絵馬に書くことはありません。神にお願いせずに歩むこと。コロンビア人の「神様」感覚

お寺や神社に行くと、絵馬が目に入る。
有名な場所に行けば、脇にたくさんの絵馬が並んでいて、とても日本らしさを感じる。

先日七夕があった。
その延長線上の感覚で、明治神宮にかけられた願掛け絵馬を後ろに手をかけながら、子どもの事業参観を見守る親のごとく、神への願い事を眺めていた。

思い思いの願い事が書いてあった。
外国の旅行客が多いこともあって、英語で書かれた絵馬も多かった。

 

一緒に参拝をしていた友だちに、「絵馬書く??」と訊かれた。

神にお願いすることって、なんだ?
今まで、神様にどういうお願い事してきたんだっけ?

 

その質問を通して、コロンビアで過ごした2年間によって、自分のなかの「神」の存在が2年前と変わっていることに気付いた。

 

 

コロンビアでは、頻繁に「神がそう望むであれば、、、、」という枕詞を使う

Si dios quiere, nos veremos.
もし神が望むのであれば、また会おう。

 

「もし神が望むのであれば」

このフレーズをたくさん耳にした。
友だちをご飯に誘うとき、「もし神が望むのであれば、今夜ご飯に行こう」。
「もし神が望むのであれば、来週また会いましょう」。

 

神が望まなかったら、ご飯に行かないの??

ぼくはこの疑問を毎回彼らにぶつけていた。
ご飯に行くだけなのに、なんでそこに神が出てきて、しかも、神が許さなくちゃいけないのかが感覚的に理解できなかった。

われわれが持っていない神への感覚だろう。

もちろん、このフレーズが常套句になっていて、意味を深く考えずに言っている可能性もある。
でも、無信教のコロンビア人は、絶対にこのフレーズを言わない。
だから、習慣的に考えなしに使っているわけではなく、神への信仰心の一部に基づいて表現していることは事実だ。

 

「もし神が望むのであれば、今夜ご飯に行こう」

このフレーズの意味は、
「今夜あなたとご飯に行きたいと思っているし、行くつもりでいる。そうに予定も組んである。でも、実際これから何が起きるかわからない。レストランに向かっている最中に事故に会ってしまうかもしれないし、家族の誰かがアクシデントに巻き込まれて病院に付き添わなくてはいけなくなるかもしれない。それは誰もわからないこと。でも、神だけはそれを唯一知っている存在。だから、『神が私たちが今夜無事出会うことを望むのであれば』、私たちはきっと今夜一緒にご飯を食べることができる」。

 

こういう考え方に支えられている。
神への信仰心、つまり、宗教的な思考に基づいて、彼らが物事を考えていることがよくわかるフレーズだ。

 

誕生日のときは、「神のご加護がありますように」

 

ぼくは誕生日を盛大に祝うことも、祝われることもあまり好きではないが、コロンビアではたくさんの友人や家族を招いて盛大に祝いたがる。
その一方で、その反動からか、こじんまりとしたパーティーを好む人も少なくない。

 

誕生日会では、必ず「Dios te bendiga 君に神のご加護がありますように」というフレーズで祝福する。
でも、意外にもこのフレーズを使うひとをきちんと選別しているときがある。

それは「(彼らにとっての)神」を信仰していない場合、このフレーズを言うことを躊躇するのだ。
だから、ぼくの誕生日会では、多くのひとが僕に対して「神のご加護を」といつものように言ってきたが、なかには、「ジュンペイは神を信じていないかもしれないけど、『神のご加護を』」と言ってきたり、なかには僕に対しては「神」という言葉自体を使ってこないひともいた。

ぼくが彼らと同じ「神」を信仰していないからだ。

*多くのコロンビア友人は、あまり深く考えずに普段通りに「神のご加護を」と言ってきます。

 

このフレーズからわかるのは、
「神のご加護があるからここまで無事年を重ねることができた。そして、これからももっとたくさん年を重ねていってね。神が見守ってくれているし、これからも変わらず神が支えてくれるからね。誕生日おめでとう。」
という神への感謝の気持ちがとても身近にあることだ。

 

ぼくは誕生日のときに、家族や自分と関係するすべての人に対して感謝の気持ちを抱くが、「神」に対して感謝したことはなかった。
神社や寺院で神に対して、「今年一年素晴らしい年になりますように」と願うことはあっても、「今年もまた一年私のことを見守っていてください」と念じたことはない。
もちろん、お墓参りしたときにそうに報告し、守護霊として見守っていてねと念じることはある。
その化身も神の一部であると考えれば、話は変わるのかもしれない。

 

あなたは、誕生日のときに人だけでなく、「神」に対しても感謝の気持ちを向けたことがありますか??

 

 

神に願うのは、神を経由して自分に打ち勝つため

*僕の宗教観で書いてます。


神というのは心のなかにいる。
コロンビア人に「神はどこにいるの?」と訊くと、空を見上げる。

でも、空にいるわけではない。
空にいると信仰しているのだ。
実際にそこに物体があるわけではないからだ。

ぼくは、自分の守護霊は背中側に居る感覚をもっているが、実際にそこに「居る」わけではない。
そうに思っているから、そうに心で願っているから、そこに感じるのだろう。

 

もし神というのが空に居るのであれば、すべてのひとがその神の存在を信じるだろう。
なぜなら、「空に神が居る」ということを証明できるのだから。
しかし、現実問題そうではない。

だから、日本人でも多くの人が「無信教である」と答える。
日本に住んでいる以上、必然的に仏教と神道の行事や思考に触れてしまうので、個人的にはすくなからず仏教徒であるような気がするのだが、日本人の多くは無信教だそうだ。

 

ちなみに、コロンビアでは出会って5個目以内の質問で必ず「あなたの宗教はなに?」と訊かれる。
ぼくは「仏教と神道だよ」と答えていた。
「このふたつの宗教はくっついていて、1つの宗教のようになっている。簡単に言えば、自然が神様みたいなもので、800万以上の神を信仰しているということさ。数えられないほどたくさんの神がいるんだよ」と簡単に説明していた。

 

冒頭の絵馬の話に戻るが、ぼくはぼくの心のなかに神を飼っていない。
神は自分の周りに居るものだと考えている。
だから、神になにかをお願いすることはない。

お守りみたいな感じだ。
お守りはストラップ的に自分の身の回りに携えるわけだが、それは自分を守ってくれるからだ。
それを持っていることで、そのお守りの神様が自分を加護してくれているようなイメージをまとうことができる。

幼少のころ、毎朝家族に連れられて散歩をしていた。
家の近くに神社があるので、必ず2礼2拍手1礼をして、神様に挨拶をしていた。
お蚕様の碩もあるので、そこにも挨拶していた。

最近も走ったり、散歩に出かけるときは、神様への挨拶をする。
それが礼儀であると思っているからだ。
でも、何か願ったりすることはない。なかったと思う。

ぼくは小さいころから、獅子舞をしていてよくその神社で舞っていた。今でも祭りで舞うことがある。
だから、神社はかなり身近な存在であり、そこに神様が居座っているイメージを持っている。
また、保育園がお寺だったので、お墓参りのときに母校に帰ってきたかの如くお寺の前を通過するが、そこに畏敬の念を感じる。

近況を報告することはあっても、なにかを願うことはない。

なにかを願うのは、クリスマスのサンタさんへとお正月のお年玉くらいだった気がする。
誕生日に駄々をこねて、ゲームボーイのカセットを買ってもらったりしたこともある。

 

でも、なぜぼくは神様にお願いごとをしないのだろうか?
この数日間、自問自答していた。

なんとなく思うのは、神頼みで最近生きていなかったからなのではないかということだ。
神に頼むようなことがない。
地にべったり足を付けて歩いていて、計画を立てている。
だから、それを超越した”無理な”願い事が浮かばない。まさしく、イメージ能力の欠如である。

いつも身近で見守っていてくれて、それでこれまでもアクシデントなく、健康を害さずに生活することができている。
そしてそれを日ごろから、他愛のない日々に感謝して生きている。
だから、それ以上に何を望めばいいかがわからない。

神に願っても、それは自分で自分の背中を押してくれるだけだろう。
その「自分の背中を押してくれるパワー」を神様経由で、自分自身に注入しているのだ。
自分の力でうまくいったことも、「ああ、これはきっとあのとき絵馬に書いたことが叶ったからだ」と神様に感謝するようになる。

個人の宗教観によるが、
ぼくは自分たちのことは自分たちのことであって、神はそれを見守っているだけだと信じている。

だから、自分の内側にベクトルを向けて、そのなかでうまくできているのであれば、神様にお願いごとをしなくても良いことはやってくる と思っている。

 

コロンビアで私が見るおばけはどんなおばけ?

最後に。

ぼくはおばけを見たことがない。
でも、コロンビアでぼくが見るお化けはどんなおばけなのだろうか?

おばけというのは、自分のなかの怖いイメージが具現化したものであるような気がする。

座敷童が髪の長い小さいな女の子であったとすれば、ぼくがコロンビアにいる間にその女の子がコロンビアまで出張することはありえるのだろうか??

 

コロンビアで住んでいるときに、アパートに僕しかいない日が何日もあった。
異様に静かで、薄暗い。廊下の角を曲がったら、ワッとおばけが驚かしてきそうだった。

でも、そのおばけは何人なのだろうか?
コロンビア人のご当地おばけなのだろうか。
それとも、ぼくのおばけイメージに沿った、日本からの出張おばけなのだろうか。

はたまた、そのおばけはスペイン語を話すのだろうか、日本語を話すのだろうか。
スペイン植民地のころの地縛霊がでてきたら、インディアン語を話してくるかもしれない。

もしかしたら、おばけのコミュニケーションスキルがとても高くて、言語を介さずに脳内に直接語りかけてくるタイプなのかもしれない。

 

そんなことばかり考えていたから、コロンビアでは薄暗い場所でもおばけの怖さを感じなかった。

こういう話をコロンビアの友人や家族と話していると、意外にも共感してくれるようで笑い話になるのである。

良いお化けと悪いお化けがいるのは、世界共通のようであった。

 


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Chaito

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