現地の鬱陶しい視線を気にしなくなったら、馴染んだ証拠

誰でも異国の地に行けば、最初は好奇の眼差しを浴びる。

でも、いつかその眼差しを感じなくなる。それは、自分がその眼差しに慣れ、意識しなくなったからである。

 

常に好奇の眼差しにさらされているのは、不快

南米やアフリカに降り立った、東アジア人は必ず好奇の目にさらされる。

それは、南アジアでも、東南アジアでも同じだろう。物珍しいのだ。

そういう意味では、ヨーロッパやアメリカでは「物珍しがられる」ことはあっても、好奇の視線でまじまじと見られることは少ないだろう。教育が行き届いているからではなく、東アジア人に慣れているからだ。

 

コロンビアではどうだろうか。
コロンビアで、ぼくがこの2年間街中で東アジア人とすれ違ったことは、(今思い出せる範囲では)ない。
それだけ希少性が高いのだ、われわれは。

だから、変なあんちゃん達には「チーノ」と遠くから呼ばれたりする。
区別がつかないのだ、

ぼくもつい3日前くらいまで、「中国と日本を一緒にするなんて。そんなのはテレビのニュースを見ればわかるようになるだろ!!」と思っていた。
でも、サッカースペイン代表でバルセロナでプレーしていたイニエスタ選手が、神戸のチームに移籍したニュースをコロンビアでも見たとき、「「。。。。 日本と中国って、一緒じゃん!!!」って納得した。コロンビアで流れるニュースは、コロンビアのテレビメディアが作製するから、テイストが同じになるのだ。しかも、そのイニエスタのニュースは、スタジアムのなかのお披露目会だったので、なおのこと「ヒト」で判断しなくてはいけないのだ。

正直、見分けがつかなかった。。。。
前々からわかっていた。集団でいればなんとなく違いが判るのだけれど、ひとりでいると東アジアの国籍はわからない。特に男は。

われわれでも見分けをつけにくいのだ。
コロンビア人や南米のひとが見分けられるわけがない。ときどき、ぼくの国籍を日本と断定してくるお店のおばさんがいるが、きっと超能力をつかっているのだろう。「なんでわかったの?ふつうみんな区別付かないよ」と聞くと、「だって、君の顔は日本人っぽいもん。そりゃあ、わかるわよ」と誇らしげに答えてくれる。きっと、超能力を使ったんだと思う。

そういうわけで、ぼくがコロンビアに来たときも、例に漏れず、好奇の眼差しを鬱陶しく感じた。

どこに行っても、その眼差しを受け取ってしまうのだ。
言い換えれば、顔をすぐに覚えてもらえるということでもあるけどね。

パンダが街中を歩いていたら、「おい、パンダが歩いてるぜ!俺、パンダ語しゃべれるから、見てな。aodahf ibfak.s dfgua aiegfa asdljcbaiug(パンダ語を話してます)。 な!!反応しただろwww」となるのだ。

だから、この眼差しを受け取ってしまう期間は、不快に感じることが多い。

 

 

受け取ってしまうのは、こちらが受け取ろうとしているから

でも、それが最近なくなった。
とくにこの半年くらい、好奇の眼差しを受け取らなくなった

 

これ、別に「好奇の眼差しがなくなった」わけでは決してない。
そんなわけはないのだ。だって、ブカラマンガに住むすべてのひとが、僕のことを認知しているわけがないのだから。

街を歩いていれば、毎日必ず全く知らない人とすれ違う。そうなれば、その人は僕に対して好奇の眼差しを向けているのだ。「お!東アジア人かな?おお、東アジア人だ。みすぼらしい靴履いて、口笛吹いているわ」と思うのが、当然なのだ。

ということは、ぼくを取り巻く環境というのは、ぼくがコロンビアに来てから大きくは変わっていないのだ。

ではなぜ、ぼくは好奇の眼差しを受信しなくなっただろうか??

 

それは、ぼくがコロンビアに慣れ、僕自身が好奇の眼差しを送信しなくなったから、彼らの眼差しを受信しなくなったのだ。

 

なぜ、現地のひとの眼差しが気になるのか???それはこちらがその眼差しを、アイコンタクトによって受け取るからだ。鏡のようなものだ。

こっちが鏡を見ない限り、鏡に映る自分は見えないのだ。
でも鏡を見れば、自分と全く同じ表情の”鏡のなかの自分”が、ぼくのことを見てくるのだ。

ずっと、頻繁に”鏡のなかの自分”を見ていれば、徐々にその顔にも慣れてくる。
そうすれば、特に”鏡のなかの彼”の眼差しに対して、何も感じなくなるのだ。

 

だから、ぼくは最近好奇の眼差しにさらされても不快なことはない。

それに慣れたからだ。そして、僕自身コロンビア人のことを好奇の対象で観察することが減ったからだ。

 

コロンビア女性の横顔については、別の記事で紹介するつもりだが、
コロンビアの女性は横顔が綺麗だ。だから、バスに座っている人を歩道から見ると、「コロンビアって綺麗な人多いな」と錯覚するのだ。

このバスに乗っているひとたち、女性のみならず、男性もバスのなかでは防犯上ケータイをあまり見ないから、窓から景色を眺めているひとが多いのだが、そこに僕が歩いていたり、信号機で止まって待っていると「お、東アジア人だ」と眼差しを確実に送ってくる。

『自意識過剰だろ』と思うかもしれないが、きっと南米の人は大人しい地域性の人以外は、顔を覗き込んでくるかのようなレベルで凝視してくる。少なくとも、コロンビアではそうに感じることが多かった。

ちびっこであれば、にらめっこしたり、いないいないばあっ!をして遊んであげるのだが、大人はなかなか難しい。

50歳以上のひとたちは、とても落ち着いているから特にこちらに反応しない。
15~35歳くらいだけだ。きっと、その層はK-popが好きな層が多いからだろう。

韓国が人気なことは以前紹介した
⇒⇒アジアカルチャービジネスにおいて、日本は確実に韓国に遅れている:アジアへの興味は韓国が入口

 

こちらが好奇の眼差しを向けなければ、相手の眼差しをキャッチすることはない

 

というわけで、
ぼくが好奇の眼差しを発射しなくなったから、相手も僕に対して好奇の眼差しを打ち返してくることがなくなった。

彼らが僕に好奇の眼差しを発射しても、ぼくがその攻撃に慣れ、かまってあげなくなったからというのもある。

 

そういうわけで、「好奇の眼差し」を不快に感じなくなると、結構『俺もコロンビアに馴染んだんだな』と感じる。

 

服装がコロンビア人と同じで、ジーパンにポロシャツ、髪型もコロンビア人と同じような髪型をしているから、目立たなくなったということもある。
つい2週間前くらいまで、髪の毛が長かった(日本で言えばちょうどいいくらい。前髪が眉毛にかかるくらい)のだが、やはりそういう髪型をしていると、東アジア人丸出しな感じになるためか、そうに自分でも「今すごく日本人らしい髪型しているな」と自覚しているから、好奇の眼差しを受信していた。

 

コロンビアでも見知らぬ街に旅行に行くと、こちらが「どんな街なのかな~。どんな人がいるのかな~。どんな格好で、どういう顔しているのかな~」と好奇の眼差しを以って観察しているから、ぼくもその反撃にあって、「この街のひとは、随分僕のことを見てくるな~」と感じる。

こっちが発射するから、相手が鏡のように返してくるのだ。

 

おもしろいことに、ぼくの場合、好奇の眼差しを発射せずに対応してくれるコロンビア人がいるのだが、そういうときは「なんでこの人は好奇の眼差しを、ぼくに向けてこないんだろう」とわがままにも思ってしまうのだ。笑

 

 

日本でも、みんな発射しているんだよ

日本の地元のコンビニで、外国のひとを見かけたら「お、外国の人がいる。なんでこんなところにいるんだろう?」とすこしは疑問を持つだろう。

それが、「好奇の眼差し」の正体である。われわれも、日本では知らず知らずのうちに発射しているのだ。

 

 

4月になると、大学の敷地内でどのひとが新入生かがわかる。
4月になると、駅や電車のなかで新社会人を特定できる。

われわれは言葉で説明するのは難しいが、すこしの違和感を感じて、「このひと、ちょっとほかと違う動きをしているな。慣れてないな。」とわかるのだ。

異国ではなおのことだ。慣れるまでは、挙動でバレバレだろう。犯罪のプロは、このスキルが高いことだろう。

コロンビアではスペイン語の方言で、コロンビア人同士でもどこの出身かを判断できる。らしい
*ぼくは、ベネズエラのスペイン語とコロンビアのスペイン語の違いも判断できない。ちなみに、最近イニエスタ選手の動画をスペイン語で見てるけど、メッシやスアレスのスペイン語はすごく聞き取りにくい。笑

 

新宿駅で、駅から脱出出来なくて、服に着られたひとが改札で「ピッ。ポン!!!」と改札の審査を通過できなければ、『このひとは田舎から来たんだろうな。これから、東京でもまれて頑張ってな!』と内心思うのだ。

かくいうぼくも、群馬から出た18歳のころ、よく新宿駅の迷路で迷子になった。笑
改札のおにいちゃんも、そういういなかっぺに慣れっ子だからだろう。対応がとても冷たかったのを覚えている。後ろにいたおじさんに怒られなかっただけ、ましだったかもしれない。笑

 

 

 

世界中どこでもみんな同じだ。人間は好奇心の強い生き物なのだろう。

 

 

Chao


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Chaito

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