反省:他人が幸せかどうか、責任を持てないのだから干渉すべきではない
コロンビアの友だちから、「あなたにとって幸せってなに?」
Qué es para usted felicidad?
と訊かれた。
その子はコロンビア人らしからぬ、賢明さと思慮深さを持っている子で、コロンビアにいたころから哲学的なことをよく話していた。
だから、こちらも「コロンビアのひとってどういうときに幸せを感じるの?」、「どうしてコロンビアのひとは家族や友人のことをそんなにも大切にするの?」と訊いていた。
そういう質問をすると、「一般化することはできないけど、、、」と必ず一言入れてきた。
そういう子だった。
その子から、「日本の人ってどういうときに幸せを感じるの?」と訊かれたことから端を発し、この数日、1週間くらいは『幸せ』について考え直していた。
コロンビアでも何度も同じ話をしたけど、日本に帰国して11ヶ月経った今、日本に再順応したぼくがどう考えているかはすぐには出てこなかった。
ほかのひとが幸せに見えなかったとして、そこに干渉すべきではない
ぼくは最近とてもよく沈んでいた。
帰国後、1番沈んでいたことは間違いない。
そういうとき、自分のことばかり考えていた。
それしか考えることができなかった。
そして、それを脱し始めたとき、彼女の質問に応えるべく「日本人にとっての幸せ」を説明しようとした。
結局答えはなかった。
『一般化はできないけど。。。。』といわざるを得なかった。
そういうとき、まわりのひとが幸せオーラを出していないことが気になってしまった。
すごくポジティブな雰囲気を出しているひとというのは、あまりいない。
ぼくは「ポジティブな雰囲気」を善いものだと思い込んでいることに気づいた。
自分がそうになりたいと思っているからといって、まわりのひとがそうありたいと考えているわけではない。
そういう、当然の配慮が欠けてしまった、傲慢なひとになっていた。
細かい性格の人は神経質になりやすくて、ストレスを感じやすい。
だから、幸せにはなりにくい。
という発想自体が短絡的で、愚かしいことに気づいた。
他人の人生や幸せの責任を取ることなど、決してできるわけがないのだから、口を出すべきではなかったのだ。
(だれかに言ったわけでもないけど)
「幸せは千差万別」と頭でわかっていても
おおくのひとが、幸せは人それぞれと理解している。
ぼくも頭ではよく理解していたし、このブログのどこかの記事でも同じような”きれい事”を書いていたことだろう。
それでも、自分の考えにしみこむくらいまで理解するのはなかなか難しい。
自分の気持ちが落ちて上がってきたから、反動的に横柄な考えを持ってしまった。
ここに悔い改めよう。
これから、気温30℃以上連発みたい。
あっつくなるから、気持ちも上がりますね!!!!
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