【伊勢神宮】神様は流行廃りに敏感?:奉納する「最上」の食べ物に化学合成物を使っていい?
ぼくは、神に感謝はすれど、神を崇拝の対象としてそこまで信じてはいない。
神様に寄りかかることはないが、神様へ感謝をする。
1日が終わるとき、ツンと冷たい冬空を見上げて、「今日も無事何事もなく、いい1日だったなぁー」と思うことはほぼ毎日ある。
そのとき、その日々の幸運を、“なにか”に感謝している。
それが、僕の場合、言葉で表すと「神さま」という存在とつながる。
だから、特別信仰心が強いわけではない。
それに、スピリチュアルな難しい話をこの記事で扱うわけでもない。
以前神様について書いた記事
→絵馬に書くことはありません。神にお願いせずに歩むこと。コロンビア人の「神様」感覚
目次 Índice
神社に参拝するときだけ善を装う。それ、意味あるの?
一般的な日本人(仏教や神道をなんとなく信仰している。もしくは、自分は無宗教だとおもっているひと)は、「神様のために」何かをするわけではなく、「自分のために」何かをする。
たとえば、神社に行くこと。
これは、神様に御奉納するわけでもなく、自分がエネルギーをもらうためだったり、自分がちょっとしたお願い事をするための願掛けのためだったりする。
受験を合格するために、勉学の神様がいるとされる神社に行き、そこで願掛けのために、御守りを買う。
神の御加護を受けたいから御守りを買い、御守りを買うために神社に行くわけだ。
神様に日ごろの感謝の想いを伝えに行くだけのひとは、多くないだろう。
何かにあやかろうとしている。縁結びもそうだ。
感謝するのではなく、お願い事をしに行くのだ。
パワースポットというのが流行っていたようだが、そのようにお寺や神社の観光地化を図ったりする。
そういう私利私欲のための参拝が、本来の意味の参拝なのかどうかということを境内に入るときに疑問に感じることがある。
お寺では和尚さんが煩悩(雑念)に打ち勝つために修行をしているのに、神社やお寺に行く人たちがこれ見よがしにお賽銭箱の前に列を作ったり、鳥居をくぐるごとにお辞儀をしたりするのには、とても違和感を抱く。
鳥居の前でひとりがお辞儀をすると、みんなお辞儀する
三重県の伊勢神宮に行く。
たくさん参拝者がおり、背広姿のひとたちも多い。
お仕事の関係で、一参りするひとも多いのだろう。
「伊勢神宮」は有名なので、一度行ってみたいと思う人も多いことだろう。
かくいうぼくも、そのうちのひとりだ。
伊勢神宮について何も知らないけれど、「伊勢神宮」という響きは有名なので、一度行ってみたいと思っていたくちだ。
さて、伊勢神宮にはどうやら「参拝のルール」が存在するようだ。
それは、鳥居などの前で神様に挨拶をすること。
つまり、お辞儀だ。
これについて、もうたくさんネットに情報があがってる。
鳥居でお辞儀をするらしいのだ。
でもね、伊勢神宮(外宮・内宮ともに)にはたくさん鳥居があるのだ。
だから、前の人がお辞儀をし始めると、みんなそれを真似てお辞儀を始める。
そのお辞儀、意味ある?
もちろん、いくつかの場所できちんと挨拶をすることは大切なことだ。
でも、なんとなくお辞儀して意味あるの?
小学校だったら、先生に見透かされて叱られることだろう。
神様はとても寛大だ。
伊勢神宮内にいる警備員さんや白装束のひとは、鳥居ごとにお辞儀しません
それはそれはみんなお辞儀するものだから、「これって正しいのかなぁ?」と疑問に思って、神宮内に滞在している白装束のひとの行動を見ていた。
まず、橋ごとの鳥居でお辞儀してませんでした。
これは、警備員さんも同じ。
観光参拝者が律儀に毎回毎回お辞儀をしていたのだが、隣で颯爽と通り抜ける“プロの人たち”。
神様に挨拶することは大切なことだけど、心のなかできちんと感謝して、謙虚で穏やかな心で参拝すれば、それで十分なのだろうと、ぼくは思った。
作法があるなら、相手に迷惑がかからない範囲内でその作法に従うべきだが、神聖な場所は「神聖の対象」と個人の関係なのだから、自分が納得していればあまりかしこまりすぎる必要はないだろう。
自然と手を合わせたくなる場所なのであって、手を合わせに行くわけではない。
ぼく、御賽銭しない
有名な神社に行くと、御賽銭の前に列ができていたりする。
御賽銭の額とともに、「ご縁がありますように」。「十分ご縁がありますように」。
不思議だ。
ぼくは神様にお願いごとはしないので、私欲を神様にお願いできるひとはすごいなぁと思う。
でもそれなら、500円とか5000円にすればいいのにと思う。
金額が多ければ、それだけ神様もその願い事の“重要性”を理解してくれるだろうに。
ちなみに、列を作っている(上の写真)脇で、白装束のひとは脇目も振らず、列に並びもせず、近くまで行き、一礼していた。
そして、すぐに次に行っていた。
冷めてるけど、御守りとかは大切に扱います。
冷めた感じで書いているけど、ぼくも「神聖なもの」は理解できます。
というか、八百万の神を持つ日本人は、海外に行ってもほかの宗教のひとたちがなにを神聖なものとしているかを尊重することができる。
できると思う。
コロンビアではカトリックが主流なので、日曜日はミサに行くひとがいる。
何度もついて行くことはなかったが、彼らが崇拝するものをきちんと尊重できるわれわれは、宗教的な争いを望まない民であり、そして、「どうして宗教間で相手を尊重できないのだろう?」と疑問に思う民でもある。
神に奉納する食べ物は、手塩にかけたものでなくてもよい?
神様というのは、私たちにとって神聖な対象である。
まだ見えないが故に畏怖の念を抱き、そして、崇拝する。
だから、神社で演し物をすることも、疑いようもないほどに理解することができる。
五穀豊穣や子孫繁栄を願い、そして、感謝する。
もし、天候不順で豊作でなかったとしても、我々の“願い”が足りていなかったと考え、次はより多くのものを納め、ときに、命さえも捧げていたと聞く。
神というのは、わたしたちがはかることが出来ないほど、とてもおおきな存在であることは確かだ。
では、奉納するお米はハーベスターを使って収穫したものでいいのだろうか?
水耕栽培で育てたトマトはどうだろうか?
化学農薬や化学肥料を使ったものであってもいいのだろうか?
どうなのだろう。
われわれが崇拝する対象は、「どこまで」現代の技術を許容してくれるのだろうか??
神さまというのは、地球創設期や日本創設期からいる、らしい。
縄文人が「神聖なもの」を頭に浮かべたそのときから日本にいることだろう。
そこから考えれば、2018年の今までに、発見・普及を繰り返し、たくさんの変化があった。
神様というのは、どこまで流行り廃りに対応できるのだろうか??
少なくとも、たかが50年ほどの歴史しかない「化学合成物を利用した食料生産」に寛容なのだろうか?
それはやはり神ではなく、われわれ納める側の人間が決めることなのだろう。
「最上の物」を奉納するとしたら、なにが現世において「最上」なのか?
変な物を神様に納めることは罰当たりであることは、直感的にわかる。
神様に納めるものは、より良いものであるべきで、最上であるべきだろう。
では、われわれはどのように生産された物を「最上の食べ物」と捉えているのだろうか?
僕の感覚では、
お米であれば、手刈りはマストだ。
バインダーやハーベスターで、ヴィーーン・ホイ!ではどこか違う。
野菜であれば、化学肥料や農薬を使ったものはなしだ。
それではやはり、母なる大地のエネルギーを感じないし、神様が生命エネルギーを感じることができるとしたら、瞬時にバレてしまうだろう。
では、われわれ人間はなぜいま、そのような「最上」もしくは、「より良いもの」に対する意識や憧れを持っていないのだろうか?
なにが「良いもの」かは、人それぞれである。
それはわかる。
しかし、「人それぞれ」という逃げの理由をあげ続けていては、思考が停止してしまう。
その裏には確実に、不変的な価値があるはずなのだ。
最上の世界を知らずして、平凡もなにもない。
われわれは、生活の多様性ばかりを注目しがちだが、ひとつの生活のなかにも質の違いが存在することを知ると、おもしろい。
電車にはグリーン車があることがある。
お肉にはA5がある。
チーズやワインには最上のものがある。
質の高い宿泊先がある。
最上を知ることで、知りうる世界が広がる。
私たちがもし神様であったとしたら、どういう行動を私たちにとってほしいのだろうか
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