「すべてに役割がある」と「役割に価値がある」は違う:人間はなんでも説明、説明、説明

「すべてに役割がある」と「役割に価値がある」は違う:人間はなんでも説明、説明、説明

だれにでも役割はある。
どの昆虫にも、どの雑草にも役割はある。
たしかにそうだ。

それは転じて、「すべてに役割がある」ということを意味する。
ぼくがわざわざ「ミミズには役割がある」と言おうとも、言わなくとも、ミミズはそんなことは気にせずに彼らの役割をこなしているというわけだ。
そりゃそうだ。
僕ら人間が、「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ。役割があるんだ!」と言わなくても、彼らは彼らの生活を全うし、彼らの生活というサイクルが、自然界のサイクルの1つとして組み込まれているのだ。

サイクルというのは、歯車と考えてもいいだろう。
なにか機械を組み立てるとき、大きい部品と小さい部品、どこに使うのかわからない小さいネジも付いてくる。
より複雑なモノを組み立てる際は、これらのパーツも比例して増えていく。
もし「完成した!!」と喜んだときに、小さなネジがその機械の脇に転がっていたとしたら、青ざめるだろう。
小さなネジ1つを止め忘れたことで、何かが爆発するかもしれないし、使っているときに大破するかもしれないからだ。

だから、小さいからと言って、1つのパーツを軽んじることはできない。
そのパーツには役割があるわけだし、そのパーツの実用的な価値が認知されていることで、私たちは正しく青ざめることができる。
しかし、それはそのパーツの役割と価値が理解されているからにほかならない。

役割の価値:自然のサイクル vs 人間のサイクル

昆虫や雑草には役割がある。
それは当然、自然生態系のなかおいては、彼らの役割があって間違いない。
だから、自然というサイクルのなかには、かれらのサイクルも組み込まれている。
そして本来、人間もそのサイクルの1つだった。(いまでは、私たち人間は「自然のサイクル」とは別のサイクルを創ってしまった)

でも、昆虫や雑草に価値があるのだろうか?
すくなくとも、「人間のサイクル」においては多くの場合価値がない。
彼らが密かに担っている役割もあるのだが、その役割は「人間のサイクル」のなかでは生きない。
なぜなら、自然のサイクルと「人間のサイクル」は、本来は一緒であるべきものだが、別々に分かれた状態だからだ。

だから、人間社会では、見る者を魅了する綺麗なチョウチョやカブトムシなどには価値があるが、ゴキブリやガ、ムカデなどにはない。
けれど彼らは、自然生態系においては構成員として役割を担っているわけだ。


つまり、役割に私たちが価値を見出すかいなかが、ポイントになっている。

頭の大きな人間

人間は非常に賢い。
だから、いろいろなことに想いを巡らせることができる。
その結果、嘘もつけるし、嘘をつくことで嘘か真かを判断しなくてはいけなくなった。
だから、ほかの多くの生物とは異なり、真実の世界のみではなく、虚偽の世界も認識いなくてはいけなくなった。

これは、とても大変なことだ。


たとえば、ぼくが魚で目の前にエサとなる魚が泳いでいた。
だから、それを飲み込んだら、その魚には針が付いていた。
釣り上げられた。。

これは正当なだましである。
ハンティングとも言えるが、人間がほかの生物をこのように賢く捕まえることができるのは、欺くことができるからだろう。
これはよくよく考えると、すごいことだ。

しかし、人間同士の間でもそのような欺き合いが起きるとなると、ひとは全てを鵜呑みにして信じることができなくなる。
自分が罠におとしめられるかもしれないから。


この数百年、数千年くらいはそんなかんじで、頭の大きくなった人間は【信じること】と【信じることのできないこと】が明確になった。
だから、自分が認めた興味のあることや価値のあるモノは信じることができるが、
それ以外の多くの知らないことを、むやみやたらに信じることはできていない。


残念ながらその結果、目の前で起きていることも、きちんと納得のいく説明が付かなければ、意味を理解することができず、価値を見出すことができなくなった。

役割の価値を認めるためには、常に客観的な説明が必要な人間社会

ヘビでも、アリでも、コガネムシでもなんでもいいのだが、
道ばたで出会うダンゴムシに価値はあるだろうか?

役割はある。
わたしたちの視点から見下すだけでは想像もできない役割が、ダンゴムシの生活にはある。

では、イヌやネコ、馬や牛がダンゴムシを道ばたで見かけたら、どう思うのだろうか?
鶏だったら、食べてしまうのかもしれない。


きっと彼らは気にしないはずだ。
彼らは基本的に、無駄なことはしない。
必要なことしかせず、それ以上の欲求というのはない。
ほかの個体から「よく見られたい!」とか、「もっと評価してほしい!」とは考えていないだろう。

けれど、私たちは、「ダンゴムシを大切にしよう」とは思わない。
ちっぽけだからだ。
「『ダンゴムシを大切にする』ということは、ダンゴムシにはなにか価値があるってこと?説明して」と、思う。
ぼくもそうだ。


僕らの場合、何かを大切に扱うためには理由が必要で、その理由で相手を説得するためには客観的な説得が必要になってくる。


残念ながら、大切だから守ろう では、足りないのだ。
人間のサイクルは、自然のサイクル(自然生態系)とは切り離されている。
だから、なんでもかんでも説明が必要だ。それも客観的な。

好きなモノは「好き」と言えるのに、
ならぬものには「ならぬ」と言えるのに、
正しいことには「これが正しい」では通じない。


だから、人間の目線からすれば、
「役割を認める」ためには、客観的な説得力のある説明がいる。必ず。

そうまでしてでも、圧倒的無関心の社会から賛同を得なくてはいけない。
それが、民主主義というものだから。

その結果として、絶滅危惧種には人間が認知している魅力的な種しか指定されない。
では、人間に価値のない「醜い」種は守る価値がないのだろうか?
いや、守る価値がないのではない。
守る価値を見出してくれる人間が少ないから、だれもサポートしてくれないだけだ。


すべてに役割があるのに、その役割の価値をだれも認めてくれていないだけだ。

これは人間社会のなかの人間同士の付き合い方でも同じなのかもしれないね。


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Chaito

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