【協力隊の心得】「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」よりも大切なことは、釣りの楽しさを知ってもらうこと

【協力隊の心得】「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」よりも大切なことは、釣りの楽しさを知ってもらうこと

授人以魚 不如授人以漁
魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ

老師のこの言葉はとても有名ですね。
国際協力のみならず、ひとに協力したいと考えているすべてのひとが知っている言葉でしょう。

意味は、
「飢えている人に魚をあげれば、その日、そのときは飢えを凌ぐことはできる。しかし、魚の釣り方を教えてあげれば、一生飢えることはない。」
ということだ。

モノを安易に与えるのではなく、きちんとその背景やプロセスを教えることの重要性を説いている。

 

コレ、実にもっともなことだとおもう。

大きな異論を持っているひとはいないのではないだろうか。

でも、ぼくは魚を与えることも大切なことだと思っている。
この老子の言葉は、魚を与えること自体を否定しているわけではない。
「魚を与え続けていては、そのひとは成長することができない。だから、その根幹を支えるもの(この場合魚の釣り方)を教えることで、そのひとの自助成長を支えよう。」

実際に、飢えた人の前で、老子が発した言葉ではないと思う。
これは、そういう考え方、取り組み方、人の成長を見守ることの大切さを概念的に説いた言葉だろう。

 

なぜなら、本当に飢えているひとのまえで、食料の栽培方法を教えている猶予などないし、それを素直に受けいることができる心の余裕があるはずなどないから。
ぼくはコロンビアでそういう場面にたくさん出会った。
この「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」という言葉が、援助方法の概念を説いているものであって、実際に飢えている人の前で発するべき言葉ではないことはよくわかる。

ぼくはそういう場面に出会って、魚を与えることの大切さも理解している。
飢えている人には即時の食料を与えて、そこから釣りの仕方を教える必要があるのだ。

「腹が減っては戦はできぬ」
お腹ペコペコの状態では人の話を聞く気もでないし、そんな高尚な話を冷静に建設的に理解する気などない。

平井堅の曲のなかに、
「お腹がすくと機嫌が悪くなって黙り込む」というフレーズがある。
毎日毎日吐くほど食べことができるわれわれだって、お腹がすけばイライラしてくるひとがいるのだ。
ぼくもその気がある。

 

【財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上】
三流は金を遺し、二流は名を遺す。しかし、一流は人を遺す。

この魚の格言の延長線上にあるような、より長いスパンで考えた際の生き様を表した言葉である。

 

 

「魚を与えること」が悪いわけではない

国際協力などというマクロな視点ではなく、友人を助けるというミクロなシチュエーションで考えてみよう。
人間関係は突き詰めれば、1対1の関係にすぎない。

友人がお金に困っている。
当然のことながら、「お金に困ってしまった根本的な理由」をきちんと整理する必要があるだろう。
なぜなら、そういう風に”望まない状況”に陥ってしまった理由・原因があるからだ。
そして、今後同じパターンでお金に困ることがないように、堅実な貯金方法や無駄な支出を減らす工夫などをアドバイスしてあげたりする。
そのうえで、喫緊でお金が必要であれば、その友人にお金を貸す。

この流れは普通のことである。

 

お金の例はミスだった気がする。笑
お金の貸し借りは信頼関係による部分が大きいからね。

 

 

僕が言いたいのは、
「魚を与える」ことは、短期的かつ流動的な援助(フロー)
「釣り方を教える」ことは、中長期的な援助(ストック)
ということだ。

ぼくはそうに理解している。
だから、この言葉通りに意味を理解し、「魚を与えることは悪いこと。相手の成長チャンスを奪ってしまう」とは、安易に考えてほしくない。
もちろん、日本社会での育児や部下育成などでは、一般的な理解で問題ないだろう。
そして、協力隊員が現地のひとにアプローチする心得としても合っている。
しかし、現場に出て、実際にそういう場面に遭遇したときは、魚を与えることも大切なことだ。

 

無論、人助けをしたい、飢えをなくしたい、子どもたちに将来の選択肢を持ってほしいと願ってやまない人たちが、現場でそういう場面に直面すれば、「何もせずにはいられない」ものだ!!

 

協力隊の強み:知った現場の分だけ、イメージできるシチュエーションの数が増える

繰り返しになるが、
飢えている人にはお腹を満たす食べ物が必要だ。
それを「コメを植えて、コメが実るまで待ちましょうね。お米の作り方を知っていれば、これからお腹いっぱい食べていけるからね!!」と伝えても、絶対に付いてこない。
お米を栽培しているときに、餓死してしまう。

だから、飢えを凌げる食料を与えつつ、徐々に上手にその食料の栽培方法を伝授していくべきなのである。
相手をやる気にさせるような伝授方法を学ぶこと。

「魚の釣り方」だけを教えるのではなくて、
釣りをするとどういうメリットがあるのか。
釣りのどういった部分が楽しいのか。
釣り方を学んで、習慣的に釣りをするようになるとどう人生が変わる可能性があるのか。
釣り以外には、魚を捕まえる方法はないのか?
魚以外の食べ物ではだめなのか?
魚釣りをするのと畑で栽培するの、どちらがそのひと(もしくは自分)に合っているのか?

魚を釣ることを自体に、相手に主導権を持たせて、率先して魚釣りをしたくなるように促す。
自分たちで考えて、自分たちの気持ちで、自分たちの欲望によって、釣りを始めること。

などなど。
魚の釣り方のほかに、「釣り」の全貌を示してあげることが国際協力の現場では重要だろう。

 

これこそが国際協力を志すひと、国際協力を行っているひとが考えなくてはいけない部分だろう。
技術や発展ビジョンの全貌を把握したうえで、たくさん頭のなかでシミュレーションすることができるひとは、強い。
自分のなかに、アプローチ方法の選択肢がたくさんあるということを意味するからだ。
そして、そうにパターン分けでたくさんの選択肢を持つことができるひとというのは、必然的に多くの「現場」をイメージすることができるひとであり、様々なタイプの「現地のひと」をイメージすることができるひとなのだろう。

これが国際協力の現場で培われる経験であり、国際協力の現場にいる・いた青年海外協力隊員の強みでもある。
現場を知っていることは、その現場の数だけシチュエーションを知っていることなのだ。

 

 

 

 

まぁこんなことを言ってみても、ぼくが働いていた農業プロジェクトはプロジェクト資金で農家さんたちに有機肥料をプレゼントしたりしていた。
有機肥料の作り方のワークショップをしていたのにもかかわらず、である。
だから、農家さんたちをプロジェクト依存にしてしまう、この「魚を与え続ける」タイプのプロジェクト支援方法が好きになれなかった。
そもそも、協力隊員として活動していると、意外と協力活動の膜の数が多いことに気付く。いきなり、対象農家さんまでたどり着かないのだ。まず、配属先の同僚たちの考え方を理解して、その援助コンセプトを改善したりする必要がある。
でも、2年間だけで、そんなたくさんの膜を突破して、いろいろすべて良い方向に促すことは無理である。
無理無理。どれだけ頑張っても無理だ。
表面の技術を教えることは比較的簡単でも、根底にあるコンセプトを変えるようなインパクトを残すのには時間がかかる。それは思考パターンや文化・習慣などによって長い間培われてきたものだから。

「有機肥料をプレゼントは農家のやる気を削ぐから徐々に辞めていったり、費用の半分は農家さんに負担してもらう形にしないと。プロジェクトが終わった後、農家さんたちに何も残らないよ。」と言っても、響かないのであった。

 

 

なぜこの記事を書こうと思ったのか?

この記事、本当はこの魚の格言の続きをたまたま目にしたから書こうと思ったのだが、その続編をどこで見かけたのか忘れてしまい、迷子になってしまった。

その続編は、老子の格言を現代社会バージョンにしたもので、

『飢えを凌ぐためには魚をただ与えるだけではだめだ。魚の釣り方を教えなくてはいけない。でも実は、その釣り方を教えた川は上流が汚染されていて、そこで飢えを凌ぐために釣りをマスターしたその人は、汚染された魚を食べ続けて死んでしまった。』
のようなストーリーだった。

 

これを読んだときに、「現代社会は本当にそういう盲目的に技術を教えたり、導入するパターンが多いな」と自分の協力隊経験を通じて、感じることがあったので紹介したかった。

続編を見つけたら、記事に書こうと思う。

 

なにかをひとに教える。
それは非常に自然と行われる、素晴らしいことのひとつである。

しかし、ウソを真実のように教えてしまえば、そのウソが広まっていく。
だから、教える側はしっかりと事実を正しく理解している必要がある。
本を数冊読んだ程度で知った気になって、あたかもその知識が疑いようもない絶対的に正しいモノだと妄信してはいけない。
だからこそ、常に学ぶ必要があって、常に正しい情報がどれなのかを判断できるような判断能力を養わなくてはいけないのだろう。

 

自分がほかの人に話した情報が”真実”であるかどうかを保証するのは、自分の倫理観とその相手の自分に対する信頼である。
信頼されていなければ、真実だろうと嘘だろうと、それはすべてウソなのである。
だからこそ、自分で理由やメカニズムがわかっていないことを”真実のように”自信満々で話している場面に出くわすと、「このひとは、その真実のようなウソによって、ほかの人の人生が狂ったらどうするんだろう??」と、一応心配してみるのである。

 

テキトーなことを言っているひと、意外と多いこの世のなかである。

 


1日1クリック、お願いします!
ランキング参加中♪ →青年海外協力隊

応援いただけると、嬉しいです

*ただのブログ村のリンクです

スポンサードリンク
 




 




 

Chaito

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)