有機農業を広めたいと思ったとき、生産者になることは選択肢にあるか?有機農業で新規就農するという選択肢
いくらオーガニックを望んでも、オーガニックが突然地面から出てくるわけではない。
有機体は生まれてくる。
しかし、有機栽培の生産物を「オーガニック」と形容するからには、栽培しなくてはいけない。
人の手にかからなくてはいけないわけだ。
したがって、そこには必ず生産者がいる。
多くのオーガニック原料を海外に依存しているいま、必ずしもわれわれは「日本の有機農業の現状」をイメージできないかもしれない。
消費者は「オーガニック」という総称を求めているだけで、「国産オーガニック」にこだわりがあるわけではない。
目次 Índice
新しい何かを学ぶことができるのは、従事する前
普通、日本の農家よりも、海外の農家の方が大雑把にビジネス的にどかっと粗放的管理を行う。
耕地面積やビジネスモデルからして、粗放にせざるを得ない。
その粗放具合が土壌のことを考える際にちょうどいいのかもしれない。
“頑張れば”全ての畑を集約的に管理できてしまう日本では、粗放的な管理を行う農家は「怠け者」として扱われてきた歴史がある。
少しでも雑草が生えていれば、となりの人から「なにか」言われるわけだ。
今でもそうだろう。
だから、畑を耕し、(根をよく張り巡らせて土壌中に有機物を供給する)雑草を抜き取って捨てて、畑を““綺麗に””しなければいけなくなる。
それは科学的に正しくない、持続的では決してない農作業として認められているのにもかかわらず、そういった事実を知らない周囲のひとの目が「持続的な農業」の前進を大きく阻むのだ。
非常に面白い状況だ。
想いと思い込みで、経験がものをいう世界はいまの時代ないと思う。
しかし、農家の場合、新しいことを学ぶ、新しいアイデアと運命的に出会う機会は多くない。これは、コロンビアやインドネシアでもそうだった。
自分たちが「いま」やっている・やらなくてはいけないことで精一杯になってしまい、将来を見据えた取り組みや地元のグループ以外から学ぶことができなくなってしまう。
社会人が大学生にアドバイスする際、
「いまのうちしか遊べないから、遊んでおきなよ」と言う。
これと同じなのだろう。
なにかを始める前には、ある程度見識を広げ、新しいこともきちんと受け入れる柔軟な思考が求められる。
そして、働き始めたら、忙しすぎて挑戦などできないから、働き始める前に脳内で挑戦していったほうがいいのかもしれない。
ぼくは、
「将来を楽しむ(遊ぶ)ために、いまのうちに勉強して、アイデアをたくさん考えておきなよ」と思っているので、そうアドバイスをする。
アドバイスをしたことは一度もないけどね。笑
あと、忙しいことは良いことだ という風潮もよくわからない。
効率が悪くて、無駄な作業をしているのにもかかわらず、忙しさをアピールする。
その「忙しさ」には、どのくらいの価値があるのだろうか?
「オーガニック」を自分でつくろうと思うこと
結局、日本のオーガニックの多くは、海外との貿易・輸入によって支えられている。
そこに対して、日本で有機農業を広めたいとしたら、我々にできることは生産者を増やし、定着率が高まり、彼らが儲かるように「支援」してあげるか
それとも、自分で生産するか。
このどちらかしかないだろう。
自分で作ろうと試みることが、最も重要なステップかもしれない。
オーガニック化粧品のどこからどこまでが、オーガニックなのかは、実際に自分で栽培して、どういう部位が、どういう質で利用できるかがわかり、その加工プロセスを知らなくては「安心できない」はずだろう。
どれだけ有機農産物を使った商品をつくろうと、その加工プロセスでさまざまな添加物が加えられていては、それは皆が想像する「オーガニック」とは違うのではないだろうか。
そう考えると、「オーガニック」という言葉はとても綺麗で、清いイメージを持たれている。
カタカナの並びさえ、爽やかに見えてくるから不思議だ。
有機の複雑な世界は、良い師匠の元で学ばなければ見えてこない
有機農家になりたいという脱サラリーマンが増えている。
そういう人たちの多くは、「農業くらいなら俺にもできる」と言わんばかりのラフさを想定しているようで、先人の知恵や科学的な根拠を学ぼうとせず、自分たちでゼロから創り上げることにやりがいを感じるようである。
しかし、一般的に、有機農業をだれからも学ばずに実践するのは難しいだろう。
「自然が師匠」というのは至極真っ当なご意見だが、師匠がなにをどうやっているかを理解することができなければ、いくら素晴らしい師匠のもとで学んでも、得られるものは少ない。
論理だった考えがなければ、農業を行うことができるはずがないのだ。
それを、理想と憧れと使命感という想いを掲げ、いくら頑張ってみてもうまくいかないのはある種の必然だろう。
大学の農学部で4年間、農業を学ぶ。
農業に関することだけを網羅的に学ぶ と言った方が適切かもしれない。
では、4年間という月日をかけて学んだら、そのひとたちは生業として有機農業を行うことができるだろうか?
そうに問われても、答えはノーのほうに傾きそうだ。
多くの生産者は、最初は温かい目で見守るだろうが、親身になればなるほど、「そんなに甘いもんじゃねぇ!!」と語気を強めることだろう。
では、
自然生態系や農業生態系、農業の仕組みを学んでこなかったひとたちが、想いだけでポポっと有機農業を始められるだろうか?
農家さんと話していると、
農業をやっているひとと、生活の営みの中に農を取り入れているひとがいる。
農自体は、それほど難しいことではないのかもしれない。
自給自足の生活や、それこそ家庭菜園も農のある暮らしだろう。
しかし、「生業としての農業は甘くはない」と、農家は口を揃えて言う。
ぼくが就農する際も、どこかで研修を受けるべきだろう
偉そうなことばかり言っているぼく。
農学部を出て、大学院で土壌をきちんと研究し、青年海外協力隊の野菜栽培隊員として2年間活動して、いまは日本で有機農業関連の研究をしている。
最近は、さまざまな日本有数の農家を回ることができ、多くのアイデアと彼らの哲学に触れている。
新規就農して、自分が時代の流れを作りたいと、ぼくも例に漏れず、ほかの有機生産者と同じく想いは一丁前だが、生業の農業をしたことはない。
それでも、ぼくも就農する際は、師匠を作るべきなのだろう。
農をすることと、業をすることは違う。
それに、成功している人の元で、自分のやり方の基盤や比較対象となるやり方を学ぶことは大切なことだ。
なにを持って「成功している」と捉えるかは人それぞれだろうが、良い研修先に行かないと、そのやり方に染まってしまう可能性が高いので注意が必要だ。
疑似科学的な農家や、生き様としての農業を行なっている農家のところに本気で学びに行っても、(もしあなたが何が良いことで何が悪いことかを科学的に理解できないような段階なのであれば)変な方向へ舵を切りかねない。
〇〇農法とか、〇〇栽培というもののなにを信じて、なにを実践するかは人それぞれ。
それでうまくいったのであれば、「理由」が問われることはないが、うまくいかなかったとしたら、それはきちんと「理由」を検討しなくてはならない。
そういうときに、どういう理由でひとつひとつの作業を行なっているのか?
なぜ、ソレを投入するのか?
などなど、疑惑の「理由」をあげるためには、それを理解できておいたほうがいいのだろう。
「付き合うのには理由はいらなくても、別れるときには理由が必要」なのだろう。
研修先のスタイルは、就農のスタイルに強く影響しますんで
農家さんと会話する。
「どこで研修をしたのですか?」という問いへの答えで、その農家さんがどういう農業をしていきたいのかはわかる。
研修先が投入型の有機栽培をしていれば、投入型の農業を始める。
無肥料などの自然栽培をしていれば、その人は自然栽培のような哲学を抱いているので、自然栽培を始める。
ひとつ200円のホウレンソウが売れる農家のところに研修に行けば、ひとつ200円で売れるホウレンソウがどのように生産され、売れていくのかを理解することができる。
ぼく個人として「有機農産物だから値がつく」というのは不思議なのだが、多くの有機農家は栽培生産と流通販売の両部分でそれぞれつまづくようである。
どちらもまだまだ伸びしろが大きいということだ。
おわりに:有機農業は未完の大器
有機農業ほどの未完の大器はない
あと、自然栽培や(時として)有機栽培でも、新規就農のときに地元から支援してもらえないことはあるようで、良い農地がもらえないことも有機農業者が定着しない理由の1つしてあるだろう。
地力がある農地と、日当たりが悪く痩せている農地とでは、やはり有機農業の始めやすさは大きく異なる。
そして、現在、新規就農者は良い土地をもらえることは少ない気がする。
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