ペルーで出逢った真面目な物売りの子:決して料金以上のお金は受け取らなかった
途上国に行くと、物乞いにあったり、お金を求められたり、信号待ちの間にガムなどの小物を売ってくる。
コロンビアには、ベネズエラからの経済的な移民がたくさん流入にして来ていたので、どこの信号にも物売りの人がいた。
ごくごく稀に、人を脅したり、奪ったり、刺したりするような過激派がいるようだが、ほとんどの人がそうではない。
そうではなかった。
子どもが学校に行かずに(行くことができずに)、路上や家の仕事を手伝うケースはとても多い。
それだけ、子どもには選択肢がないとも言える。
そのような中、僕は常々、「日本人の1000円の価値」と「彼らにとっての1000円の価値」が違うことを意識していた。
時給1000円の日本と、人口の半分の月収が3万円のコロンビアでは、お金の価値は違う。
僕らは彼らの年収を、いとも簡単に数ヶ月で上回る。
僕が彼らに1000円をあげたりしたら、彼らは家族で3日間くらい食事には困らないだろう。
だから、コロンビアでは、募金を兼ねて、できる限りモノを買うようにしていた。
物売りの人たちからアメを買ってあげたり、ガムを買ってあげたりした。
それらのガムやアメの原価は3円くらいなので、基本的に一番小さな額のコロンビア硬貨でも儲かるのだ。
だから、彼らが売っているガムやアメには値段はない。
「100円で買って」とは言ってこないのだ。
そのアメの価格は、買う側の思いやり価格。
つまり、10円を払おうと、100円を払おうと、1000円を払おうと、その料金は買う側の「厚意」に委ねられる。
だから、一つのアメに対して1000円を払ってくれれば、彼らはとても嬉しいわけだ。
でも、ペルーに行ったとき、その「厚意」を受け取らない子どもがいた。
この記事は、その話である。
「レストラン内」と「レストラン玄関」での物売りの違い
海外研修でペルーに行った。
ペルーの雰囲気は、コロンビアとは違う。
それにペルー人もコロンビア人とは違う。
コロンビア人は個を尊重するのに対して、ペルー人は我々に似て他や集団を尊重する。
そのような印象を強く受けた。
特に、人が話しているときは最後まで茶々を入れずに話を聞く姿勢を持っている点は大きい。
コロンビア人はだいたい話の途中から、割り込んできて、自分の意見ばかりを伝えがちである。
その環境に慣れた僕は、ペルーの人の耳を傾ける態度を目の当たりにしただけで、「ペルーの人は優しい」と感じた。
その研修には、パラグアイやペルー、グアテマラなど多くの中南米の人に加え、彼らのカウンターパートとなる青年海外協力隊隊員がいた。
会場のあるペルーのカハマルカに到着し、コロンビアチームやパラグアイチームでご飯を食べに出かけた。
ペルーでは、ネズミのようなげっ歯類を食べるので、僕らも興味本位でそれらに舌鼓を打っていた。
cuy クイ というモルモットのようなのを食べる。
コロンビア南部もそうだが、ペルーでも何かめでたい時に食べるそうだ。
餌が雑草などの植物でいいので、餌代がかからず、それでいて特定の日にクイを食べるので高く売れる。
伝統的な食べ物だ。
すると、その少しランクの高いレストラン(と言っても、庶民派食堂)内に、物売りの子どもたちが入って来た。
そのレストランが、物売りの子どもたちに協力をして、レストラン内でのモノを売りを許可しているのだろう。
コロンビアにもそういうレストランはある。
その一方で、高級レストランになると、そのような人たちは文字通り「門前払い」を食らうことの方が多い。
幸せに食事を楽しんでいるのに、レストラン内で物乞いを行われるのは、日本人的な観点からすると、明らかにそのレストランの品位を下げてしまうからだ。
でも、良いホテルにはお金を持っている人たちが泊まる。
良いレストランは、お金に余裕のある人たちが利用する。
だから、「お金が豊かな場所」の玄関先で、滑車にモノを詰めて販売していたりするものだ。
僕とゾゾタウン社長の、「ちょっと飴が食べたくなったから買うか」の金銭的な感覚はきっと一緒ではないだろう。
もしかしたら、ゾゾタウン社長なら100万円を何かの拍子にあげるかもしれない。
だから、物売りをする人たちは基本的にお金を持っていそうな人の元へ集まるのだ。
その男の子は、夕ご飯を食べているレストランにやって来た
ペルーのレストランでは、どうやら子どもだけがレストラン内での物売りを許可されているようだった。
大人が店内を歩き回るのと、子どもが店内を歩いているのでは、客に対する雰囲気の破壊はない。
威圧感が少ないからだろう。
アジア人は外国人であることが丸わかりなので、子どもたちは僕らの元へやって来ると、数度断っても、買ってくれるまでおねだりをしていた。
売っているものは、別に壺などではなく、ガムだ。
ガムなら、いくらあっても困らないし、金額もとっても安い。
中南米の物売りでは、日本のガムのように12個入りで1組のような売り方はしない。
1個ずつ別売りだ。
イメージしやすく言えば、
ブラックブラックの板ガムが10枚入りで100円だとして、それを1枚ずつ10円で販売している感じだ。
だから、3個や4個買ったところで、無駄になるものではない。
それに買えば、会議中に友人に分けることができたりもする。
というわけで、僕らは小学生になるかならないかの男の子に、
1個10円のガムを、2個で100円で購入しようとした。
2個なら20円でも利益が出るところを、僕らは援助の意味も込めて、2個を100円で買おうとした。
でも、彼は「20円でいい」と譲らなかった。
失礼なことをした。彼はビジネスをしていたのだ。
その子は結局20円で2個のガムを売ってくれた。
コロンビア・パラグアイと僕の3人は、「どうしてだろうね」と簡単に話し、
パラグアイの彼が
「彼はビジネスをしていたんだよ。だから、対価以上の額は受け取らないのさ」
と言った。
僕はそれをよく覚えている。
ペルーに行ってから、1年近く経った今でも僕はとてもよくそのことを思い出していた。
だから、唐突にここで記事にした。
支援のつもりで100円のものを200円で買ったりすることは日本でもよく聞く。
良い物であれば、それを評価するために相手の言い値よりも多く払う。
そういうのは、価格が書かれていない商品に対してはよくある話だ。
ぼくも、有機農業の映画会などのイベントでは、1000円の入場料でも、カンパを募っていれば5000円くらい出す。
本当に価値のあるものは、やはり長く存続してほしいからだ。
でもそれと同時に、500円の値がついたものは500円でいい という人もいる。
「つまらないものだから、気にしないで」と言って、本当にそれで恩返しをされるのを嫌う人と似ているのかもしれない。
ペルーで会ったその男の子は、まさにビジネスをしていて、信念を持っていたのだと思う。
僕が美化しているだけなのかもしれないが、それでも彼のような正直者を如何に支援するかを考えるのには十分なきっかけだった。
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