謙遜に見せかけた“自虐風自慢”のめんどくささ:可愛いなら「私、可愛いでしょ」でいいじゃん
日本の芸能の世界に住む人たちは、その多くが容姿を売りにしている。
彼らのインタビューなんかを聞いてると、毎回心の奥がザワザワする。
レポーター:今日もお綺麗ですね!!
女優様:いや、そんなことないですよ。
いやいや、(容姿だけではないが)容姿を売りにしているのだから、そこは「ありがとうございます」でいいでしょ。
なぜ、「自分がかっこいい」ということ、「自分がかわいい」ということを、『いやいや、そんなことないですよ!』と否定するのだろうか?
それが謙遜であることは容易に気が付く。
でも、その返答が否定文によって形成されていることは、どれだけのひとが気づいているだろうか。
目次 Índice
かっこいいって言われたら、「ありがとうございます」以外になにを望む?
ぼくは、大学生のころ、ひょんなことから横浜市の4,5校で宿泊ボランティアをさせてもらっていた。高学年の生徒たちの臨海学校や林間学校の補助ボランティアのようなものだ。
子どもたちの世界というのは、無限の可能性を秘めているものの、僕ら大人ほど物事を達観してみていないので、彼らの世界は狭い。
そのため、ボランティアとして若い人が行けば、ざわつくのだ。チヤホヤされると言ってもいいかもしれない。
いつも学校には、大人は先生しかいないから、それ以外の人がいるとそれだけで刺激になるのだ。
それが良い刺激になるか、はたまた悪い刺激になるかは捉え方次第だし、ボランティア次第だ。
ぼくは教職免許を持っていないし、学校で“先生”として働いたことがない。子どもの発達や子どもを教育する際の注意点も知らない。だから、子どもたちとの距離の取り方や接し方、さらには学校の先生たちとの接し方や働き方を理解するのに何回かのボランティア経験が必要だった。
協力隊みたいなものだ。相手が何をボランティアに求めているかを、把握できるとちょっとした事でも心が落ち着くのだ。
子どもと遊んだり、話したりするのが好きなので、仲良くなるのは早い。コロンビアでも同じだ。
精神年齢が近いからだと思う。だから、周りから「そんな、迷惑かかることしちゃダメでしょ。困っちゃうじゃない」と言ってもらえるのだが、僕自身は鬱陶しくも感じないし、むしろ一緒に遊べて心が若返るのだ。
そういう風に、外的刺激と化した僕は、1年に1度の宿泊イベントにしか参加しないから、子どもにとっても僕にとっても良い思い出しか残らない。
だから、その翌年に一学年成長して子どもたちに会うと、ファンがいたりする。
4,5,6年生は、女の子のほうが分別が良く、思春期に入るからか、僕のことを「カッコいい」と遠くから言ってくれる。
見る目があるなぁ と思うわけだ。
四年生から、五年生、六年生と、3回毎年そのイベントのとき限定で会うと、みんなパッと見てわかるほど成長していて、嬉しくなった。
毎年ボランティアとして声をかけてもらっていたので、そのファンの輪は広がり、学校の先生たちにも「王子さまだから、モテモテだね〜」とからかわれていた。
ぼくは人に褒められるとき「ははは、ありがとうございます!」と答えるようにしている。
絶対に「そんなことないですよ(謙遜)」とは言わないようにしている。
それは謙遜ではないからだ。
というか、相手が褒めてくれているのに、自分がへりくだって、「いやいや、そんなことないですよ。」というやりとりのなかで何か生まれるものがあるのだろうか?
そのあとに、一拍『それで??本心はなんなんだ?』と探りを入れる時間が生まれるだけだろう。
だから、ぼくは「ありがとうございます」で済ます。
それを好意的に受け取る努力をする。
なぜか???
「そんなことないですよ」というのは、否定語だからだ。
その返答は相手の問いかけを否定しているのだ。
もちろん、強い否定ではない。文脈上は気づかないレベルの潜在的な否定だ。
だから、「そんなことないですよ」と言われた側も、あまり気にしない。そういう謙遜の社交辞令が返ってくるのが当たり前だと思っているからだ。
でも、たとえば
男性が同い年の女性と会ったときに「今日もお綺麗ですね」と勇気を出して褒めたとしよう。そのとき、「いやいや、そんなことないですよ」とその女性が返してきたらどう感じるだろう。
ぼくは、「勇気を出して褒めたけど、真に受けてくれたわけではないんだな」と潜在的に感じると思う。そうに頭のなかで瞬時に理解することはない。でも、単純に考えて、勇気を出した発言を謙遜と言う名で否定しているわけだから、良い気持ちはしないだろう。
これが、ぼくが「そんなことないですよー」と言わない理由だ。
なにもナルシストになれ、と言ってるわけではない。
相手に配慮するのであれば、自分をへりくだらせて、相手を立てるのではなく、相手の発言とその勇気を受け止めてあげることのほうが心地良いだろう。
もちろん、そこには皮肉が含まれていたりするので、なかなか難しいが、皮肉だってそのまま飲み込んでしまえば、その皮肉爆弾を相手にそのまま投げ返すことができるのだ。
相手をイライラさせることを目的とした態度や言動に対して、同じ土俵までわざわば下りていく必要はないのだ。
たくさんの場面でぼくたちは「すみません」と言う
たしかに、すみませんは便利な言葉だ。目の前を通るときに「すみません」。
相手にぶつかったときに「すみません」。
誰かに話しかけるときに「すみません」。
相手が何かをしてくれたときに「すみません。ありがとうございます」。
ちょっといいですか。ごめんなさい。ありがとう。の代わりに、便利な「すみません」を使いたがる。
でも、外国語を学んで話そうとすると、自分だけ異様に「すみません」と言ってるように感じる。
なぜなら、外国語では多くの場合、「ありがとう」を使うからだ。
相手の邪魔をしてしまっても、相手がそれに親切に答えてくれれば、「ありがとう。助かりました!」で良いのだ。
相手が受け入れてくれたことに感謝を示せば、それで済む話なのだ。
もちろん、話しかけるときに、「すみません、手伝ってもらえますか」と軽くとっかかりを作ることは大切だ。
一度へりくだった態度を見せる「すみません」をつけることで、相手を立てているのだろう。日本語では。
それが悪いわけではない。
でも、そうにやって心理学的にと言うか、自分の価値を下げ、相手を立てるために謙遜の意の元、文法的に否定語となる文章を使うのは、潜在的に自分の幸福感を下げていると思う。
コロンビア人は褒められたら丸呑みする
同僚たちは、毎回毎回ちょっとした成功を褒めに褒めて大絶賛している。
ぼくはそれを「計画をしっかり立ててれば、それはその過程で得られる、その辺に転がってる小さな成功だから」と思ってしまうのだが、この大絶賛はコロンビア人の幸福度が高い1つの理由だろう。
褒めて、褒められると居心地の悪さを感じるのはぼくがその文化に慣れていないからだろう。
たとえば、同僚たちはときどきからかいの意も込めて「今日もかっこいいねー」と言うのだが、それを否定することはない。かならず、「ありがとう」と言う。もしくは、「キミも服が似合っていていいね」と返す。
そのやりとりを聞いているたびに、謙遜という日本の文化を実感する。
何かを話すときに、僕はこうに思うよという意味を伝えるために「creo 〜僕は思う」という単語を僕は使う。僕の意見と一般的な意見、科学的なことを区別するためだ。でも、コロンビアではこの単語を連発すると「自分の意見に自信がない」と見なされる。
こうに思うんだよね。〇〇だから、こうだと思うよ。そうそう。だから、こっちのほうがいいと思うよ!
僕は「〜だと思う」をこんなにたくさんは使わないけど、この上の例のようだ。
この言い回しが同僚からすると、不確実さを強く感じるようで、「自信があることなら、『〜だと思う』って言わなくていいんだよ。その表現は自信がないようにうつるから」と言われたことがある。
いずれにせよ、コロンビアでは人を褒めることも、人に褒められることも快く受け入れている。これに慣れてない日本人女性が、「今日も綺麗だね」と言ってくれる外国の男性に惹かれるのかもしれない。そういう点では、我々男性も、大切な人をきちんと褒めてあげることが大切だろう。
褒められて、嫌な気持ちになる人はいないのだから。
芸能人は頼むから、「そんなことないですよー」とは言わないでほしい
インタビューやテレビ番組で、綺麗な女優さんが「やっぱりお綺麗ですねー」という指摘に対して、「そんなことないですよー」と言う。
綺麗なんだから、「ありがとうございます。ニコッ」で良いじゃないかといつも思う。
その「ありがとうございます」は、傲慢さではなく、相手への配慮の意味を持つ。
特に容姿を少なからず売りにしているのなら、それを否定するべきではない。
ある漫画で納得のいく説明があったので紹介しよう。
おわりに
これを書いた理由は、たまたま芸能コラムを読んだときに、
「今日も綺麗ですね」「そんなことないですよ」という、しょうもないやりとりで5行ぐらいスペースを消費していたから。
ぼくは、カッコいいとか、モテるでしょと言われても、「まぁ、ぼちぼちですかね」と言って、笑い話っぽくする。自分を低く見積もる必要はないし、相手のその勇気を受け止めたいからだ。
男でもなかなか、「綺麗ですね」とか「素敵ですね」とは勇気なしでは言えないものだ。
女性も「カッコいいですね」とは勇気を振り絞らなければ、なかなか言えないだろう。
だから、その勇気を一度受け止めることが大切だと思う。
どこかの心理学者も同じようなことを言っていて、「自分の考え方や潜在的な違和感は間違っていなかったんだな」と思った。
謙遜も大切なことだけれど、謙遜だけがその方法ではないということを言いたかった。
これからは、ももちのようにみんなが自信を持って、自分という存在と価値を大切にしながら、人間関係がもう少し心地の良い世界なっていってくれるとぼくは嬉しい。
ちなみに、ぼくはハロプロの中では、モー娘。の石田あゆみが好きです。
Chao
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