「オメラスから歩み去る人々」を読んで:幸せな社会の下で犠牲になるもの。我々にとって理想とはなにか?
オメラスから歩み去る人々は、ひとつの短編小説である。
以前、愛についての記事を多投稿していた際、
あなたの全人生を捧げることで世界平和が達成されるなら、あなたは喜んで人生を捧げますか?
という記事を書いたことがあった。
その際に、ひとりの友人が紹介してくれた短編小説だ。
難しいことを抜きにして言えば、この話、深いが難しい。
作者はゲド戦記のひと
アーシュラ・K・ル=グウィン という方が、オメラスから歩み去る人々の著者。
ぼくは正直、まったく知らない。
本や小説では、好みの作者をつくったことはほとんどない。
唯一、作者の名前で買っていたのは、森絵都と星新一の2人だけだ。
なので、彼女について特別紹介することはない。
ウィキペディアのサイトを貼っておくので、興味のある人はそこから確認してほしい。
理想郷から「歩み去る人」がタイトルであるおもしろさ
われわれの多くは、理想を求め、理想郷を探し、そして、理想郷を脳内に創り上げる。
それが、理想郷だろうが、ユートピアだろうが、桃源郷だろうが、シャングリラだろうが、そういう言葉遊びはどうでもいい。
普通、誰しもが理想を思い描くからこそ、そこから引き算的に現実に引き戻され、現実を嘆く。
「オメラスから歩み去る人々」のなかの“オメラス”は、そのような理想郷として紹介される。
小説は、描写的な情景説明をベースに進むので、頭を使って読み進めることになる。
それを「小難しい」と感じるかどうかは、読み手次第だろう。
いずれにせよ、読書感想文を書くと浅い理解であることがバレてしまうので、紹介にとどめておく。
ただ、この小説のタイトルが、『去る人々』となっているのはおもしろい。
読み終えれば、なぜ去る人々に焦点を当てているのかがよくわかる。
もし、われわれの幸福が、誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、われわれにできることはあるのか?
何かを選べば、何かを捨てることになる。
われわれ富めるものが何かを選べば、どこかの誰かはその余波を受け、何かを犠牲にしているだろう。
それは健康であったり、家族との時間であったり、金銭的な不利益であったり、環境悪化や景観の損失もあるかもしれない。
そして、多くの場合、そのすべてであろう。
さらに、その連鎖の構図は、親や子にそのまま引き継がれる。
その構図が“不健全”であることに気づき、嘆き、何かを実行する人もいれば、「そんなのは、本や映画の世界の話だ」と現実のことと捉えない人もいることだろう。
現代の世界は広く、そして、複雑であるが故に、非常に不透明である。
物理的に広くなることはあり得ないが、実際に広くなった。
その世界において、不均衡なさまざまなことが発生している、もしくは発生することは想像にたやすい。
しかし、われわれ富めるものは、その現実を知りながらも、その現実を無視して生きている。
そう、われわれ(ひとまず、この日本語の記事を読むことができるひとたち)は富める者であり、そして、社会の均衡を歪めさせている張本人である。
そういう社会を飛び出し、「去る人々」もいることだろう。
われわれの物質的な豊かさは、無機質な機械のおかげではなく、依然として、多くの人々の上に成り立っていることを忘れてはならないだろう。
「オメラスから歩み去る人」を読むきっかけとなった記事です。ぜひ読んでみてください。
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