野菜の価値:途上国のひとに、野菜を栽培・常食してもらうには「美味しさ」を知ってもらうことが大切
ダイヤモンドはただの石ころである。
本質的に、石ころとしての機能以外持っていない。
しかし、人間社会ではダイヤモンドは高級品として扱われている。
それは、人間がダイヤモンドの綺麗さに価値を与えたからである。
もし、ダイヤモンドが河原に転がる素朴な石のように高額で取引されないのであれば、多くの人にとって価値はない。
1万円札はただの紙である。
本質的に、紙っぺらとしての機能以外持っていない。
しかし、日本社会では1万円札は最も価値のある紙幣として扱われている。
それは、政府が1万円札の紙に1万円分の価値を与えたからである。
もし、1万円札を換金せずに海外に持っていたとしても、それはただの紙であり、コカ・コーラさえ買えない。
価値があるか否かは、価値を見出すひとや社会とその価値に賛同するひとがいなければ成り立たない。
ぼくは、コロンビアペソを2万円ほど持っているが、コロンビアでは2万円分の価値があるお金は、日本では2万円の価値はない。
価値と価値を交換するためには、換金所のような仲介役が一般的に必要になる。
野菜は食物繊維やビタミンが豊富で、健康増進のために食べたいものである。
本質的に、生物の身体を内部から整える機能を持っている。
しかし、途上国では野菜はそのように扱われていない。
それは、途上国では野菜の機能や味に価値を見い出すひとが少ないからである。
もし、野菜がアメリカにおける遺伝子組換え作物のように、人間が直接食べるものではないと考えられていたら、われわれ日本人と彼らの野菜への評価や期待は大きく異なる。
彼らにとって、野菜の価値とは何なのだろうか?
途上国のひとに「どうして野菜を食べなくてはいけないの?」と訊かれたら、あなたは”野菜を食べることに価値を感じていないひと”を説得できる自信がありますか??
これまで、何年、何十年と野菜を意識的に摂ることをしてこなかったにもかかわらず、野菜なしでも家族とずっと幸せに生きてこれた人たちに対して、「野菜の価値」をどのように伝えますか?
健康を維持・増進するために野菜を食べる。
それはわたしたちアジア人にとっては当たり前のことで、疑いようのない習慣だ。
でも、野菜を食べないでも、コロンビアでは表面的な健康や美貌は保たれている。
そこで、野菜を食べることの重要性を説くことは、野菜の栽培指導をしていたぼくはできなかった。
目次 Índice
結論:野菜の美味しさを知ってもらうこと
せっかく家庭菜園で良いキャベツを育てたのに、そのキャベツをそのまま鶏舎に入れて、ニワトリに食べさせているのをコロンビアでよく目にした。
ぼくらは農家さんたちに野菜の栽培方法を指導していたのだが、その立派な野菜はニワトリを養うために使われることがあったのだ。
結論を言おう。
野菜作りを支援するのであれば、対象者が野菜を食べる習慣があるかどうかを確認し、もし食べる習慣がないのであれば、おいしい調理の仕方を教えたほうがいい。
自給自足を営むようなひとでこれまで野菜を作ってこなかったとしたら、そのひとは野菜に価値を感じていない。
食べることに意味がないと思っている。
だから、食べるつもりがない食糧の育て方を指導しても、何の役にも立たない。
役に立つとすれば、換金作物としてか、もしくは、健康なニワトリを飼育するためだろう。
いずれにしても、やる気を見出せないものが継続されることはない。
大谷やダルビッシュ有、C・ロナウドのようなトップアスリートでなければ、栄養素摂取のためだけに食事をすることはない。
野菜を美味しくいただける料理をつくる
これに勝る野菜の普及方法はない。
カロリーのないこんにゃくを食べる意味は何か?
こんにゃくというのは、とことん贅沢なものだなと感じる。
味がなく、カロリーもほとんどない。
これ、食べる意味あるのだろうか?
ぼくはこんにゃくの名産地、群馬県出身なので「こんにゃく擁護派」である。
でも、コロンビアから帰ってきて、刺身こんにゃくを食べていたとき、ふと思った。
「こんにゃくの魅力を途上国のひとたちに説明することができるのだろうか?」
そのときの結論は、「ぼくは相手を納得できるレベルで、説明することができない」であった。
刺身こんにゃくを食べているとき、もはやぼくは大好きなワサビの風味を味わっている。
ほのかにこんにゃくの味が舌をなぞるが、こんにゃくという食べ物を宣伝するのは難しい。
飽食社会の日本では、カロリーがないものはダイエット食品として人気がある。
それは、われわれが様々な食べ物を選ぶことができる恵まれた環境に居るからこそ生じる人気である。
もし、限られた種類の作物しかなく、料理のレパートリーが少なかったとしたら、栄養バランスなどに注意を払う余裕はないし、「栄養バランスが悪いから、それを補うことのできるものを食べる」ということさえ思いつきもしない。
考えないのではなく、考えることに行き着かないはずである。
だって、それが選択肢にそもそも入り込んでこないのだから。
私たちが日本社会で価値を見出しているからと言って、それが別の世界でも価値があるとは限らない。
価値がない世界において、その魅力をいくら説いても、相手の心に響くことはないのである。
サラダを食べていると、「それ、ウサギのご飯だよ」と茶化されるコロンビア
コロンビアのひとたちは、あまり野菜を食べる習慣がない。
トマトと長ネギはよく使うが、レタスやキャベツのサラダを食べることはない。
彼らが食べるサラダは、トマトとタマネギスライスにアボカドを加えて、レモンを絞ったモノだ。
これは、めちゃくちゃおいしい。
コロンビアでは、アボカドがおいしくて、アボカドを使えばなんでもおいしくなると言っても過言ではない。
→記事:コロンビアに来たら、大きなアボカドを味わってほしい!! コロンビア流アボカドの食べ方
休日に、野菜不足を解消するためにレタスをちぎって、お皿1杯に盛る。
それに、ごま油と塩をかける。
これが簡単で美味であった。
さて、レタスをちぎって食べるのは安っぽい料理ではあるが、野菜不足を解消したい意を我々はすぐに理解できる。
でも、コロンビア人にとってはそうではない。
「なんで、休日なのにウサギのご飯を食べてるの?」と、言われる。
かれらには、野菜を食べる意味がわからないのだ。
意味がわからないことを理解してもらうことは、難しい。
なぜなら、概念を持っていないから
野菜栽培隊員として家庭菜園を指導していたけど、野菜栽培を促進するためには「野菜のおいしさ」を伝えるべきだった
ぼくは熱心に、家庭菜園の作り方を教えていた。
それなりに成果を出すことができたと自負している。
しかし、もしぼくが次に途上国で活動することがあるとすれば、おいしく野菜を食べる方法も提示できたら、、、と思う。
結局野菜は食べてもらわないと意味がないと思う。
ぼくは、途上国の農家のひとたちは野菜でお金を稼ぐことよりも、まず、自分たち自身の健康のために野菜をつくってほしい。
それは、ぼくが「国際協力」という視点を常に持っているからかもしれない。
市場にだして、それを売ることも大切だ。
でも、最初からそれを目指して、野菜栽培を開始してほしくない。
「開始してほしくない。」というと、ぼくのエゴかもしれない。
それでもぼくは、食糧は体を支えるためにあり、健康を維持するためであり、病気や体の不調を減らすものであってほしい。
健康な生活を送れることで、家族や友人、恋人と幸せな時間を長く送ってほしい。
だから、ジャガイモやキャッサバの食べ過ぎや、しょっぱい料理や甘いジュースで体のバランスを壊してほしくない。
→記事内でコロンビアのハイパーな食事を紹介してます:コロンビアに派遣されると、身体的にも一回り大きくなって帰ってきます! 協力隊員、太るひともいます
そう願いながらも、ぼくは2年間の間に野菜のおいしい食べ方を指導することはできなかった。
徐々に、かれらの食事プレート上で、野菜をつかった料理の割合が増えてきたことはとてもうれしかった。
美味しくなければ、食べる気は起きない。
言い換えれば、美味しければ、率先して食べるということ!
結局、まずいモノは食べない。食べたくない。食べる意味が行方不明になる。
だから、野菜を美味しく食べれるようにしなくてはいけない。
ぼくが野菜を好きなのは、ぼくが野菜の味に美味しさを見出して、それを感じることができるからに他ならない。
子どもが野菜嫌いであれば、工夫をして、様々な料理をつくるだろう。
最初は、野菜の味を感じさせないように、ごまかしながら調理するかもしれない。
そうにするべきである。
しかし、コロンビアでは子どもだけでなく、親も、おじいちゃんおばあちゃんも野菜を食べる習慣を、ぼくたちほど持っていなかった。
だから、野菜の調理の仕方がわからないし、わざわざ野菜なんかを調理するやる気もなかった。
日本で、両親が野菜の大切さを理解しているがゆえに、子どもたちが野菜を好きになるように腕を振る舞うのとはわけが違うのだ。
まず、美味しい野菜料理を知ること。
舌でその美味しさを感じて、魅了させることが最も大切だ。
ニンジンの美味しい食べ方を舌が覚えれば、自分の畑でニンジンをつくるようになるだろう。
美味しい野菜料理を指導することは、野菜の栽培方法を教えることと同じくらい重要だ。
野菜の機能とかそういう目に見えないことを説くよりも、「美味しさ」から責めるべし
途上国では普通、学校で野菜の機能を教えることはないだろう。
コロンビアでは、野菜の機能なんか知ってるひとは少ない。
それに、””もし””知っていたとしても、美味しい野菜料理を提供してくれる場所は低価格帯では存在しない。
だから、野菜を食べたいと思う人も少ないだろう。
野菜の美味しさに気づくことができなければ、野菜なんてモノは普通食べない。
「栄養をバランスよく摂るために、健康のために、食べ物の好き嫌いを減らそう!!」というのはとても日本的な思考で、そんなトンデモ論理がコロンビア人や途上国に受け入れられるはずもない。
好きなものを好きな分だけ食べることが、彼らの世界では当たり前で、嫌いなものを食べることにメリットはないのだ。
考え方を変えてみよう!
どうしてわれわれは自分が嫌いな食べ物を、努力して食べようとするのだろうか?
そして、その考え付いた理由は、嫌いな食べ物を食べることを正当に支持できているだろうか?途上国のひとに嫌いな食べ物を食べてもらうための、十分な説得力をその理由は持っていますか?
それに、今日はパスタを食べて、明日は蕎麦で、明後日はうどんで、明々後日はラーメン、4日目は寿司で、5日目は肉じゃがで、6日目はカレーで、7日目はお魚。こんなに食べ物のバリエーションがあって、そのなかから悠々自適に食べたいものを選べるのは東アジアくらいだろう。
コロンビアに野菜栽培を教えに行ったぼくだが、やはり栽培方法だけがうまくいっても、野菜の輪は広がらないし、健康的な生活は営まれにくい。
それでも、野菜をほとんど食べていなかった90農家のひとたちが、徐々に野菜を食べるようになったことは、
月並みだが、小さいけれど、とても大きな一歩だったように思う。
きっかけはいつも些細なことにすぎない。
おわりに:ジャンキーな世界のコロンビアにも、ベジタリアンはいます
コロンビアはハンバーガーやエンパナーダ、コカコーラ、とりあえずの鶏肉に代表されるように、私たち”ウサギの民”からしてみれば、ライオンのような人たちしかいない。
よくそんなに脂っこいものを毎日食べてられるなぁ
よくタルタルソースをハンバーガーに何重にもかけてられるなぁ
よく毎日毎日3時のおやつで、パンやコカコーラを飲んでいられるなぁ
よくフルーツジュースにそんなに沈殿して、溶解しないほどの砂糖を入れられるなぁ
そういう世界だ。
そういう世界で生活していると、胃腸がライオンのようになるので、かえって”ウサギのご飯”を食べると下痢になった。
野菜が毒であるかのように、体が反応するようになった。
海外旅行から帰ってきて、すぐにお寿司を食べると、おなかの調子が悪くなるのと似ている。
さて、ここまでコロンビア人は肉や炭水化物しか食べないような言い方をしてきたが、コロンビアにもベジタリアンがいる。
首都ボゴタには、上品なベジタリアン御用達のレストランが多くある。
ぼくが住んでいた第5の都市ブカラマンガ市には、そういうレストランはなかった。
それでも、コロンビアは年中フルーツがとれるので、ベジタリアンのひとたちはフルーツをたくさん食べていると言っていた。
2年間野菜をあまり食べない生活を送っていたが、血液検査も、肌あれも問題はなかった。
「日本人って肌綺麗だよね。でも、ここに来た頃は、もっと肌綺麗だったよね。やっぱりコロンビアの食生活だと、肌が荒れるんだわ」と、ぼくは野菜の大切さを彼らに伝えるために、2年間野菜の少量摂取の人体実験をしていたのだった。
肌を綺麗にしたいなら、野菜の摂取も大切だけど、運動をして汗をかくことも大切であることを、偏食なのに綺麗なコロンビア人女性を見て実感するのだった。
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