My life without me:生きた後の人生のほうが、生きている間よりも圧倒的に長い【哲学】
「自分が死んだあと、ぼくは周りのひとや社会にどういう影響を残せている、残したいのだろうか?」
だって、生きている間よりも、生きた後の人生のほうが長いのだもの。
遺書は、スマホの中に常にある
ぼくは20歳のころから、2年周期くらいで遺書を更新している。
遺書と言っても紙媒体では残しておらず、スマホの中にある。
だから、もしかしたら、ぼくが亡くなったあとに開いて見つけてもらえないかもしれない。
残している内容は、そのときの気持ちや感謝の想いが中心で、(みなさんも書いてみるといいと思うけど、)書いている間はやはり感謝の念や「アクシデントでは亡くなりたくないな」という想いが強くなって、涙ぐんでいる。笑
結構な文量でしっかり残している。
というのも、いつ、ぼくの人生が終わるかはわからないからだ。
遺書を最初に書いたきっかけは、大学生のころヨーロッパに海外旅行に行くことになったことだ。
飛行機が落ちるかもしれない。
現地で拉致されるかもしれない。などと考えた。
そのころは、パソコンのデスクトップに文章を保存して、日本を発った。
結局、28歳になる今まで、幸いなことに命には別状はない。ありがとう
以来、海外調査や青年海外協力隊でコロンビアに行ったりと、「異世界」に飛び込むことが多かったので、必ず遺書を書き残していた。
それは今も変わらない。
だからぼくは、道を歩くときも、車や自転車と衝突するリスクを極力減らすように歩く場所を考えるし、
一本道で車とすれ違う際は、かならず道を譲るようにしている。
死を身近なモノとして意識しているからだと思う。
遺書を残しているからといって、死にたいわけではないからね!
「生きている間の人生」と「生きた後の人生」
社会や世界の幸福を願うと、自分が生きている時間よりも、生きた後の時間のほうが無限であることに気づく。
ぼくが生きることができるのは80年間、よくて100年程度だろう。
けれど、ぼくが生きた後、つまり死んだ後の時間には終わりがない。まさに、無限の可能性がある。
たとえば、西暦3000年まで人類が生活しているとしたら、980年間も時間がある。
生きている間に多くのことを進展させることはもちろん大切なことだが、
生きた後に「その積み重ね」が後世のために生かされるようになっていたほうがより多くの人や社会のためになるのだ!
だから、自分の(生きている間の)人生を楽しみながらも、
「自分がいなくなった後の人生」での貢献の仕方を考えるようになった。
これが、My life without me。
名前に釣られて観た映画が思った以上に暗い映画だったけど、「My life without me」を大切にしていた。
だから、インスパイアついでに、記事に残しました。
My life without me:お墓のなかでの楽しみを創る
自分の人生は自分の物だし、他人の人生は他人のモノだ。
家族のなかでは僕の人生はみんなのもの。
ぼくの友人や知人、恩師の人生はぼくのものでもある。
ぼくが亡くなったとき、もしかしたらぼくは孤独かもしれない。
けれども、
ぼくがこの世に遺すことができたモノは、ほかのひとたちが生かすことができる。
ぼくが多くのひとから影響を受けているように、
それを後世に引き続けるように、
自分が生きている間の人生で何かしらのことは成し遂げていきたいと思っている。
それがたとえ小さなことで、局所的であっても、誰かの役に立てることはそれだけ光栄なことだ。
人は80年ほどで死ぬ。
あと数日、数ヶ月、数年でなくなる可能性だって、かならずある。
それなら、お墓のなかで過ごすことになったときや子孫の守護霊となったときのために、永遠に近い時間の楽しみを、生きている間に創りたいではないか!!
後世でも生かされる土台を創ること
それがぼくの生きている間の人生の目標かな~。
余裕があれば、その土台の上でさらに発展させていきたいね!!
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