第18弾:「任地では快適に働くことができない」という前提を持って働き始めることで、相手のせいにするのをやめられる
任地に着いてしばらく経つと、
『あれ、なんだろう。働きにくいな、、、、』
そうに感じるのも当たり前。
だって、異国の異文化のなか働いているのだもの。
どこかやりにくい。
なぜか働きにくい。
この違和感は何なのだろうか。
それを分析して改善することができれば、それはそれで大きな活動になる。
「(任地では)みんな効率的に働けない。働く方法を知らない。だからこそ、あなた(協力隊員)を呼んだのだ。」
そうに考えると、
着いた直後から気持ちよく働けないのも、ある程度納得できるような気がしてくる。
任地では、”何か”がうまくいっていないから、青年海外協力隊のボランティアを必要としているのだ。
うまくいっていないことを大前提として理解しておく必要があるだろう。
目次 Índice
「快適に働けない」ことを前提に据えるべき
働こうとする。
この2年間で、自分の技術のすべてこの地に残していくと意気込む。
そういう強い決意の元、任地に降り立つ。
でも、結構の確率でみんなつまずく。
「まずつまずくこと」、これが協力隊の最初の障壁となるのは想像に容易い。
想像はしていても、実際にその状態にぶつかると心が揺れ動く。
それが相手の仕事に対する向き合い方だ。
『よくこれで働けるなぁ』と感心する域に達するのも、時間の問題なのかもしれない。
任地で働いているひとは自分とは全く違う文化や考え方を持っているひと。
そういうコミュニティに自分が飛び込んで働くわけだ。
だから、居心地が悪いのが当たり前。
頭ではわかってる。
でも、実際にその場面に出くわすと、自分が日本で想像していた「任地」とは大きく違っていることに驚く。
想像していた「活動」とも違う。
自分の“想像”がいかに「思い込み」であったかを知ることになる。
変な先入観を持ってしまうくらいなら、何も期待せず、何も想定せずに行った方がダメージは少ないだろう。
我々は「途上国」という文字だけしか知らない
我々は、途上国のことを知らない。
よく知らない。
「途上国」という言葉は知っているけれど、その言葉の中身を感じたことがない。
本では読んだことがある。「なぜ途上国は途上国であるのか」。
でも、そこで暮らしている人の顔を想像できた試しがない。
そこで暮らしている人がどういう生活を求めていて、どういう風に仕事を進めているのかを想像できた試しがない。
もし想像できているとしたら、国際協力の経験があるひとか、想像できていると思い込んでいるひとだろう。
初めての途上国での仕事が協力隊というひとは、任国に派遣される前にしっかり「自分の思い込みフィルター」を外す努力をしたほうがいい。
ぼくはコロンビアの前情報を全く入れずに行った。
そもそも日本にはコロンビアに関する情報が圧倒的に足りないから、コロンビアをイメージするための材料がない。
だからコロンビアに行って、まず感じたのは、『ぼくが日本で想像していたイメージは、すべて「ぼくの思い込み」を前提に想像していた』ということだった。
つまり、
協力隊員としてこれからの2年間をイメージするけど、そのイメージは「自分の日本人感覚的な前提によって成り立っている」ということ。
これは、多くの協力隊員が事前に理解しておくべきことだと思う。
候補生や青年海外協力隊を目指そうとしているひとも同様だ。
我々が想定していることは、すべて「日本人的な感覚」がベース。相手の目線ではない
多くの隊員が、「働きにくい」「働くことがない」「働ける場所がない」と任地で嘆く。
それは単純に相手側の配慮不足であることもある。
でも、隊員側が日本人的な思い込みで、そうに感じることも多いのではないだろうか。
ぼくは幸いにも、日本で働いた経験がなかった。
そのため、日本のスタンダード的な働き方がわからず、コロンビアの同僚の働き方に強い強い不快感を感じたことはなかった。
(その反動で、ぼくは日本社会で日本の働き方を学んでみたい気持ちが強くなった)
もちろん、葛藤はたくさんあったし、働きにくさもあった。
でも、それをどこから手をつければいいかわからなかった。
どこの部分に手をつければ、それを改善することができるのか、思考をかなり巡らせる必要があった。だから、途中で疲れて、投げやりにした部分も多かった。
配属先やコミュニティの働き方改革に取り組んでいる隊員は経験していると思うが、
口頭で説明しても、相手がそもそもその別世界を知らないので理解してもらえないこと、とても多い。
パズルゲームの遊び方を全く知らないひとに、ピースだけをたくさんプレゼントしても何も意味をなさない。
それを受け取る素養というか、かみ砕いて理解することのできる社会的な前提というか、ぼくらが当たり前だと思ってイメージしている世界を彼らは知らない。
(この逆ももちろんある)
われわれが、なぜ彼らがそうに働いているのかが理解できないように、彼らも我々の働き方を理解することはできないものだ。
だから、働き方改革をしようとすると、それだけで2年間が経ってしまう。
野菜栽培隊員として派遣されたのに、専門以外の「相手が改善する気がさらさらない効率的な共同仕事の進め方」を指導するのは、非常に面倒くさい。
これはそれはそれはもう、めんどくさい。
そもそも、組織改革をするための職種が、シニアボランティアの生産性向上という専門職であるくらいなのに、それを自身の活動の片手間で行うことは難しいだろう。
「専門職種のひとを呼ぶ前に、組織的な働き方を指導する隊員を派遣したほうが良いんじゃないのかな」と思うこと多々。
それもこれも、ぼくたちが日本人的な働き方を善しとしているからだろう。
ぼくらは自分が経験したことしか、経験値として追加されない。ポケモンの学習装置のようなアイテムは、本や体験談のなかにしかない。
だから、これはもう、
『行って、壁にぶつかって、実感して、悩んで、対処法を考えるしかない』
相手の働き方に口を出さないで、自分は自分なりの最善の働きっぷりを見せるのも善し。
相手と同じレベルで働くのも善し。
自分の考えを伝えて、少しでも働き方改革に時間を費やすも善し。
日々悶々と働き続けることも善し。
答えはないのだから、自分のやりたいようにすればいい。
自分が一度彼らのやり方を学び、そこから考えてみる
われわれのコミュニティにアメリカ人が来た。
着いて早々、「働き方改革」とか言って、これまでうまく回っているように見えたわれわれの働き方にいちゃもんをつけてきた。
われわれはどう感じるだろうか。
相手の立場に立ってみることは大切だ。
本当に相手の立場になりきることは困難だが、立ってみようとする気概は持つべきだろう。
われわれは、よそ者である。
現地では、かならず彼らのやり方を学ばなくてはいけない。
感性が違うのだから、優先事項も違う。
仕事の進め方も、ノルマの絶対度も、ほかの人の仕事への干渉の仕方も違う。
無駄話ばっかしている会議や、会議のような雑談会。
結論に至っていないのに、結論に至っていると思って終わってしまうミーティング。
なるべく、彼らの感性を理解する努力をする。
すべてを理解することはできなくとも、理解できることはある。
しかし、恋愛と同じで「相手のことを理解できている」と思い込んでいることも危険なので注意が必要だ。
任地にいた頃、記事を書いた。
⇒「文化(思考)が違えば、働き方も違う」と、言うは易く慣れるは難し
個人的には結構面白い記事だと思ったのだが、あまり読んでもらえなかった。笑
貼っておこう
外国の人が、そのコミュニティを荒らすレベルに到達する日は遠い
自分が任地での活動や生活を想像すると、良いことばかりになる。
ウキウキるんるんな感じになってしまう。
その想像は、自分の日本での経験をもとに創られているから、現実とは大きく異なる場合がほとんどだろう。
我々が意気込んでいるほど、任地では我々は必要とされていない。
これは事実。
冷静に考えればわかること。
それまで日本人が居なくてもある程度回っていた世界で、我々がそんなに必要とされることがあるだろうか。
我々は「居なくても問題ない存在」だ。特に最初は。
少しきつい言い方だろうけれど、事実はときに残酷だ。
ぼくらが2年間頑張ろうと意気込んで乗り込んでいく割に、アッチで待っているひとたちは僕たちと同じほどの覚悟を持っていない。
われわれが彼らの日常世界にお邪魔するだけ。
だから、当然彼らが意気込んでいることはない。リラックスした状態で、リラックスできる熱量でしかない。
あなたの日常に、ときどき外国のひとがやってきたからといって、何か大きな変化や確変がおきるだろうか?
なにか強い影響を受けるだろうか?
かなり時間が必要だろう。言葉で学ぶよりも、言動で学ぶことだろう、我々日本人は。
だから、自分の存在を認めてもらうこと、承認してもらうこと。
それがまずはじめの活動になる。
活動は与えられるものではなく、自分で切り拓いて、創るものである。
日本人の我々は、細かいところまで気づけてしまう。
そういう特殊スキルと、やる気、元気でやってみる。
結局はこれしかない!
基本的に10やっても1くらいしかうまくいかない。
だから、失敗になれることも大切だ。
「挑戦に失敗はない」
無駄にプライドが高かったぼくは、このフレーズをケータイの裏に貼って自分の背中を自分で押していた。
任地で暮らし、働いていると、うまくいかないことばかりだ。
自分のエネルギーに余裕があるときはちょっと頑張ってみて、エネルギーが不足していたら精神もしっかり休める。
健康第一で、いきましょう!!
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