関しては、明らかに日本人は優れているわけだが、現地の「計画を立てる」と日本の「計画を立てる」の違いを別の言語で伝えることは非常に難しい。日本語でだって難しいのだから、当然のことだろう。

なぜなら、日本人の我々にとって、日本流の「計画を立てる」は強く意識せずともできてしまうことだからだ。
日本語で日本人同士でそれっぽくは説明できても、それを同じ文化や考え方に根ざしていない外国の人に説明するのには、十分はっきりできていない部分があまりにも大きすぎる。

そういう意味で、この『計画を立てる』以外にも、「自分が何となくわかった気になっていただけで、本当はきちんと説明できるほど、明確に理解できていたわけではなかった」ことが多いことに気づいてしまい、自分の非力さを実感することは、青年海外協力隊の2年間ではとっても多かった。

計画がないので、その辺に転がっている小さな成功を大きな成功であると勘違いして立ち止まり、歩みが遅くなる。
最悪、それより先に歩もうとしなくなる。

ここまで、壮大な前置きをしてきた。
そういう風に、計画を立てないで仕事に取り組むとどうなるか。

なんでもない小さな成功に満足する。
その小さな成功というのは、しっかりと計画を立てれば、逆算的に必然的に通過していくことのできる、なんの変哲も無い通過点だ。

それを彼らはアドベンチャーな仕事の仕方をしているので、さも大きな成功を収めたかのように、いちいち褒め合う。
その都度、その辺に転がっている小さな成功に満足していくので、歩みがめちゃくちゃ遅くなる。

もちろん、仕事においてそういう成功を収めることは大切だと思うが、通過点を通過点だと思わず、それがゴールであるかのように毎回毎回立ち止まっていては、本当のゴールには達せないのだ!!

でも、彼らはその本当の最終ゴールを定めないで、アドベンチャーしているので、その進め方になんの疑問も感じない。

だから、仕事を一緒にしていると、「どうして、そんな最初のステージの小さな成功を賞賛してるの?」と皮肉的な疑問を抱く。
こっちは、どういう風に今後進んでいくか、見通しを立てながら取り組んでいるので、仕事の先を急ぎたいのだが、彼らは足元の些細な成功ばかりを眺め、先にある大きな成功に気づくことができていないので、進まない。

でも、口は立つので、話をしていると、
とても小さな成功を拡大解釈して、ほどほどに大きな成功だと誤認識していく。

ポジティブシンキングとは、まさにこういうことなのか と痛快に実感する。

無計画性とポジティブシンキングの最強タッグ結成

些細な幸せを拾い上げることができるがゆえに、幸せな生活を送ることのできる彼ら。
その幸せを感じる能力は、仕事の場でも遺憾無く発揮される。

彼らは思いのほか、自分たちの仕事を過大評価する。
無計画さゆえの通過点的な小さな成功を、おたがいが褒めあうので、大きな成功であると勘違いする。

そこにポジティブシンキングの性能が上乗せされると、どうなるか。

一部しか成功していないのに、それがあたかも全体がそのように成功したかのような語り口になってしまい、自己洗脳が始まる。
そうすると、事実としてはわずかな成功なのだけど、対外的には大きな成功として発信されるので、さらに褒め合いが行われるようになる。

でも、彼らは嘘を言ってる気はないのだ。
100の農家のうち、10の農家でうまく言ったことを、誰かに伝える際にその成功した部分だけを大きくポジティブに伝えるがゆえに、聞き手は「100の農家のうち、そのほとんどの農家が成功した」と受け取る。
そういう風に、事実にはそぐわない過大評価が加速度的に増えていく。

小さな成功を大きな成功と捉える「仕事の無計画性」
良い部分しか取り上げない「ポジティブシンキング」
おたがいがおたがいのことを褒めあう「幸せ優先の世界」

この組み合わせはめちゃくちゃ複雑で、正直言ってお手上げ。

ヒマワリ畑に作られた迷路を、瞬時にヒマワリに囲まれた一本の道に変えることくらい、無理がある。

おわりに:頭ではなんとなく何が起きているかを整理できるだけで、「全く理解できないこと」への心構えができる。
この記事は、そのために書きました。

正直、頑張って書いてみたけど、このテーマはとても難しい。
それは無形のものを言語化する難しさ。

ぼくは、コロンビアで彼らの仕事の進め方が好きではなかった。
それは、今日頑張って説明を試みた「仕事の取り組み方に関する前提」が全く違ったからだ。

でも、そういう考え方の違いや前提の違いを受け入られるかどうかということも大切なことだが、この記事としては、そういう違いが存在することを伝えたかった。

彼らにとっては当たり前のことが、われわれにとって「全く理解できない」「全く思考に達しない」ことであることは多い。

だから、理解できずとも、理解できないことが存在するという事実を知っていただければ、それだけで十分です。

日常生活において、小さな幸せを拾い上げることは大切だけど、
仕事では、道端の小石のような小さな成功にいちいち満足せずに、着々と大きな成功を目指して進んでいってほしいんだよなぁ。

なかなか、人生の幸福感と仕事の充実度を上手にリンクさせることは難しいものだ。

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Chaito

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