なぜ、協力隊経験は日本の企業に評価されないのか? 

なぜ、協力隊経験は日本の企業に評価されないのか? 

 

最近、「協力隊終えてから、何をどうしようか」と考えてます

帰るのに帰る気がしない居心地の良さ

 

残りの期間は1か月。帰国間近です。

でも、全然帰国する気がしないです 笑

帰国することに実感がわかないし、「帰国しないで、このままの生活を続けていくのもいいな」と考えてます。

まぁ、JICAの手厚い保護のもと、生活に支障をきたさない生活が保障されているので、確実にぬるま湯のなかで生きていますがね。

だから、「コロンビアで自分で稼いで生きていくためにはどうしたらよいか」と考えるわけです。

言わずもがな、働くことです。

 

幸いにも、いくつか目星があるので、そういう縁を大切にしたいですね。

そう考えるとコロンビアってコネ社会だな

 

 

コロンビアには1年、長くて3年くらい追加的に暮らしてみたい。

それは仕事が楽しいとかもあるけど、コロンビア人がおもしろいから。

 

ぼくは修士(環境学)出てるけど、べつにその専門性に固執する必要もない。(これは最近180度考え方が変わってこうなった。)

もし日本で働くのであれば、少なくとも3年間くらい、30歳くらいまではその組織で働きたいと思ってる。日本の働き方を学びたいから。

日本での社会経験もほしいと思ってたけど、そのためだけに「ちょっとしかやりたいことにかすっていない」仕事で3年も働くのは嫌だなとも思う。ジレンマだ。日本で働くという実感が湧いていないから、このように考えてしまうのだろうけれど。

「働いたことがないから、そういう甘ちゃんなことを言っているんだ」という意見、自分でもよく理解しています。

 

 

協力隊員っていう称号、かなり独り歩きしてない??良い意味でも悪い意味でも

 

『青年海外協力隊員は扱いづらいから、積極的には採用しない」という意見が世間には少なからずある。

積極的に採用しないというのは、言い方を変えれば、『協力隊に行っていないひとと同じ扱いをしますよ』というだけだ。別に特別高い評価を下すわけではないということ。

 

最近自分自身でも、協力隊経験者の良し悪しが分かれる理由がなんとなくわかってきた。

協力隊として2年間もひとりで現地の人と活動していると、対応力や適応力は高まり、個性がかなり磨かれるのだ。

この個性がなかなかやっかいで、「独自性」と表現すると多少は理解しやすいだろうか。

いい歳した大人が異国で1人で2年間も過ごすのだから、個人と向き合う時間が長くなり、独自ルールや個人的な見解が確立されてくる。これは、ぼくたち協力隊員にとっては良いことだ。

あるとき、日ごろ心の奥底に抱えていたものが、異国の文化や現地の人を通して、スッと心のなかに収まる瞬間があるのだ。

 

答えが見つからなかった人生の問題に、急に思いもしなかった答えがスパッと現れるのだ。

 

そうなると、それはそのひとの一部になる。

そしてそれは、その答えを見つけた社会や文化圏ではうまくかっちりと当てはまるのだが、日本の社会に当てはまらないのだ。

でも、その答えは自分の一部になってしまっている。

だから、協力隊から帰国した人のなかには、日本社会に居心地の悪さを感じる人もいる。コレは逆カルチャーショックと呼ばれているが、内面的なショックは大きいと思う。

 

いい大人が得た独自性を変えることは簡単ではない。

年配の方々が総じてこの独自性がめちゃくちゃ強いことを考えれば、個人の独自性は環境(経験)と個性によって形成され、強化されることを理解できるだろう。

 

 

もちろん、日本社会にすぐに復帰できるひともいるだろう。

それが良いとか悪いとか、そういうことでは決してないのだ。

 

 

自分しか知りえない異世界があるという強み

 

1つ簡単な例を挙げるとしたら、

ぼくはこのブログでは自己主張をしっかりした表現で記事を書いている。「〜だと思う」ではなく、多くの場合で断言するように意識して書いている。だから、キツく感じるかもしれない。

『こういう僕と働きたいと思ってくれるひともいれば、そうは思わない人もいる』ということだ。

特に、「若造のくせに、なにをすべてを知った気になって書いているんだ。こざかしい。」と思う先輩方もいることでしょう。

コロンビアのことを良く知っているひとが僕の記事を読んだら、「それはもっとこういう深い理由があるんだよ!この内容は間違っているよ!こいつ嘘ばっかり書いてるな」と思う可能性もあるのだ。

それが当然なのである。ぼくは、僕の視点から見えている世界の情報に基づいてでしか書けないからだ。

 

 

だから、僕が「でもね、コロンビアでは○○○○だったんですよ」なんて、コロンビア人と話すときに「日本はこういう感じだよ~」という感覚で話してしまった日には、『高飛車な野郎だ』とお灸を据えられるだろう。

 

それでも、「帰国後に会おう」、「話を聞かせて」と言ってくれる人も多くいる。ありがたいことだ。

感謝、感謝である。

 

ついでに言っておくが、

『青年海外協力隊に行ったから、偉い!!すごい!!』なんていう、頭の中がお花畑の協力隊員は存在しないので、勝手に劣等感を感じたりする必要は全くない。むしろ、そういう扱いをされてしまうとかなり面倒だ。

 

「いつもどおりに接すること」

これがいつどんな時でも最も居心地が良い。

 

 

2年間という期間は、みんな平等に過ぎていくもの。そこに優劣などあるはずがない

 

2年間はみんな平等に流れるのだから、ぼくは日本で一生懸命に働き続けている人や家庭を持ったひとなどに本当に敬意を表している。そういうしっかりした人を知っているからこそ、ぼくは青年海外協力隊という「自分探しの旅」に出ることができているのだ。

ときどき地元の群馬に帰ると、大卒であることや修士卒であること、青年海外協力隊に行くことをすっごく称賛してくれる人がいるが、

僕個人としては「ぼくが6年間勉強と研究しかしてこず、お金は常に払う側(学費や入学費)だったのに対して、地元の友だちは6年間もしっかり働いて自分でお金を稼いで、家庭を持って、それを支えている。ぼくはその人生も、とても幸せでうらやましい」と思っている。

 

特に協力隊なんて、「自分が思っていた以上に爪痕残せなかったな」と思って帰国する人が多いのだから、なおのこと持ちあげる必要はない。帰国したら、ご飯はおごってほしい

 

 

『群馬県出身の僕が、湘南で4年間の大学生活を過ごした』ことだって、異世界を知ることなのだ。

どこになにがあるかわからず、町探検に出かける。ふとしたところに美味しいお店や顔見知りができる。

全く同じだ。新しい世界に飛び込んでいる。

自分の知っていた世界から飛び出せば、必然と多くのことを経験をし、そこで居心地の悪さも心の開放感も知らない世界へのワクワク感も味わう。日本国内でも、海外でもそれは同じだ。語学と文化などが違うだけで、異世界は異世界だ。

 

 

 

 

でも、協力隊経験者は癖が強そう。

このイメージは大枠としてあってる。というか、「異世界で、もまれながら生きる」という経験がその癖を生み出す。

「湘南で2年間過ごす」と「コロンビアで2年間過ごす」。湘南のことをよく知っている人は日本国内にたくさんいても、コロンビアのことを知っている人は少ない。それが希少性になり、武器になり、魅力になり、言い方を変えれば””癖””になるのだ。

 

高卒で、アメリカの大学に進学するひともいる。「おー、急にどうしたんだ!?」と周りの人は思うだろう。そういう決断は頭の中にあっても、なかなか下せるものではないからだ。

だから、なかには「日本の教育も素晴らしいのに、わざわざ海外に行く必要なんてないのに。日本のことをよく知らない子なんだわ」と思うひともいるだろう。

 

「わざわざ日本という母国から出て2年間現地の人のために活動しよう」とする行動力がある人達しかなれないのが、青年海外協力隊だ。

だから、その試験をパスした人たちは、訓練所の段階からなかなかに強烈な存在感を放っていた。アベンジャーズみたいな感じだ。主役を張れるような個性を持った人たちがたくさん集まっているのだ。

 

 

でも、それは訓練所という新しい空間に詰め込まれたから、みんなが他者観察を良く行い、そうに感じただけと思う。

個性というのは文字通り、すべての個人が持っているものなのだから、大学だろうと、企業だろうと協力隊だろうとどこでも同じだろう。

 

よくよくきちんと観察してみれば、電車の1車両のなかにもいろいろなひとがいるし、それは個性だろう。

 

 

 

文化が違う異世界では否が応でも磨かれるスキル と 和の組織論

 

個性を考える際にもっともおもしろいのは、「なぜそうするのか?」「どうしてそのような行動に至るのか?」を考えることだと思う。

 

この思考力、推察力が協力隊ではとっても鍛えられる。人間観察とも言うのだろうか。

 

 

なぜコロンビア人は老若男女問わず公平に無駄話ができるのに、日本人は鼻の下を長くして若い女の人とばかり話したがるのか。

列をつくっているところに、あとから割り込みで入ってきた人がいてもなぜ注意しないのか。それは注意できないのか、しないのか。

なぜコロンビアでは会計前の飲み物や食べ物をレジの列に並んでいる間に、開封した飲食できるのか。なぜ、日本ではそれができないのか。

 

 

こういうひとつひとつの観察によって研ぎ澄まされた感覚が、日本の組織論においては足かせになる場合があるのだろう。

 

和(輪)を重んじることが、個性の強い他者を排除することで成り立っていることが現代ではとても多くの場所で見られる。

危険分子であるような個性をどんどん排除していくので、輪がどんどん小さくなる。

「日本社会が気に入らないなら出ていけ」、「日本の社会に馴染めないなら、戻ればいいじゃん」というのは冷静に考えると、とても排他的な言葉だが、広く日本国民に浸透している島国魂だろう。

「気に入らない」ということを受け入れられない。受け入れきれない。なぜ気に入らないかを論理的に分析せずに、感情的に気に入らなくなる。最近の若い人が言う「キモイ」に近いものがある。『生理的に気持ち悪い』というパワーワードで解決しようとする。

 

過去日本が欧米列強などから「学び、吸収し、調整し、改良した」最初の『学び』の部分がすでに欠けてしまっているような気がする。ここが欠けたら、何も始まらないのだが。

でも、『日本が一番だ』という刷り込みのせいか、他国から学ぶというスタンスはあまり多くない。正しくは『日本は一番“だった”』だろう。

最近は「あの技術が奪われた」、「あの分野で2番になってしまった」、「海外企業の傘下になった」という下降ラインに見事に乗っかっている。

 

 

 

若い優秀なひとが日本の制度によって飼い殺され、海外に出ていく。

科学の分野(研究者)でも顕著だろう。

 

 

協力隊経験者って

 

 

 

 

 

 

 

協力隊経験者

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この言葉は、使われるたびに様々なイメージをさらに抱え、より大きな積み荷を背負って転がり続ける。

講演会があれば良いことしか話さない。当然のことだ、公金を使っているのだから。成果をきちんと紹介しなくてはいけないのだ。

 

 

でも、話半分に聞けばいい。自分の活動と現地のひとの活動に明確な境目は引けないのだ。

人によっては「これは、ぼくがもたらした成果だ」と紹介するだろうし、「周りは変わったけど、自分がやったことなんて少しだよ」という人もいる。だから、その辺の変化の因果関係を分析する必要があるし、それで自分がやったことで何かが変わったのなら、それは少なからずそのひとの影響なのだろう。

経験を次に活かすためには、「タネを蒔いたら、収穫するまでの生長過程もきちんと観察する」必要がある。

タネを蒔いただけで、どうして実がなったのかを理解できなければ、それはたまたまになる。それは「運が良かった」として片づけられてしまう。どういう意図とどういう戦略を持って、望んだのか。そして、それは自分が思い描いていたビジョンと実際のプロセスではどうなったのかを、きちんと分析しなくてはならないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

結論は、やはり何事も「中身」なのです

 

 

 

協力隊経験者だろうと、結局中身なのだ。

 

 

 

 

 

 

ぼくはいまアメフトで世間を騒がしている日本大学出身だ。*アメフトは好きだからあの事件には本当に腹が立っている。

これについては以前記事を書いた→ 我が母校日大のアメフト騒動『ルールを守らないマスコミ様は司会に注意されて当然

日本大学というのは、まぁ大卒の社会人からしてみれば、学歴的には全く大したことがない。偏差値は50くらいだろう。

でも、日大の学生がみなバカかと言われると決してそうではない。行動力がある人が多い。

ぼくも自分自身のことをバカだとは思っていない。

大学の成績で言うならば、本当にピンキリだった。そのときぼくはピン側に居るようにしたし、なにより学ぶことが好きだった。

結果、学科の主席として卒業した。初めて親孝行できたかなと思えた成果であった。

 

そのとき、国際協力の第一線で働いてきたor働いている先生方に、何度か言われた言葉がある。

「日大にはピンからキリまでいろいろな学生がいる。ピンの学生は、東大や京大の学生にも劣らないんだよ」

 

 

これ、あなたはどこまで信じますか??

実際、東大や京大、それに続く非常に優秀な大学の学生は優秀だろう。疑いようもない。その大学に在籍していることがステータスみたいなものだ。

良い大学を出れば、必然的に良い給料の仕事につける。そんな話は子どものころ、女王の教室というドラマでよく聞いた。

 

 

 

じゃあ、

早慶上智はどうなのか、

地方国立大学はどうなのか、

MARCHはどうなのか、

日東駒専はどうなのか、

F欄はどうなのか、

高卒はどうなのか。

 

 

 

結局は中身なのだ。

 

 

あなたは、世間一般で高学歴という人達を見て、なにか特別な感情を抱くのだろうか?

一方で、自分よりも学歴が低い人を見て、何か対応を変えたりするのだろうか?

 

 

まぁ、なんでもかんでも「中身」に結論を持ってくれると、それを否定する際に人格否定になってしまうからずるいかもしれない。

でも、人の人生に口を出せるような神のような高尚なひとはこの世にはいないのだから、相手を否定することは愚かなことだろう。

 

 

僕が聞いたことのある話だが、

ある日本大学生が京都大学に修士生として進学した。その後協力隊に参加し帰国後、博士課程以上しか採用しないということで知られる農業系の大手企業への就職が決まった。

ぼくはこの話を日大生のころに聞いた。

人事のひとに理由を聞いたところ、「日本大学から京都大学大学院に進学したその熱意と努力、そして協力隊を経て自身をより成長させたいと元気に答えてくれたことを評価しました。それが何よりもの戦力です。」と、回答をもらったそうだ。

そのひとは企業のパンフレットのセンターにも載って、その企業の顔となった。

 

これはなにも日大がすごいわけでもないし、協力隊に参加したから評価されたのではなく、彼の内面が評価されたのだ。

 

 

 

中身である

 

 

 

 

 

 

中身は、人格、経験、能力、知識、経験などなど様々なもので構成されている、個性である。

個性に良し悪しはない。個性は合うか合わないかだ。だから、その個性を高評価するひともいれば、低評価する人もいる。

恋人選びみたいなものだ。自分が「アイツはなんかダメだな」と感じるような個性を持ったひとに、素敵な恋人がいたりするものだ。

 

 

だから、協力隊経験者を評価する企業もあれば、特別に評価するわけではない企業もあるのだ。

日大出身だからどうとか、そういう風にくくれないように、協力隊に行ったからどうとは、言えないのだ。

まぁなかには、日大出身は頭が悪いとか、使えない思っている人もいるだろう。しかしその一方で、「(いわゆる)高学歴と呼ばれる大学出身の人達に比べて、頭でっかちでなく、プライドが異常に高いわけでない。だから、物事にも柔軟に対応できて、一緒に働きやすい」という声もあるのが事実だ。

これを適材適所という。

 

適材適所とは、「個性が合うか合わないか」ということだ。

 

Chao


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Chaito

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