オーガニックが当たり前だった100年前。化学肥料がその世界を壊したのか?

有機農業や有機農産物、肥料の過剰投入について触れると、「このひとは頭が固い奴だな」と思われる可能性がある。


ぼくは、有機農業が好きである。
好きであるがゆえに、良い有機農業と良くない有機農業が存在するという事実に気づいて欲しくなる。


「オーガニック」という形容詞を持ってして売られているモノが、どのように生産されているのかまで、想いを馳せてほしいと願う。


それに、肥料=環境破壊とは直接的にならないことも知って欲しい。
たしかに、無機の化学肥料を使えば、その性質から、半分くらい(40〜50%)の肥料養分は利用されずに環境中に放出されることは事実だ。
作物のために肥料を与えるわけだが、作物が必要な量を優に超える量の肥料を使うから、問題になるのだ。


もちろん、肥料を使わずに作物生産を行うことができるようになるのが理想ではあるが、現実問題、野菜や穀類などのサイクルの速い作物は肥料が必要だろう。


個人的に、そこに異論はない。
(多くの人にとってはこれは当たり前の話で、「こいつは何を言ってるのだ?」と思うだろうが、)肥料は必要だ。


いろいろ理解した上で、ぼくはオーガニックを買うことが多い。
「オーガニック」に対して特別な感情は持っていないが、今後進むべき方向を支持する意味でちょっと高くても買う。


有機農業に従事したり、「オーガニック」に惚れ込むと、
有機農業が正しく、慣行農業は間違っているという考えが固まりやすい。
そうすると心は閉ざされ、俯瞰的に物事の本質を見抜く観察力が薄れ、先入観が強くなり、いろいろなことを考えなくなってしまう。


それがもっとも怖いことであるように感じる。


「化学肥料は悪」なのかもしれないが、化学肥料の功績は大きい

有機農業に関するメタアナリシスの論文を読むと、有機農業は慣行農業に比べて、25%収量が減ることが報告されている。
※この論文の対象のほとんど全ては欧米であったので、日本の「有機農業」とは若干異なるが、大枠は捉えているだろう。
これには、気候による違いや作物による違い、途上国・先進国による違いなど様々な違いが紹介されている。
しかし、全体として考えると、有機農業は慣行農業に比べて収量が少ないことはたしかで、有機農業では75%程度の収量になる。


この25%の減収を、「そんなに減るのか?ダメだな」と捉える人もいれば、「まぁ、そんなものだろう」と感じる人もいることだろう。
そして、それと同時に、「これから地球人口が90億まで増える予測が出ているのに、すべての農地を有機農業にすることは良いことなのだろうか?」と疑問に思うことにも共感できる。


そう、(農薬や除草剤などもそうだが、)化学肥料の存在というのは、現代で生きるわれわれの“豊かな食生活”を支えるためには、欠かせないものになっている。
そして、増加していく人口を養うためにも、単位面積当たりの収量を増やすことが大切であることも理解できる。


これは、実際に食糧に関する国際協力や国際情勢の話に触れると悩ましい課題として立ちはだかる。
日本でも地産地消の推進が叫ばれているが、自分たちの家族、地区、市町村、県という狭い範囲でも自給できておらず、外部に依存している現状において、(今のぼくのように)机上の空論のごとく、概念的な部分をぺちゃくちゃ話していても仕方がないのだ。



化学肥料が悪だとは決して思わない。
何事も使うひとによる。
原子力と同じで、世界を豊かにするために生み出されたのに、イヤな使い方をされてしまうこともあるのだ。


その「物」自体は決して悪いことはない。
すべては、それを使う側に委ねられる。


しかし、現在の農業の根本的な部分に気づかず、エイ!ヤー!で肥料の投入で収量を増やそうと考えるのは危険だろう。
というか、それでは結局環境を乱した上で、土壌が良くならないので、同じ問題に戻ってくるだけの延命処置すぎない。


それでも、化学肥料というのはあんなに小さいのに、ぱらぱらと撒けば、とてもよく機能するからすごい!
ちょろちょろっと撒いただけだと不安になって、ちょっと多めに撒きたくなる気持ちはとてもよくわかってしまう。


われわれはその誘惑に勝たなくてはいけないのだ!!


肥料はビールの泡、土壌こそが本質。あなたは泡ばかりを飲みますか?

ぼくはビールを飲めるようになって6年が経つが、ビールの味や香りの違いはよくわからない。
付き合いで呑むのは好きだが、ひとりで晩酌をしたりすることはない。


だから、ビールについて詳しくもないし、ポップだとか、苦味だとか、のどごしだとかいうのがわからない。
それに泡の部分の意味もわからない。あの泡があることで何がどう違うのかわからない。
注ぐときは、ビールと泡の割合が7:3もしくは8:2になるように注ぐが、いまいち泡の大切さがわからない。


さて、肥料というのはビールの泡である。
それは重要ではない。きっとなにかしら重要な役割を果たしているのだろうが、ビールの味を評価する際に泡を評価しないように、肥料は追加的な、副次的な、補助的なものに過ぎない。


本質は、そこの下にある土壌である。
ビールもきっと、ビール本体の味を高める、もしくは維持するために泡があるのだと思うが、結局のところ勝負は泡の下にある液体の部分だろう。


だから、肥料の必要性を考える以前に、土壌がなぜ肥料を必要とするかを考えて欲しい。


それは、最初から肥料の投入を前提とした考え方ではなく、
土壌を知り、そこで、土壌が肥料を必要そうなら投入する というような補助的な役割だ。


「あれもこれもしなくてはいけない」という足し算の考え方ではなく、
「最低限なにをすればいいか」という理想に対して引き算の考え方が重要であるように思う。


われわれはなにか手を施してあげればあげるほど、気分が良くなり、良いことをした気になることができる。
だが、「小さな親切大きなお世話」ということもあるようだ。


根本的に疑問を感じるのは、
農業の基盤で、自然生態系の基盤である“土壌”を、そのすべてをひとが管理したほうが良くなる と考えていることだと思う。
土壌は工場ではない。

100を投資すれば、すぐさま、それに呼応するように100の成果物が得られるわけではない。

まだまだ見えていないプロセスばかりの神秘の世界に対して、単純化された管理で太刀打ちできるはずがない。
まぁ、戦いではないですが


われわれは、一万年という人類史において、「自然」を自然本人たちよりもうまく管理できた試しがあったのか。
なにが「自然」なのかは難しい話だけれど、それでもわれわれやわれわれの息がかかったモノよりかは、ずいぶん良く管理していることだろう。


ついこの間、100年前はすべてオーガニックでした。


オーガニック


「有機」と比べて、とても新しい概念であるように感じるが、化学肥料が発明される以前はすべてがオーガニックだったわけだし、時代が激動の時を越え、一周まわっただけだろう。


だから、個人的にあまり実感がない。
オーガニックコスメやオーガニックチョコレート、オーガニックティー
なんだか不思議な感覚になる。
たとえば、ティーという物自体はそもそも有機体だから、わざわざオーガニックと銘打つ必要はない。
だから、その「オーガニック」は栽培方法を指している。


ぼくは幸いにも胃腸が弱く、緊張しいなだけで、アトピーやアレルギーはない。
だから、化学物質に対して無頓着なだけかもしれないが、「アンオーガニック」の世界はそんなに悪い世界だったのだろうか?
多くの場面で、化学合成農薬や化学肥料が悪さをしたことは知っている。
経験はないが、知ってはいる。
でも、その善し悪しは時代の流れや情勢によって大きく異なるだろうから、断定することはできない。


自分たちで50年近く「アンオーガニック」の世界に向かって前進していたのに、最近オーガニックがすごく人気のようで、素朴に疑問に思う。
でも、「アンオーガニック」が不人気なわけではない。
「アンオーガニック」に満たされた世界だからこそ、オーガニックが輝いているのだ。
だから、ここにあげている話は批判的な意味を持っていない。


ぼく個人としては、オーガニックの世界がもっと広がった際に、そこには必ず有機農業や有機農産物のなかにさらにそれを評価する指標が現れると思っている。
当然の成り行きだろう。
だから、ぼくはそこに照準をしぼって、準備をしている。


実際ぼくも今、オーガニックの世界に絶賛爆進中だ。


応援と注目を集めさせるために、有機農産物を買う

ぼくはお金持ちではないので、慣行と有機の野菜があって、その値段が1.5倍や2倍であれば手が出ない。
手が出ないというか、手を伸ばそうという気にならない。
よくわからないところで、財布のひもが固いのだ。
ただ、20円、50円くらいの違いなら考える。


その20円や50円は、僕にとって大きくはないが、生産者としては大きな利益なのだ。
同じ金額が、万人に同じ価値があるわけではないことは、以前、何かの記事で触れたことがあった。


ぼくらが自動販売機で買うジュースという嗜好品の代わりに、少し値が高い有機農産物にその分のお金を回せばいいだけだ。
ひとりひとりがそうにすれば、1億人×120円で、120億円が有機農業の世界へと落ちることになる。


これは完全に「支援」だろう。
もちろん、真にオーガニックを求めて購入してもいいだろうが、ぼくは「支援」というモチベーションで買っている。


おわりに:有機農業という入り口をくぐった、その先にある世界を求めて

有機農業に興味があるのに、「オーガニック」に興味がないというのは不思議な話かもしれないが、ぼくは生産者側の視点から考えているからなのだろう。
ぼくが有機農業界に参入するとしたら、生産者側からスタートすることになる。
ぼくはそれしかイメージしたことがない。


日本の人口がこれから減少していくシナリオを紹介した本がいくつか販売されているが、20年30年後は今の日本とは違う形になることが“決まっている”。
そのシチュエーションを考えて、どういう社会になっているかを考える。
そこから逆算をしながら、ゆっくりと確実に前に進む必要がある。
でも、いつまでも「準備」であってはいけない。ぼくは気分的にのんびりしているので、数年後に向けて準備をしがちなのだが、社会人になってしまった現在、「準備」で終わらせずに、すぐにでも実装させなくてはいけないこともある。


生産者というのは、常に必要不可欠な存在である。
ぼくらの身体が光合成をできるようになるまでは、変わらない存在である。


本来、われわれの生命の源となる食料を生産してくれる農家が儲からないというのはおかしな話なのである。
ときどき、目覚めの悪い朝、「生産者が一度百姓一揆をして生産物を流通させなければ、みんなその重要性に気づくんだ!」と思うときがある。


生産者が儲からない構図があるらしいことはわかる。
それは、ときに外から見えるが、当事者にならなくては見えないことのほうが多い気がする。
だから、きちんと儲かる経営を行わなくてはいけない。


それを考えながら、頭のなかのさまざまな技術をようやく体系化する機会と出会った。


農業はおもしろい。
そのなかでも、有機農業というのは幅も奥行きも広いので、格段におもしろい。
そして、「オーガニック」を求めるさざ波がいま起きている。



自分の想いや技術、知識、経験などなどを、うまく有機的に繋げていきたい。


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Chaito

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